2014年7月6日 主日朝礼拝説教 「人里を離れる主」

説教者 山本 裕司 牧師

ルカによる福音書 4:38~44



 「朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。」      (ルカによる福音書4:42)

 主イエスの伝道の始めを、後の人は称して「ガリラヤの春」と呼びました。それは、主の御受難の季節を「エルサレムの冬」と呼ぶこととの対照をなしています。確かにガリラヤの畔・カファルナウムでの主のお働きは、ほとばしる春の生命を連想させる成功に彩られているように見えます。安息日の会堂での主の説教は「権威」(ルカ4:32、4:36)に満ち、会衆を驚かせ、悪霊に発せられる言葉は、天地創造の神の言葉と同様の「力」(4:36)ある言葉であります。どれ程深い闇の世界であっても「光あれ」(創世記1:3)と呼ばれれば、「光があった」と続かざるを得なかった。それと同様に「この人から出て行け」(4:35)との言葉に、悪霊は出て行かざるを得ない、かくしてここに「現実となる言葉」が出現したのであります。

 主イエスはその後、シモンの家に招かれる。そこには姑が高熱で苦しんでいました。主は、熱を叱りつけられた、すると同様に、病気もまた「言葉」に従わざるを得ない。熱は去り姑は起き上がりました。安息日が終わった夕方になると、主イエスの評判を聞き付けた人々が、病人を抱えてシモンの家にやって来る。主は病人を癒され、わめく悪霊を黙らせられた。(ルカ4:40~41)、暗い冬であった所を、主イエスが通られる、すると、暖かい風が吹き始め、光の春が訪れる、砂漠であった所に、主が声を上げられる、すると、渇いた大地に水が湧き出て潤わし、枯れた草木に緑が芽吹き、モノクロの世界に色彩が溢れ出る。その春を求めてその夕、シモンの家は病人で溢れたのです。安息日開けの夕方から始まった癒しの業は、いつまで続いたのでしょうか。「朝になると」(4:42)とありますから、主は徹夜で御業をなし続けられたのかもしれません。そして「朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた」(4:42a)のです。お疲れになられたに違いありません。しかしそれは肉体の休息のためだけではなかったと思います。ここは「人里離れた所」と大変暗示的に訳されました。「人の里を離れる」と、それは「父なる神の里」に近づかれるためであった、そうこの翻訳は含蓄しようとしているのではないか。祈りのうちに、父の御心を聴かれるためであります。

 今、多くの牧師たちが霊的に病み、それが肉体や心の病に直結していることが報告されています。牧会に関わる研修会でも、以前は信徒の心の病とその牧会を研究していましたが、今は、180度代わって、牧師の心の問題が主題とされることが多くなりました。そのような時代の中で、私たちの属する北支区でも牧師のサバティカル(安息、研究休暇)についての話し合いが続いています。その中で私はカトリック司祭・実践神学教授ヘンリ・ナウエンから多くを学びました。彼の書『静まりから生まれるもの』という、その書名自体に主題が提示される書の中で、ナウエンは今朝のルカ4:42の平行記事、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコ1:35)、この御言葉を引用します。「病に苦しむ人々を癒し、悪霊を追い出し、町々を巡り、会堂から会堂へと教えて回る、こんな動きがいっぱいに詰まった文節に挟まれて、この静かな言葉がある…。多くの人々の問題に深く関わっている中で、独り退く時のことが語られています。行動のただ中に、沈黙の祈りがあります。そこにイエスの働きの秘訣があるのです。それは、人里離れた所に隠れ、祈ることにあるのです。独りになれる所で、イエスは、自分の思いではなく、神の御心に従う決断をする力を得ました。イエスは常々こう諭しています。「…わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」(ヨハネ福音書5:30)

 ナウエンは、これはイエス様のことだけでなく、私たち、牧師やキリスト者のことだと指摘してます。「独りきりになれる場所を持たなければ、私たちの心は、信仰の危機に瀕します。沈黙なくして語られる言葉はその意味を失う。聴くことなくして語られる言葉はもはや癒す力がない、〈つまり、その言葉には権威と力が失われる〉、そして、隔たりを持たない近さは救済をもたらさないことを、理解しなければなりません。」

 主イエスは人々から隔たり、神のもとに急がれました、それはナウエンが洞察したように、御子は父の御心を聴かないまま、何をしても空しいことを知っておられたのです。どれ程御自分が人々に評価され、喜ばれてもです。「人〈里〉から離れる」、人の眼差しから離れるのです。人の喝采から離れるのです。何よりも、大事なのは「人の言葉」から離れる。そして「神の言葉」に集中する。それなしに、私たちの一見、良い業すら、時に空しく、意味をなくしてしまい、逆に御国前進を妨害する悪魔の業に利用されることにだってなりかねないのです。

 ところが「群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた」(ルカ4:42b)のです。群衆の離れないで欲しい、その願いは、主イエスに対する真実の愛から出た言葉だったのでしょうか。そうではないのです。真に主を愛しているなら、御子が父の所へ急ぐのを喜んで受け入れるのではないでしょうか。しかし自分のことしか考えない群衆には、御子イエスに対する愛の配慮はありません。あるのは癒し(御利益)を求める独占欲ばかりです。

 先ほどから取り上げている「人里離れた所」(ルカ4:42a)とは、原文では「荒れ野」(4:1)と同じ言葉です。ここにもルカの暗示が込められているのかもしれません。ルカはここで、あの荒野の誘惑がまた始まっていると、読者に示そうとしているのかもしれません。荒野の誘惑の物語、そこで、悪魔は石をパンにしたり、悪魔に跪いたりした時、「国々の一切の権力と繁栄」は、イエスよお前のものとなると誘惑した。しかし主はそれを退けられました。まさに、人里離れた荒野の祈りの中で、父の御心が「そこにない」、その示しを受けられたに違いありません。カファルナウムの群衆は、悪魔のような悪意があったわけではない。しかしこの第2の荒野で、群衆が求めたことは、悪魔の誘いの言葉と重なるのです。

 それは自分たちの願いに即答する神です。人の思いにのみ仕える神です。しかし、主イエスが、人を離れて聴かれた御旨は、確かに、病の癒し、悪霊追放も含みますが、しかし、その中心は、「神の国の福音」でした。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」(4:43)、「神の国」とは「神の支配」のことです。それは、主イエスがここでシモンの姑を癒された姿に先ず現れています。「熱を叱りつけられ、熱を取り去った」(4:39)のです。悪霊の業と考えられていたその熱病が姑を支配しているのです。そこから解放して、神の支配のもとに女を移すことが主イエスのなさった福音宣教なのです。そして、私たちを熱病よりもっと深く支配しているものは罪です。自分の村に救いを独占しておこうという「エゴイズム」に代表される、罪です。御子イエスが自分たちのために、どれ程疲れても、知ったことではない、という「エゴイズム」の罪です。私たちは、罪のなどどうでも良いと思うかもしれない。それより、見に見える救い「家内安全商売繁盛無病息災学校合格結婚成就」の御利益が欲しいと、それが私たちの解放なのですと、私たちは主にお願いをします。しかし実は、私たちが罪の呪縛から解き放たれなければ、真実の「春」は決して来ないのであります。

 罪から解放されるとは、もう私たちが罪を犯さなくなるということではありません。罪が赦されるということです。御子が人里離れて、父の御心に聴従し、罪の赦しの御業に思いを集める時を境に、御子は地上の人気を失っていきます。そしてついに「エルサレムの冬」を迎えられる。人の役に立たない男だと、人々から見捨てられ十字架につけられた。ところが、あに図らんや、その十字架によって、私たちは、私たちを支配してきた罪から解き放たれるのです。神の国、神の支配が、始まりました。

 十字架の立つエルサレムの冬こそ、全ての人の春となる。私たちには悩みがあります。御自分や愛するご家族の病気がなかなか治らなくて、本当に辛い日を歩んでいる方々も、ここにおられます。しかし、主が既に、十字架の恵みによって、私たちを、神の国、神の憐れみの御支配の中に入れて下さっている、そこで、既に、私たちの支配者は、もはや、罪でも病気でも死でもなく、義と愛と命の主であられるのです。主が力ある言葉を発せられた時、その救いが実現する。闇の中にも光が生まれるのです。どうしてそんなことが出来たのでしょうか。主が御心を聴きに人里離れた所に行って下さったおかげであります。主が、私たちを離れて下さったことは、本当に良かったのです。主イエスにとってと言うより、私たちの救いにとって、それは大切なことだったのです。

 それは私たちの生き方の模範でもあります。密室の祈りのために独りとなる時を大切にしたい。神と一対一で向き合う時を作ることは、キリスト者にとって必須です。そうでないと、私たちはいつの間にか、人間の間違った期待に応えようとして、あらぬ方向へ行ってしまうかもしれない。だから「人里離れた所」で、御心を改めて示して頂き、「わたしは、神の国の福音を告げなければならない」と、また「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)と主が言われた、その最優先事項、神の国の前進、その宣教、伝道に集中する私たち西片町教会でありたい、そのように願います。

 祈りましょう。  主なる父なる神様、御子が、あなたの御言葉に従って、十字架について下さり、それによって、悪魔と罪の支配から、私たちを解放して下さり、御手の内に取り戻して下さった恵みに感謝を致します。そのあなたの御支配が私たちを覆っているいることを信じ、霊的健康を回復し、それが故に、肉体まで元気付けられる経験をすることが出来ますように、どうか西片町教会の兄弟姉妹、求道者の一人一人を、真の春の平安で充たして下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



a:2270 t:1 y:0