2014年5月18日 主日朝礼拝説教 「まず、パン(株価)なのか」

説教者 山本 裕司 牧師

ルカによる福音書 4:1~3



 「さて、イエスは…、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」…」(ルカによる福音書 4:1~3)



 主イエスの40日間の断食と似た記事が旧約聖書にあります。「モーセは主と共に四十日四十夜、そこにとどまった。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、十の戒めからなる契約の言葉を板に書き記した。」(出エジプト34:28)、これは十戒の板が与えられる2度目の出来事です。どうして2度目かと言うと、1度目の時、モーセがそれを携え山から降りてくると、イスラエルの民は既に金の子牛・偶像を造り拝んでいた。それを見たモーセは激怒して、十戒の板を打ち砕いてしまったからです(出エジプト32:19)。

 どうしてイスラエルの民は、モーセが十戒を授けられている間に、真の神を棄てたのでしょうか。出エジプト記をもう少し遡ると、十戒授与の前、シナイ山には雷鳴が轟き、山は煙に包まれていました。その時、恐れる民を残して、モーセだけが神のおられる密雲の中に入っていく。その厚い雲の中で、神が御自ら指で石版に十戒を記しモーセにお授けになった。その間、下界に残された民は深い不安を覚えました。そこで民は祭司アロンに「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」(32:1)、そう懇願した。偉大な指導者モーセが雲に隠れて見えないのです。それは「神が見えない」という思いに繋がりました。民は、救いが見えないことに耐えらない。それで、金の子牛という、目で見て手で触れることの出来る神を造り上げたのです。しかしそれは偶像であり人を救う力はない。そこで再びモーセは山に登り、40日40夜断食をして、真に人を救う神の言葉・十戒を板に刻む戦いをなさねばならなくなった。

 これは今朝の主イエスの荒野の戦いを先取りする物語だと思います。本当に私たちを救うものは何か、あなたは何だと思うのか、それが、両者の物語で等しく問われているのです。


 主は荒野の40日で、極限の飢えを経験された時、このような飢えの中にある、世界中の人々ことを思ったはずです。その時、サタンの声が聞こえてくる。「パンの問題を解決する救い主として立たれなさい」と。続けて悪魔は、イエス様を高く引き上げ、世界の国々を見せ言いました。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。…もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」(ルカ4:6~7)、悪魔を礼拝し、悪魔の言葉に従って、飢餓問題を解決すれば、あなたは世界の支配者となるのは間違いない、と言っているのです。ある人はこの悪魔の誘惑を称して「イエスよマルクスになれ」との誘惑と呼びました。マルクスとは共産主義を起こした人です。彼は経済革命を目指し、同時に無神論を標榜しました。大衆の阿片である宗教(キリスト教)ではなく、目に見える経済で人を救うと言った。私が若い頃、多くの先輩や友人がこの「唯物史観」に魅了されて組織に入っていきました。しかし、その思想は、荒野で取り残され、神を見ることが出来ないイスラエルが、目に見える金の子牛に引かれたような心とどこか通じるのではないでしょうか。その誘惑に対して主イエスはこう反論されました。「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」(4:4)、では何で生きるのか。「主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)、そう言われたいのです。

 しかし、この神の言葉、その神の救いは、私たちには、時に、密雲に隠れるように見ることも触ることも出来ない。それは、その存在を信じる他はない、罪の赦しの福音だからです。


 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリント二4:18))


 勿論、主イエスは、「パンはなくても良い」と言われたわけではありません。肉体をお持ちになられた神の子は、パンの必要性を熟知されておられました。確かに、私たちは、敗戦後の食糧難の中で、とにかく毎日食べられれば幸せだという所から出発し、今、国内に飢える者は殆どいなくなりました。奇跡の復興と呼ばれる経済成長をなし遂げたのです。まさに石をパンに変えるようなことを、やってのけたと言っても良いのではないでしょうか。しかし、それで、日本に住む私たちは本当に救われたのでしょうか。多くの人が自死します。誰も救われているという人はいない。益々病んだと言われている。まさに主イエスが言われた通りのことが実際に起こったのです。「人はパンだけで生きるものではない。」


 主はこうも言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)、「何よりもまず」パンではないのです。まず、神を求める、すると、神が必要なパンを加えて与えて下さると約束される。その信仰を忘れてはならないのです。ある注解者は、「石にパンになるように命じたらどうだ。」(ルカ4:3)、この悪魔の言葉の問題を「ここには神に祈る人の姿がない」という意味のことを書いています。自力で石をパンに出来る、「なせば成る」、そう思って、ついに奇跡の経済復興を成し遂げた。しかしそれは本当に奇跡だったのでしょうか。神に祈らないで、どうして奇跡が起きるのでしょうか。創造主だけが成す「無からの創造」を、人も悪魔も決して出来ません。ではどうして石がパンになるような高度経済成長が実現したのか。石がパンになった、そう私たちは思ったかも知れませんが、それは実は錯覚であった。それは、隣国、隣人の祈りに応えて神様が与えられたパンを、横取りしていただけではないのか。

 悪魔の誘惑とはそういうものです。飽食に浮かれ、私たちが食べきれずに捨てる分、よその国の子どもたちが、あるいは格差社会底辺の人が、飢餓状態にあるのではないか。まさにマルクスが問題にした資本主義における「搾取」の問題です。では共産主義がそれを解決するのかというと、それもまた人類は、その歴史的実験を既に終えたと言わなくてはなりません。ユートピアを謳った共産主義国家の中で、著しい搾取、格差、不平等が生じています。共産主義と資本主義とどっちが良かったという問題ではなかったのです。問題はどのような社会制度の中でも、金の子牛を求める人間の貪欲です。神の言葉を忘れ、パンだけを求めた時、どんな恐ろしいことが起こるか。それは地獄のような世界です。その地獄的世界の創造こそ、今荒野に現れた悪魔の目的です。その地獄が眼前に出現した時、私たちははっと気づく。自分たちは間違った道を進んできたと、しかし、その時、悪魔の「もう遅い!」との高笑いが天に鳴り響くのを、私たちは聞くのではないか。そうなる前に、私たちは主に倣い「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」と、誘惑を拒否出来たらどんなに良いことでしょう。


 私たちは、そのような悪魔的世界を作った、ナチスの蛮行を教えられる度に、ドイツ国民は何故ヒトラーに「国の一切の権力と繁栄」(4:6)を与えたのだろうと不思議に思います。ヒトラーは非合法的にドイツを「乗っ取った」のではありません。民主的手続きを経て首相に就任しました。さらに1934年、「総統」職を新設し、国民投票で是非を問い自ら就任しました。その時の賛成票は圧倒的で、90%近かった。それは彼の経済政策の成功にあったからだと識者は分析します。当時のドイツは第一次大戦の敗北による過大な賠償金や、世界恐慌によって、経済危機のどん底にありました。ところがヒトラーは就任わずか4年で経済を甦らせたと言われる。労働者や企業に対する優遇措置や大減税も実施されました。同時にヒトラーは軍備を拡大し、近隣諸国の併合など、領土拡大政策に成功します。まさに強いドイツの再来でした。敗戦、貧窮、自信喪失のドイツ国民に対して、ヒトラーはドイツ人であるプライドを回復させたと言われる。まさに彼はドイツを取り戻しました。その支持を背景に、彼は独裁者に上り詰め、共産党などの政敵を弾圧し、逆らう者を処刑し、侵略とユダヤ人大虐殺に邁進します。そして彼はついに教会の信仰告白、まさに神の言葉を、ナチスのイデオロギーに置き換えるために乗り出してきました。

 その時、反ナチ運動に結集した告白教会の指導者ニーメラ牧師は言いました。


 「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
  私は共産主義者ではなかったから
  社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
  私は社会民主主義ではなかったから
  彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
  私は労働組合員ではなかったから
  そして、ナチスが教会を攻撃したとき
  私は牧師だったから行動した。
  しかし、それは遅すぎた。
  その時、教会のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。」


 私が今朝、何を言いたいか、お分かりになるでしょうか。私が言いたいのはヒトラーのことではありません。私は現在日本の政治状況(数日前の5月15日、安倍首相は集団的自衛権行使容認を稚拙なパネルを用いて国民に訴えた)の危機を言いたいと思います。今、内閣支持率は50%以上です。その理由は経済政策の成功にあると言うのです。株価が上がったと喜ぶ日本人を支えに、安倍政権の真の目的である、憲法9条骨抜きが目指されています。「強い日本を取り戻す!」(安倍首相、2014年年頭所感)と叫ばれる。しかし、パン、つまり金を第一とする時、私たちは悪魔を拝む存在に近づくことを忘れてはならないと思います。そうならないために、まず、神の国と神の義を求めなさい、そう主イエスは教えて下さいました。そうしたら、必要なものは、神様が全て加えて与えて下さる、これを信じ抜くことこそ、私たち自身と、私たちの日本再生の唯一の道だと確信します。



 祈りましょう。  主なる神様、御子が悪魔の誘惑を退けられたことを覚え、私たちも後に続く者とならせて下さい。日本が今、敗戦後、最大の政治的岐路にありますが、どうかかつて、夥しい人を殺し、殺された、地獄を思い出し、鈴木正久牧師の名による「戦争責任告白」が求める「見張りの使命」を果たす西片町教会とならせて下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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