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2014年9月21日 主日朝礼拝説教  「私たちは笑う」

2014年9月21日 主日朝礼拝説教  「私たちは笑う」

説教者 山本 裕司 牧師

ルカによる福音書 6:17~26



「今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。」

(ルカによる福音書6:21b)



 私たちの礼拝堂は、中山道に面しているわりには外の騒音が入りくい、本当に良い会堂です。この先達から受け継いだ美しく静かな礼拝堂で礼拝を始めることの出来る私たちの幸い、その祝福を思います。しかし、そうは言っても、私たちの教会はお宮のように、鎮守の森の中にあるわけではありません。町の中に建ちます。どうしても、外の騒音が入り込んできます。今日は白山神社のお祭りの日ですが、神輿が通れば太鼓の音で賑やかになることでしょう。水曜夕の祈祷会の時、トラックが脇を通れば地震のように集会室が震えることもあります。そのように私たちの礼拝、私たちの祈り、これは外のざわめきから隔絶されたところでなされるわけではありません。そもそも私たち自身が、静かな心でここに入って来るわけではありません。一週の内に経験した痛みや悲哀、その不幸な記憶が、まだ心の中を駆け巡っているかもしれない。葛藤が心の中で音をたててぶつかり合っている、その心のまま会堂に入る主日もある。しかし礼拝はどよめきに負けない。この会堂に厳重な防音装置を施し、何としても音を入れない、それでようやく礼拝が出来るというのではありません。あるいは、司式者、説教者の声、会衆の賛美の大きさが騒音に勝るというだけでもない。そうではなく、神が闇のただ中に、「光あれ」(創世記1:3)と、光を創造して下さった、それと似て、主イエスが私たちの騒ぎ立つ心に、静けさを創造して下さる。そして礼拝が終わると、私たちは、神の静けさを携えて中山道へ出て行きます。しかし、その時は既に、町の喧噪に一週間耐えることの出来る力が与えられているのです。礼拝とは何と素晴らしいことでしょうか。


 今朝与えられましたルカ福音書は、平行記事・マタイ福音書では「山上の説教」と呼ばれる有名な箇所です。しかしルカでは「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」(6:17)とあって、「平地の説教」です。主イエスはいろいろな所で似た説教をされたと思います。ルカはその中で、特に「幸い」が告げられる「場」を、あえて「平らな所」とした。それは私たちの生活の場が「平地」だからではないでしょうか。主の与えて下さる幸いとは、山上のような巷を遠く離れた所で、ようやく発揮されるものではありません。福音の静けさは、20節以下で言えば、貧しさと飢え、そして泣く他はない場、22節では、憎まれるという、騒ぎ立つ心、その喧噪のただ中でその力を現すと、ルカは主の御心を理解したのではないでしょうか。詩編詩人も共通の心をこう歌っています。


 「主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる。/大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。」(93:3~4)


 宮田光雄先生は、スイスの画家、ヴィリ・フリースの1955年の作品「放蕩息子」を紹介しています。その壁画はどうしたことでしょうか、教会の中に描かれたのではありません。それは自動車が排ガスをまき散らしながら走る、往来激しい道路に面して描かれています。その理由を作者はこう説明します。「教会に行くことも忘れて、喧噪と忙しさの中で、まさに放蕩息子のようになってしまった現代人が、この絵と対話を始めるためである」と。


 「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。/今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。/人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。」(ルカ6:20~22)


 幸いである、幸いである、と繰り返されます。それは、飢えや悲しみ、憎しみが取り去られたから幸いであると言うのではありません。不幸と言わざるを得ない、そのただ中で、幸いである、そう言われるのです。


 「幸いである」、これは「祝福」を告げる言葉です。「おめでとう」と言い換えることが出来ます。礼拝の最後に私たちは「祝祷」という順序をもっています。しかしこれは実は祈りではない、と聞いたことがあります。「祝福」だと。祈りとは素晴らしいものですが、それはもしかしたら、未だ与えられていないものを求めるという意味になってしまうかもしれない。しかし、そういう祝福を求める祈りも、礼拝の終わりには、もはや必要はない。祝福そのものが、今、礼拝を終える私たちに与えられている。残されていることは、もう、それが宣言されるだけだ、あなたは祝福に充たされている、と、だから喜びなさいと、もう笑えるのだと、だから安心して行きなさいと、送り出される。それが終わりの言葉だと教えられるのです。

 しかしそこでです。「今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。」(6:21b)、改めて、何故、こんなことが言えるのですか、そう問わざるを得ません。


 再び宮田先生の引用をしますと、先生は、別のところで、キリスト教の笑いとユーモアについて書きました。教会の笑いとは、どこで生まれてくるのでしょうか。私たちはそれこそ、山上で有頂天になる時笑うと思うかもしれない。しかしその笑いは、実は、「今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる」(6:25b)、そう言われる短命な笑いと関係があるのではないでしょうか。そうでなく、信仰とは、涙のただ中で笑う、そのような逆転した力なのです。

 その不思議な信仰の力を、この地上に取り戻したのが、宗教改革者ルターですが、彼こそキリスト教の笑いとユーモアの最大の理解者であった、それは決して偶然でないと、宮田先生は語っています。教皇派からいつ攻撃されるか分からない「憎しみ」のただ中にあって、ルター家にはいつも笑いとユーモアが充ちていた。それは、「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」(6:22)、この祝福を信じたからに違いない。

 ルターは他者の弱点に微笑みかけ、自分自身の弱さを笑い飛ばす。自分の丈夫でない足をからかい、手紙では「弱き人マルティン博士」と茶化してみせた。このような精神の動きは「安全弁」と解説されます。宗教改革という、世界を揺り動かす大事業の中心にあるルターです。実際、彼が自分を余りにも重大視すれば、宗教改革の重圧に押し潰されてしまったに違いない。ルターが自分を笑い飛ばす、その心は自分の活動を絶対化しないということです。自分の成功、不成功に全てがかかっているのではなく、最後は神が良いことをして下さるだろう、その余裕です。同時にどれ程巨大な敵の力であっても、御前にあって絶対化する必要なないとわきまえる、そうやって極限の緊張から自己を解放する、そこから生まれるのがユーモアです。しかし、ルターの戦いは余りに激しい。彼は恐怖の虜になることもありました。その時は、妻ケーテがルターを慰めたと言われます。ある時ルターは暗い顔をして帰宅すると、妻が黒い喪服をつけ泣いている(真似)のを見ます。何を悲しんでいるの、との問いに、妻は答えました。「マルティン、ごらんなさい。神様がお亡くなりになったのです。」、そこでルターは笑い出した。「ケーテ、お前の言うとおりだ。確かに、私は今日一日、あたかも神様が死んだように振る舞ってしまった。」こうしてルターは救われたと言うのです。

 天の神が生きていて下さりさえすれば、平地だろうと、どん底だろうと、陰府だろうと、私たちは、富み、満たされ、笑う、そこへと解き放たれる、それが出来ないとしたら、それは神のお葬式の日以外にはない、そうケーテはパフォーマンスを持って、夫に教えたのです。


 言うまでもありません。神のお葬式の日は来ない。だから私たちから笑いとユーモアを取り去ることは、何ものにも出来はしない。そして私たちがもし、神なしに富み、神なしに満腹し、神なしに笑い、神なしにほめられているなら、それは不幸です。(6:24~26)、その喜びは、神なしでなされているが故に実に不確かなものです。この世の毀誉褒貶によって、一度、雑音が滑り込んできただけで、全てが崩れ去ってしまう、儚い幻のようなものでしかない、そう主イエスは言っておられる。


 神は生きておられる、この福音を本当に知る時、私たちは、貧しさに苦しみながら、実は本気では苦しめなくなる、どこか豊かな気持ちを捨てることが出来ない。飢える時も、何故か満たされている思いから離れることは出来ない。泣いていながら、どこか本気で泣いていない、そして明日になったら、笑えるだろうという望みを忘れることはない。人に憎まれながら、憎まれていることを忘れることが出来る。そんな不思議な精神状態になる。主イエスは強く、大きい。私たちの弱さより、罪より、病気より、不幸より、死より、強い。この神の大きさに勝つ私たちの悲しみはない。私たちは、今朝再び、この幸いの中に、祝福の中に入れられたことを心より感謝したい。もう一度主の御言葉を、この美しい礼拝堂の静けさの中で聴き、平安の内に、それぞれの持ち場に出て行きましょう。


 「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。/今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。」(ルカ6:20~22)



 祈りましょう。  主なる神様、今、私たちの貧しい心と弱い体を、あなたの愛と命によって覆い包んで下さい。その大いなる祝福によって、今、私たちを笑わせて下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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