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2014年3月23日 主日朝礼拝説教 「私は生まれてきて良かった!」

2014年3月23日 主日朝礼拝説教 「私は生まれてきて良かった!」

説教者 山本 裕司 牧師

ローマの信徒への手紙 15:17


「そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。」(ローマ信徒への手紙 15:17)


 「ローマの信徒への手紙」の終わりの挨拶の中で、パウロは、「誇りに思っています」(15:17)、「名誉に思っています」(15:20、共同訳)と、伝道者として生きた、そのプライドを隠しません。しかし「名誉」という言葉は、教会の中で余り用いられなくなりました。かつては「名誉牧師」、「名誉長老」と呼ばれる人がいましたが、今は減っています。実は、これはパウロに責任があるのではないでしょうか。パウロは人間の名誉心を問い続けた人です。むしろ「誇り」を否定的な意味で用いてきました。「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました」(3:27)、そう彼は、誇りがどんなに危険な働きをするか知っていました。しかしそのパウロが、ここでは、自らの誇り、名誉を憚らず語る、それはどうしてでしょうか。

 「そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。
キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。」(ローマ15:17~18a)、パウロは、ここで、自分をただ自慢しようとしたのではありません。キリストが、パウロを通して働いて下さった、それを誇るのです。それ以外のこと、キリストと無関係な自分の値打ちを誇ることは決してしません。パウロは、元々、名誉あるイスラエルの家系、派閥に属し、その行動においても当時、異端と覚えた教会を迫害して回る熱血漢でした。しかし、彼はキリストを知り、それ以来、それら肉の誇りを「キリストのゆえに、塵あくたと見なしている」(フィリピ3:8)と言うのです。

 キリストがこの地上で働かれる、その方法は、終末に至っていない今、キリスト御自身が直接されるわけではない。私たち人間がキリストに用いられるのです。「キリストがわたしを通して働かれる…わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれ」(ローマ15:18~19a)るのです。ある牧師はここで「弘法筆を選ばず」との諺を引用しました。大師といえども筆は使う。しかし弘法は筆を選ばないのです。これは、ここまでパウロが論じてきた福音の選びに似ているのではないでしょうか。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(10:13)、選びは、「…人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです」(9:16)、だからイスラエルだけではない、「異邦人」(15:16,18)も選ばれる。この教えこそ、サウロ(パウロの旧名)のような、宗教的プライドに満ちたユダヤ人を躓かせました、それも、ローマの信徒への手紙9~11章で私たちが学んできたことです。


 「キリストがわたしを通して働かれた」、弘法は、筆の善し悪しに依存しない。弘法の手が筆を取った時、大師と筆が一体となってしまう。そこに麗しき文字が現れたのです。大師と筆が一体となるための「筆の心得」があるに違いありません。筆は、そこで自己主張してはならないということではなないでしょうか。つまり私たちで言えば、大師・キリストに、筆としての自分を預ける時、筆は、キリストの御手の動き通り、縦横に走り始めるに違いありません。筆が、こんなに上手に書けたのだと、それが自力によると錯覚し、大師の手からの独立を宣言した瞬間、筆は、もはや一文字も記すことは出来なくなることでしょう。この例えを語る牧師は、ここで、こうパウロの言葉を引用します。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20))

 まさにパウロは、キリストの筆になり切った時に、「新約聖書」後半を書く者とされた。自分の思想や経験談を書いたのであったら、それは優れていても、僅かな寿命しか持たなかったでしょう。しかし彼は、ひたすらキリストの御手になりきって、キリストのことだけを書いたのです。「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。」(ローマ15:18)、その時、あに図らんや、というか、当然と言うか、この手紙は永遠の値打ちを持った。パウロ自身は思いがけなかったことですが、この手紙と一緒に、パウロの名も永遠に残った。パウロは、このように、福音伝道のために用いられた、自分をこそ誇るのです。それは、自分の本当の値打ちを知ったということでもあります。


 かつて「自分探し」という言葉が流行りました。自分探しのために、無目的に世界を旅する青年がいました。青年たちは、そうやって、自分だけにしか出来ない人生を探し回る。自分らしい誇りの持てる人生です。それは「アイデンティティ」(自己同一性、自分が自分であること)という言葉で表現されました。私はこのアイデンティティの問題を考える時、先に引用した、フィリピの信徒への手紙3章4節以下の言葉を思い出します。パウロは、かつての地上の誇りを「塵芥」と言った。その理由は、「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と」(3:8a)みたからです。そして続けた。「キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」(3:8b~9a)、ここですが、まことに印象深い口語訳ではこうです。「信仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。」

 ここに青年パウロの「自分探し」の物語があることに、私たちは気づくのではないでしょうか。自分が自分になる、それは自分には掛け替えのない独自の値打ちがあることを知ること。それは、家柄、地位、学識、そういう地上の「誇り」ではなく、「キリストの内にいる自分こそ真の自分なのだ」、そうパウロは言う。キリストの中にいる自分こそ、最も自分らしい自分なのだ、キリストに繋がった時こそ、誰とも「交換不能」の自分の掛け替えのなさが見出されるのです。


 そうであれば、皆がパウロのように「筆」になる必要もない。パウロは、また別の手紙で、体(教会)は「一つでも、多くの部分から成(っている)」(コリント一12:12a)、そう言いました。一つの体に、目や手、頭や足があるように、教会にはいろいろな働きがある。だから、教会員はいろいろで良い。神様からそれぞれに与えられている、タラントンを最大限に用いれば良い。ただ大事なことは、キリストの御体の一部に留まることです。そこで、自分が用いられることを喜ぶのです。そこで、私たちのアイデンティティは確立する、そこで最も自分が自分らしくなる、つまり自分が、何のためにこの世に生まれてきたかが分かる。その時、人は初めて「やる気」が出るのではないでしょうか。放浪の時代はそこで終わる。自分の神から与えられているタラントン、能力も時間も生命も何に使って良いか始めて分かる。

 パウロは、自分にはこういう使命があると言いました。「キリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。」(ローマ15:20)、「他人の築いた土台の上に建てたりしない」、つまり、彼にしか出来ない福音伝道の「やり方」を発見した。「こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。」(15:19)、「エルサレムからイリリコン州」とは、当時の全世界の東側全部ということです。パウロは3度の伝道旅行によって、世界の東半分を伝道したと言う。それは、実に目的が明確な世界旅行です。バックパック一つで世界を放浪する若者たちは、実は、自分でも知らないうちに、パウロの旅の喜びを、探し求めているのではないでしょうか。彼らは、キリストと繋がらないまま旅をしているために、虚無的に彷徨う他はないのではないでしょうか。キリストと結び付いたパウロの夢はさらに膨らみ、さらに、西の果て、イスパニア(15:24)にと、西側も伝道し、全世界くまなく福音を伝えることこそ、「自分の名誉です」(15:20,共同訳)、そうパウロは胸を張ったのです。


 私たちはこう読んでいくと、またしても、劣等感をもつかもしれません。自分にはとてもこんな風に誇ることは一つもないと嘆くかもしれない。しかしある注解者はこう問います。パウロは言う。「キリストがわたしを通して働かれた…」(15:18)、この時彼が考えていた「わたし」とは、どんな存在か、と。学者ははっきり、かつての「教会の迫害者」(フィリピ3:6)としての「わたし」をここで思い出している、と断言します。そしてその人はこう引用する。「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」(コリント一15:9~10a)、つまりここでパウロは、特別に能力、情熱に長けた「わたし」を、思い起こしているのではない。主イエスを認めることが出来ず、教会を破壊することに自分のプライドを見い出していた、ユダヤ人・サウロが、甦りのキリストと出会う。そこでキリストの愛に捕らえられた時に、伝道者として立つことが出来た。だから、彼がここで、何故、自らの伝道を誇っているかのようなことを書いたかと言うと、それは自分を宣伝しようとしているのでは決してない。自分のような元迫害者が、しかし今、教会建設者になった。それがどうして可能になったのか。それは私の力ではない。こんな私をも利用して、異邦人世界に福音を充たすことが出来る、凄まじいとも言いうる力が、主イエスにはある。その主イエスの「うちに」捕らえられること、それが私の誇りなのだ。「弘法筆を選ばず」、彼は、ただひたすら、そう自分を生かし切って下さる、主イエスの愛を褒め称えているのだと、その学者もまた、喜びに溢れて、情熱的に注解する。

 私たちも、それぞれがキリストの御体の枝として、御手に握られています。そこに本来の自分がある。そこで、最も自分が自分らしくなる。アイデンティティは一致する。本当に自分は生まれてきて良かったと、私は自分をこの上なく貴い存在だと、胸を張ることが出来る。自分の生命、全部を肯定することが出来る。キリストに捕らえられた私たちの幸いを心から感謝しましょう。



 祈りましょう。  主なる神さま、時に自分はいない方が良いのではないかと迷う私たちを、御子が捕らえて下さり、人生の旅の一途な目的を与えて下さった、その恵みに感謝します。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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