2014年6月1日 主日朝礼拝説教「高みを捨てる神」

イザヤ2:10~17 ルカ福音書4:1~13

そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。」(ルカ福音書4:6)

説教者 山本裕司 牧師

 今朝も朗読頂きました、ルカ福音書4章に記される誘惑の物語には、三つの誘惑の物語が記されています。第一の誘惑、パンの誘惑については、既にここで学びました。今朝は特に後半、二番目と、三番目を一括して取り上げますが、それはこの二つの誘惑には共通点があるからです。4:5「更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。」4:9「そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」」この二つが共通している所は、どちらも悪魔は主イエスを「高い所」に立たせたということです。高い所に立ちたいという欲望は、私たちにとって、とても強いと思います。チャップリンの映画に「独裁者」という有名な作品があります。それは世界大戦中の支配者、ドイツのヒトラーを揶揄した映画ですが、ある時イタリアの権力者ムッソリーニがやってくる。二人とも小男なのですが、少しでも自分の背を高く大きくみせようと、背伸びし合う、そして2人とも転がり落ちてしまう。確かそんな、映画の主題を象徴するシーンがあります。そのように、ファシストが喉から手が出る程欲しているのが、背の高さだと言うのです。
 もう随分昔のような気がしますが、2006年の1月、高さ238㍍の六本木ヒルズの38階にあるライブドアを東京地検が家宅捜査しました。やがて、その堀江貴文社長が逮捕されることになる事件です。社長は38階に入居した理由について、東京タワーを見下ろせる唯一の場所だからと自著に書いています。「この絶景を毎日見られることを想像してみて欲しい、地上をこの手で握りしめたような気になる」と。まさにヒルズとは、彼にとって「天下取りの塔」でした。

 その二千年前、悪魔は、高みに立たせた主イエスに、4:6「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。」と誘惑します。今挙げた三人の男たち、ヒトラー、ムッソリーニ、堀江社長が目指した、背高き救い主として立てと誘われているのです。

 ギリシアのノーベル賞作家ニコス・カザンザキスには『キリスト最後のこころみ』という作品があります。後に映画化されました。これは、福音書の物語そのものではありません。しかし聖書のコアの部分を揺るがせずにせず、カザンザキスが想像力を駆使して描いた渾身の「誘惑物語」です。その物語の中で、天国の説教を始めたキリストの傍らで、ユダはこう反論するのです。「俺は天国に興味はない。地上の天国こそ俺が求めているものだ。それも全地球ではなく、イスラエルのみが関心なのだ。野蛮な異教徒ローマ人はこの地を踏みつけていた。先ず彼等が追放されなければならぬ。天国を考えるのは次の仕事だ。」ユダはイエスに政治的な支配者になって欲しいと訴えるのです。ローマ帝国からイスラエルを解放する軍馬に跨がる王となって欲しいと。
 あるいは、こういう対話もある。イエスは言うのです。「ユダ、私も自由が欲しいのだ。」ユダは、ついにイエスが立ち上がってくれると期待して叫ぶ。「ローマ人からイスラエルを解放したいのだな!」ところがそれに対してイエスは「人の魂を罪から解放したいのだ。」ユダはかっとなる。「これが俺たちの違うところだ。第一に肉体がローマ人から解放されて、次に魂が罪から解放される。それが筋道というものだ。家を建てるなら先ず基礎の土台からだ。」そう言ったユダにイエスは応える。「基礎は魂だよ、ユダ」と。

 この対話を聞いてどちらの言葉が正しいと思われたでしょうか。ここは教会ですから、それはイエス様の方に決まっていると思われるかもしれない。しかし果たしてそうでしょうか。荒野の誘惑の物語とは、主イエスが誘惑される物語だと、私たちは思っているかもしれません。しかしこれは、私たち、ここに座っている一人一人に対する悪魔の誘惑でもあるのです。このキリストに対する誘惑は、そのまま私たちへの問いとなる。「あなたはいったい何を本当の自分の救いとしていますか。」本当に、地上のことより天国が第一なのですか。本当に、肉体より魂が基礎だと思っていますか。罪の赦しよりパンではないですか。そういう問いであります。

 御言葉をもって、この誘惑を退けた主イエスに、続く第三の誘惑において、悪魔は主イエスをエルサレム神殿の屋根の端、バルコニーに立たせます。先に私たちは高い所に立ちたがると言いました。だが自分はそんなことはないと思われたかもしれません。でも私たちが高い場所に上がりたがらないとしたら、それは、そこから落ちることを恐れてのことかもしれません。しかし安全なら恐怖心は消える。悪魔はここで詩編の言葉を引用します。10~11「『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」(詩編91:11)。神様が安全保障をしていると言うのです。それを確かめるために、一度飛び降りてご覧なさいと言う。主はこれも御言葉をもって退けました。4:12「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。」(申命記6:16)
 
 〈これも聖書の引用です。悪魔も聖書の言葉を使うのです。主イエスも聖書の言葉を用いられるのです。それは聖書の言葉を引用すれば、全て真実に到達できるというわけでないことを表しています。その人が聖書の言葉を使って、人を救おうと思っているか、破滅させようと思っているか、そのことが大切なのです。

 主イエスは人を生かす聖書の言葉「主を試してはならない」、これをもって退けられました。それは、神を試みる罪だと、はっきり言われたのです。誘惑とは、言い換えるなら試練です。試みです。私たちは試練を受けると不思議なことに、その試練の中で、神を試験し始める。病気になる、祈っても病気が治らない。そんな神は神でも何でもないなどと言い始める。愛の神だと言う。それなら私を幸福にして欲しい、それが出来ない時、あなたは私の神様としては落第しましたなどと言って、教会に来るのをやめてしまう。教会が聖書に書いてある通り、愛の共同体であるならば、何故こんなことが教会で起こるのだ。どうして、日本ではキリスト者が少しも増えないのだ。それは日本に住む者にとって、パレスチナ生まれの神は異質だからだ、などと点数をつける。日本の教会はどこも背が低いのです。西片町教会の会堂は類い希な美しい会堂ですけれども、外に出た時ふと振り返ると、その背の低さを感じると思う。回りに高いビルが建って、見下ろされるようになりました。どうして神が全能と言うならば、ヨーロッパの教会のように聳えるような塔が立たないのだろうか、キリストの力も日本人には歯が立たないのではないか、そうふと思うのです。そう言って、あそこで神様の実力を量り、ここで神様の力を調べ、神様が本物か偽りか量るのです。つまり自分に役に立つ神様かどうか、誰もが分かるような輝きをもたらしているかどうか、量るのです。

 これらの誘惑は全て、主イエスを十字架の道から逸らすための誘惑です。政治的権力を得れば、十字架につく必要はありません。聳え立つ神殿のバルコニーに立つキリスト、誰が見ても偉大なキリスト、多くの人々がその前に謙るキリスト、そこで誰にでも神の実力が目で見て量ることが出来る。誰もが合格点をつける神の子イエス、そうなればイエスを十字架につける者は誰もいません。実はそのように十字架につかないキリストをあなたたちは欲しているのではないか、そうこの誘惑の物語は私たちに囁いているのです。〉

 もしイエスが悪魔の誘惑に引き摺り込まれて、この世の高さをお求めになったらどうなったでしょうか。つまり主が本当に謙遜に低くなられ、小さくなって下さり、十字架について下さらなかったら、世界はどうなったのでしょうか。そこには巨大な教会が出現したかもしれません。富を集め塔の先端は雲にまで届く勢いであり、その最上階に君臨するイエスの後継者・大司教は、神のような力をもっているかもしれない。同時におそらく教会は巨大な軍隊を保持したに違いない。数百年の内に、国を何十も滅ぼし自分たちの領土にしたかもしれない。そして表面、聖職者たちは聖人のように振る舞っていますが、裏にあるのは排除の論理です。会堂地下には、思想犯が捕らえられ血を流してる。実際にこれに似た歴史を教会が作ったことは、何度もありました。罪の問題、悪の問題に、教会が本気で取り組まなかったからです。

 〈肉体は肥え太っても魂の自由はそこにはない。人は悔い改めることを教えられていない。悔い改め十字架によって罪が赦され罪から解放された者として、今度は隣人の罪を赦す、弱い人たちを虐げる巨悪と戦う、そういう生き方は出来ない。弱い者を虐げ、見栄えなき者を葬り、健康な者たち、美しい者たち、優秀な者たちだけの世界を作ろうとして、体の弱い子どもたちを軽んじ、文化の異なる民を劣等民族と決めつけ、心が病気の人をガス室に送り込む。みなヒトラーがしたことです。〉

 その内、内部で権力争いが勃発し、互いに背の高さを競い合い、いつ粛正されるか牧師たちは互いに疑心暗鬼です。最後に核ミサイルを発射し合い、人類は滅んでしまったことでしょう。そして生き物が全て失われた廃虚の中に、悪魔の笑い声が響くのです。「成し遂げられた!」と。悪魔とはそういう存在です。

 しかし人類がその悪魔の侵略を許しながら、今、曲がりなりにもその生存が保たれている。それはどんなに背が低くても、罪の赦しと罪人に悔い改めを促す主の十字架、それを屋根に掲げる教会が、この世界に立てられていたからだと私は確信します。私たちの属する東京教区北支区内にも54教会伝道所が建っています。いずれも六本木ヒルズのようではありません。しかし、そこで天国のこと、魂のことが、弛まず語り伝えられたから、この東京も大言壮語と誤解されまるかもしれませんが、滅びないで済んだと言ってよいのではないかと思います。私たちが何故教会に毎週礼拝に来なければならないのか。何故毎日祈り聖書を読み覚えなければならないのか、それはこの悪魔の誘惑を退けるため以外のなにものでもありません。

 ニコス・カザンザスキの『キリスト最後のこころみ』、その本の題「最後の試み」とは、この荒野の誘惑のことではありません。これは最初の誘惑です。最後の誘惑とは、主イエスが十字架につかれた時に来る誘惑のことです。今朝の言葉の最後に、試みを退けられた主イエスの前から、ルカ4:12~13「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時がくるまでイエスを離れた」と記されています。もう一度来る。いつ来るのか。最後の時に、ゴルゴタの丘に来たと、作家は想像の翼を大きく広げて描き出す。
 十字架につけられ、のたうちまわるような苦痛の中、そのイエスの前に、一人の少女が現れる。誰かと尋ねると、あなたの守護天使だと答える。神様から「さあ独り子を救え」と命じられて今到着したところですと言う。アブラハムがモリヤの地で、独り子イサクに刃物を振り上げた瞬間、天使が押し止めたように、父なる神はただあなたを試しただけです。
 少女はイエスの手足から釘を抜いた時、イエスはまるでロケットが軟着陸するように、静かに地面に降りる。それは明らかに今朝読みました、4:9、11「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。…『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」、この言葉の通りのことが起こったのです。
 イエスは彼女に導かれ美しい花園の中を進んで行く。そこに美しい花のようなマリアが待っている。許嫁のマリアでした。しかし神の御旨を聞いたイエスは禁欲を誓い、砂漠に去ったため、マリアは絶望のあまりマグダラで体を売って生きていた。そのマリアを救い出しイエスは結婚し、光輝くような美しい村で家庭を持つ。幸せの絶頂でふと守護天使が目を離している隙に、父なる神がイエスを本来の道に引き戻そうと、マリアの生命を召されてしまった。しかし直ぐ天使に誘われて、イエスは改めてベタニヤのマリアと結婚する。暫くしてその姉マルタとも結ばれる。ヤコブがラケルとレアの二人の妻を娶ったように、その二人の母から、子どもが大勢生まれ幸せに満ち足りた暮らしをするのです。自分が救世主だと思った、世界を救うなどと思った、それはみな若気の至りであったのだ。

 年老いて充たされた中でそう思った時、数人の訪問者がある。かつての弟子であったペトロやユダたちでした。皆老いて干からびたように憔悴しきっている。ユダはイエスを責めるのです。あんたは天国のこと、魂のことを主張し、罪の赦しのために十字架につくのが使命だと言った。そのためにゲツセマネで私に、あの嫌な裏切りをさせたのではなかったのか。私は騙されたのか。ペトロも涙を拭いながら言う。ユダの言う通りだ。あなたは約束を破った。我々は一生を棒にふった。イエスは身震いして「しかし私の守護天使が」と呟いた。その瞬間、ユダは言う。「いや、あれは悪魔だ」と。

 イエスは十字架に戻らねばと願う。どうしても戻らねばと、老いた肉体は、もはや動かなないが、魂を奮い立たせる。その瞬間、庭も家も村々も全部消え去ったと思うと、彼の両手、両足、胸に激しい痛みを感じた。目を開くと、あの砂埃が舞うゴルゴタの丘が見えた。実は美しい里の数十年も、結婚も子どもたちも、小市民として生きる喜びも、全ては悪魔がゴルゴタでしかけた一瞬の幻影だった。

 本当の彼の弟子、使徒たちは、喜び勇んで海を越え陸を横切り、良きおとずれを告げようとしていた。狭き門より入った喜びは大きい。イエスは十字架の上で勝利の叫び声を挙げた。「成し遂げられた」(ヨハネ福音書19:30)と。そう書いてこの物語は終わるのです。

 これは福音書の物語とは違います。しかし結論は同じです。主イエスは誘惑に勝利されたと。受肉された主は一度、全ての人が経験する誘惑を知り尽くされ、その上で全ての誘惑に勝利されて、私たちに救いの道を切り開いて下さったのです。

 〈神と悪魔の戦いは天地創造の最初からありました。エデンの園の中央には善悪の木、誘惑の木が生えていました。「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」と書いてあります。そして、最初の人間はそれを食べました。最初の人間がその誘惑に耐えられなかったということは、人間は全て誘惑に負けるということを表しているのです。私たちも、どれほど誘惑に弱いでしょうか。どれほど救いの手触りを欲するでしょうか。どれほど高さを求め目先の喜びを追い求めたでしょうか。どれほど神を試みてきたでしょうか。怖ろしい罪です。それは最初は最良、最後に最悪を招く生き方です。しかしその弱い私たちに代わって、主イエスが誘惑に勝利して下さいました。そして私たちの誘惑に負けた罪を贖い、赦し、弱い者でも生きることが出来る、罪人もやり直すことが出来る、そういう魂の救いの道、一度、巨悪に飲まれた全人類のやり直しの歴史を切り開いて下さったのです。「いかにもおいしそうな木」ではなく「見栄えなき、荒削りの十字架」こそ、「命の木」だったのであります。〉

 この説教後私たちが歌う讃美歌には「イエスの担った十字架こそ、命の木となり良い実を結ぶ」とあります。私たちの魂と全世界を救う花、その甘い果実は、その低き貧しき木から咲き、永遠の実を豊かに結ぶ。この主の勝利に支えられて、私たちもまたこの後、誘惑に耐え、罪を犯すこと少しでも少ない道を歩み、しかしなお誘惑に屈した時も、主の十字架の勝利の故に、罪が贖われる。だから悔い改めやり直せる。その希望の故に平和の道を歩むことが出来る。その天国と魂の救いが与えられたことを感謝しましょう。

 祈りましょう。 主なる聖なる神様、死の虜である私たちを、御子の十字架の力によって甦らせて下さった大いなるあなたの恵みに感謝を致します。この世の富この世の力に引かれるのでなく、ただ御子の十字架の御言葉に堅く立つ者とならせて下さい。そのことが当座は苦しくても、終わりの日に自分の命を救うということを、周りの者をも救うということを、信じることが出来ますように。


・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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