2014年6月15日 主日朝礼拝説教 「喜ばしい年はじまる」

説教者 山本 裕司 牧師

ルカによる福音書 4:14~30


 「主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

(ルカによる福音書 4:18~19)



 荒れ野の試みに勝利した主イエスは、ガリラヤを巡回伝道をされながら、御自身の故郷ナザレに帰られ、安息日にいつもの通り会堂に入られました。このユダヤ会堂における礼拝こそ、今朝、私たちがしている礼拝の原型です。神殿のような贅を尽くした建物でなく、簡素な会堂の中で、祈り、詩編を歌い、聖書朗読と説教を聞きます。絢爛な舞台装置の中で犠牲を燃やす祭儀による礼拝ではなく、「言葉による礼拝」です。言葉の力によってのみ作られる礼拝です。百年一日の如き祭儀ではなく、預言者的言葉こそが、新しい年を呼び起こすからです。主イエスはナザレの会堂で、幼い頃から言葉による礼拝を守ってこられました。長老の聖書朗読、ラビによる説教の時、今、皆さんがそうであるように、耳を澄ましておられたと思います。その言葉による礼拝の生活の中で、御子は父の声を聴き、御自身の生き方、その献身の志を深めていかれたのです。私たちの礼拝生活と同じです。

 そうやって、いつも講壇に向かって座っていた子どもが、だんだん成長して、ついに逆向き立つ日が来きます。役員に選出されて聖書朗読と祈りを受け持つ時が来る。召命を受けて神学校に入学した若者も暫く後に、くるっと向きを変えて、説教の第一声を語り始めるのです。私もまた神学生の上級となったある主日の夕礼拝、地下室のような講堂で、初めて会衆席に向かった時がありました。礼拝が終わると、牧師が握手をもって迎えてくれました。何故、自分がこちら側に立ったのだろうか、何か夢でも見ていたかのような気持ちがしたことを思い出します。しかし、これは起こらなければならないことです。その時、迎えてくれた恩師も既に死にました。どんなに分不相応でも、誰かが後を継がなければならないのです。そして、私は、ここにいる青年、あるいは教会学校の子どもたちの中から、会衆席から立ち上がって、この説教壇に上ってくる者がいつか現れる、そして説教者の交代が起こる日が来なければならない、そう思います。古い者が講壇を降り、新しい者が立つ、その時、教会に新しい年が来るのです。


 今、「新しい年」と言いました。それは私たちの新旧交代のこととして言うのは、いささか大袈裟かもしれません。実はこれは荒れ野から帰られた青年イエスがナザレの会堂に立った瞬間に起こった出来事です。いえ、会堂管理者は私たちの思いと同じく、ただ若い後継者を育てる意味で、断食の行を終えたイエスを指名しただけだったかもしれない。しかし、事態はその会堂司の思惑を一気に越えてしまう。確かに新旧交代が起こる、しかし、それはナザレの人々が願ったことを遙かに越えた、「新約、旧約」の交代となってしまった。宗教革命、新しい時代の出現であります。

 丁度、プログラムは預言書朗読の順番になっていました。イザヤの巻物を渡された主は、61章を読み始められました。「貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(4::18~19)、この「主の恵みの年」こそ、新しい年です。そして主イエスは説教席に座られました。「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。」(4:20)、固唾を飲む瞬間です。今、我々の村が生み出した新しい説教者がここに誕生する、その深い期待の中会衆は第一声を待った。「そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた」(4:21)、のです。それは最初、ナザレの人々が称賛を惜しまない「恵み深い言葉」(1:22)と感じられました。しかしそれで終わらない、最後、それは会衆から拒絶される問題説教として終わる。何故、最初は最高、最後は最低、そのようにナザレ人は聞く他はなかったのか。それほど、主イエスの言葉は新しかったということです。ここに立つ主イエスの御存在自体が、新しい時代を呼び覚ます「言葉」そのものであり、ナザレ人は、その神のスピードに付いて行くことが出来ません。


 注解によると、最初の肯定的な評価は、このイザヤの解放預言が、ナザレの我々に与えられると、聞いたからだと説明されます。この時、イエスのことを、村民は「ヨセフの子ではないか」(4:22)と言いました。その意味は、イエスは、ナザレのヨセフという父を持っている、生粋のナザレ人であると、だから当然、ナザレの癒やしのために、この若者は帰還したのだ、そういう思いです。実は主イエスは、聖霊によって乙女マリアから生まれたのであって、ヨセフと肉の繋がりはありません。しかし、ナザレの人々が、ここであえて、イエスをヨセフの子と呼んだのは、明らかに地縁血縁の強調です。この肉の繋がりをもって、同郷ナザレのために働く救い主としてイエスは期待された。あるいは、ヨセフは王ダビデの血統に属しますので、ユダヤ同胞の救いと解して、彼らはその説教を褒めたのです。

 しかし、実は、主と共に来臨する恵みの年とは、そのような民族主義を越えます。会衆席の賞賛を前に、しかし、主は御自分に対する期待を押し返すように言われる。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」(4:23)、医者が、他人ばかり世話をしている、そうではなく、自分自身、あるいは身内のために治療するのが筋だろう、そういうことわざをあげて、主は続けられる。ナザレの人よ、あなたたちは、カファルナウムの人を救うくらいなら、郷里ナザレのために先ず汗を流して欲しい、そう言うだろう。しかし、真の預言者は、そういうエゴイズムからの「解放と自由」を実現するために立つのだ。全ての「貧しい人に福音を告げ知らせ…圧迫されている人を自由に」(4:18)するのだ。だから真の「預言者は、自分の故郷では歓迎され」(4:24)なくなる、そう説教された。


 徳川時代、全ての土地に氏神を祭る神社があり、それを中心に人々は強く団結していました。氏子同士は相互に助け合うと同時に、氏子外の者を強く排除しました。徳川時代には、村々では「虫送り」が行われいました。稲に病気が出ると、当時の人々は稲に悪い虫が付いたと考えました。そこで村人は行列をつくり、鐘や太鼓を叩きながら隣村の境まで行進し、悪い虫を隣村へ送り込む。そして自分の村はその被害を免れたと考えました。しかし自分の村で困る悪い虫なら、隣村でも困るはずなのです。しかし、隣村の痛みはどうでも良かった。氏子同士はとろけるような愛に生き、しかし異質な者は過酷に扱う。愛はある。しかし、その愛には、はっきり「枠」があるのです。その愛は枠の外に流れ出すことはない。それで良いのか、と主は問われるのです。 


 ナザレのことだけでなく、主イエスがここで本当に言われたいのは「ユダヤ民族主義」の限界です。そこで、主は旧約の偉大な預言者2人を取り上げます。大飢饉の時エリヤが神様から遣わされたのは、イスラエルのやもめでなく、異邦の地シドンのサレプタのやもめだったと聖書にはあるのではないか。(4:26)、また預言者エリシャの場合も、彼が奇跡によって、重い皮膚病を清くした時、それはイスラエル人ではなかった、やはり異邦人・シリア人ナアマンだけではなかったか。(4:28)、預言者は人の作る地縁血縁の枠を越える。神は全ての人が「自由」とされる恵みの年・新約の朝をもたらそうとしておられる。そこで、なお自分さえよければ良いのか、という問いです。「自衛権」と訴え、国粋主義の枠の中に閉じ籠もっている、そこでは、ナザレの皆さん、あなたたちはその古い年の虜なのだ、罪の虜なのだ。そこからの解放される「ヨベルのこの年、今はじまるのだ」(「讃美歌21-431」)、これを受け入れて欲しい、そう主イエスは言葉を尽くされるのです。ナザレの会衆は、そこまで説教を聞いた時、「皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し…山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。」(4:28~29)、そうやって自分たちに都合の良いことを語らなかった説教者を会堂から追放して殺そうとしました。十字架の前兆です。


 『キリスト教名画の楽しみ方(天地創造)』の中で、アダムとエバの堕落を描いた、ヤン・ホッサールトの作品を、高久眞一先生がこう解説しています。黄昏の中、裸のアダムとエバが立っていますが、2人を取り巻くものはすべて黒一色の夕闇に包まれている。まもなく2人もその闇に閉ざされることになろうと思われる。頑丈な枠組みのような2本の木が、おそらくエバがそこから実を取った、知識の木が、作品の大きな枠になって、まるで絵全体の額縁のように包み、2人を閉じ込めている。それは、人間は原罪と闇の牢獄に縛られているという洞察です。誰が、その枠を取り払ってくれるのかという呻きが観る者に迫ってくる作品なのです。

 もう一つ紹介される絵画は、キリストが天地を創造している中世フランスの作品でした。このキリストは興味深いことに、コンパスをもって、天地を設計しています。宇宙全体や太陽、月はそのコンパスで描いたのでしょう、完全な球体なのに、地球だけが歪んで描かれている。高久先生はその意味を、キリストは地球の人間が神へ背くことを、既に見ているのではないか、そう書いています。しかし私は思います。そのコンパスは次にもう一度、地球をなぞり、その歪みを美しい球体に修正するのではないか。そのために、地球の中心にコンパスの軸足は既に添えられているのです。その作品が描かれた昔、コンパスとは、完全な円を描ける不思議な道具、神の道具とすら理解されました。だから絵描きは、凸凹の地球にコンパスを一所懸命当てているキリストを描いたのではないかと思います。キリストが、罪のおうとつから私たちを救って下さる、と。もう一つ興味深いのは、この絵にもやはり額縁が描かれているのですが、その額縁からキリストの片足と衣の裾が騙し絵のように、はみ出しているのです。先生はそれを解説します。これはキリストが「何物にも拘束されない、自由な存在である」ことを表現している、と。

 私は、先の知識の木が、黒い枠のようになって、原罪を犯した人間を閉じこめている図と、このコンパスを持って、天地創造をしながら、枠を踏み越えてしまう自由なキリストの絵が、まさに新約の夜明け・恵みの年の喜びを語りかけてくるように思います。主イエスこそ、何ものにも捕らわれない、エゴの原罪と悪魔の誘惑に縛られない自由な御存在でした。その主がこの時、ナザレの会堂に立って、今日、その私の自由をあなたたちに与える年が来た、そう言っておられるのです。そして私たちのエゴイズムで、刺々しくささくれだった心にもう一度、天地創造の時用いたコンパスを当てて下さっておられる。丸く描き直して下さる。その時、私たちを捕らえて放さない原罪の枠も取り払って下さる。国境を越えることが出来る、皆、一つコンパスによって、一つの地球の民とさせて頂き、共に平和を実現するためのヨベルの年を歩んでいきたい、そのうように願います。



 祈りましょう。  主よ、どうか私たちを捕らえるエゴの罪の呪縛を、新約の恵みをもって取り去って下さい。刺々しい心に、御手が触れることによって、丸みを取り戻し、和らぎ、一つとされて、ここを出て行くことが出来ますように。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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