2014年2月16日 主日朝礼拝説教 「他人の召し使いを裁くな」

説教者 山本 裕司 牧師

ローマの信徒への手紙 14:4



 「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。」(ローマの信徒への手紙 14:4)



 パウロは、神の言葉・福音を誰よりも深く洞察し、終末まで立ち続ける教会の礎を築いた伝道者です。ですから福音を骨抜きにする誤った教えに対して、断固として「否」を唱えました。誤った教えを教会の中から追放するまで、どの使徒よりも激しく戦ったのです。16世紀のドイツを生きた画家アルブレヒト・デューラーには『四人の使徒』という作品があります。当時、マルティン・ルターによる宗教改革が起こっていました。デューラーはルターの言葉に大変共鳴した。そして彼の故郷であるニュルンベルク市がプロテスタントを支持することを表明した時、この絵画を市に寄贈しました。その作品は、パウロが前面に大きく描かれており、その後ろに、福音書記者を代表するマルコが隠れるように描かれています。ローマ教皇の権威の源・ペトロも後ろに退いている。パウロは不屈の意志を持って、山のように直立している。その鷲のような眼光は、絵を見る者をじっと凝視し、左手に聖書、右手に剣と、彼が聖書の守護者であることが表現されています。聖書が正しく読まれているか、教会の主は本当にイエスであるのか、他の誰かに乗っ取られてはいないか、そう厳しくその目は問うているようです。そのような厳しさなしに、真実の教会は立たないし、宗教改革も失敗に終わる、その主張がここに込められていると思います。

 しかし、そのような厳しいパウロですが、ローマの信徒への手紙14章を読む時、逆に、パウロとは何と寛容な人だろう、そう驚きを覚えます。信仰のあり方の多様性を大らかに認めることの出来る人です。そして思うのは、パウロにとって、厳しさと優しさとは、同じ信仰告白「イエスは主なり」、その幹から伸びる二つの果実、苦い果実と甘い果実なのだと思い至りました。甘い果実の一房はこうです。

 「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」(ローマ14:1)、弱い人とは、「野菜だけを食べている」(14:2)、また「ぶどう酒も飲まず」(14:21)とありますから菜食、禁酒の人のことです。この人たちがどうしてこうなのか、今ではよく分かりません。もしかしたら、肉食は血を流すので神の国の食事に相応しくないと考えたのかもしれません。新天新地においては「狼と小羊は共に草をはみ/獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし…」(イザヤ 65:25)との終わりの日の幻があるように、主にあって「弱肉強食」の時代は終わった。私たちは信仰を得て生まれ変わったのだから、これからは神の国の食事をしよう。そこで許される食物は、人が堕落する前の楽園・エデンの園がそうだったように、野菜と果物と考えた信仰者たちがいたようです。

 一方、全て許されていると考える教会グループがあります。肉を食べても酒を飲んでも良いと思っている人たちがいる。その人たちが一緒に教会生活をしている。礼拝が終われば愛餐会があったことでしょう。そこで一緒に食べる。そうするとついそこで反目が起こり、信仰とは自由を与えるものだ、それなのにお前たちは未だ不自由ではないか、そう菜食、禁酒の兄弟を「軽蔑」(ローマ14:3a)する。一方「食べない人は、食べる人を裁いてはなりません」(14:3b)とありますから、弱い人と呼ばれる菜食、禁酒の会員も酒池肉林者を裁いています。弱者がどれ程人を裁くか、私たちはよく知っている。あるいは、この人たちはむしろ禁欲に耐えられる真面目な人ですから、この者こそ強者であったのかもしれません。このように、肉食、飲酒に「クローズド」の菜食者は、「神の国」の理想を語り、「弱肉強食」からの「解放」を訴える。逆に、肉と酒に「オープン」な人たちは、福音の「自由」を主張する。不思議なことに、どちらの主張も、信仰における「自由解放」であります。その福音は共通している。ところが、自由にされたはずの者同士が、あに図らんや、結局、信仰以前と同じにように、いえ、以前よりひどく、憎み合い排除し合う。そこに本当に楽園が回復したのか、福音の自由と解放が、本当にあるのか、そうパウロは問いたいのだと思います。


 「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。」(14:10)


 私はこれを読んでいて、今、日本基督教団で起こっている悲しい事件を思い出さざるを得ません。最近、教団は、40年間以上、教団の宣教のために人生を捧げた老牧師を、聖餐の神学の違いで、血も涙もなく免職にして教団から排除しました。聖餐における「クローズド」・「オープン」の論議の末にです。同じ食卓の問題でも、パウロの場合は異なり、肉、酒における「クローズド」・「オープン」問題ですが、彼は、それ程、動物に対する「弱肉強食」を心配するなら、まして、教会の教師、兄弟姉妹に対して互いに「弱肉強食」を発揮することは、あり得ないではないかと、言いたいのだと思います。先の、デューラーの『四人の使徒』、そこで、睨み付ける使徒パウロの絵画の下にこう記されていることが思い出されます。

 「世の支配者たちよ。人間の言葉を神の御言葉と取り違えてはならない。」


 私は、今朝、おそらく私たち信仰者が大なり小なりもっている、高ぶりの問題を語っています。肉とか酒というのは一つの例に過ぎません。今申し上げたことは、いろいろなバリエーションをもって、教会の中で起こってくる私たちの弱さです。しかし、私は、その弱さを認める、それが一番大切だと思う。福音の自由のもと神の国に生きようとする、素晴らしいことです。しかし、その高い教えと裏腹に、教会の中で、自分の小さな生活の中で、それを少しも実現出来ない。排除の論理や、憎しみ、妬みの感情に支配されている、その自分の惨めさ、教会の弱さを知る、それが実は大切なのです。高邁な理想を語るところで、実は私たちは主イエスと本当には出会っていない。人と人との心のすれ違い、その本当に低次元の問題をも解決出来ない、そこで死ぬほど悩む時、その惨めさの中で、主よ、どうか私たちを憐れんで下さい、と膝を屈めて祈る時、私たちは、始めて、主イエスの求められる、神の国と、信仰の自由ということが少しずつ分かってくるのではないでしょうか。


 さらにパウロの指摘は続きます。「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。」(14:5)、ここでもそれぞれの自由が認められます。しかし、日について、「苦い果実」を、つまり厳しく当たったのもパウロです。「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。」(ガラテヤ4:10~11)、この違いについてですが、ガラテヤ教会の場合、特別の日を守るということは、星辰礼拝、星占いの類のことでした。自分の人生や世界を支配しているのは、日の吉凶や、宇宙の霊的諸力である、そういう信心から自由になれない信徒がいた。私たちの人生の全てを支配するのは「主・イエス」以外におられない、この信仰から、パウロは、ここでは、鷲のような眼光をもって睨み、苦い言葉で喝破せずにおれなかったのです。しかし、ローマ教会で起こったことは違ったようです。これは教会における記念日のことだろうと注解されます。私たちの重んじる教会暦のように、様々な記念日を守るべきとする者と、毎主日はいつでも小イースターだから、他に記念日は必要はないと「確信」(ローマ14:6)した者もいました。パウロ先生、どちらが正しいのですか、と問われたと時、彼は、どちらでも良い、そう答えた。先の食べ物にしてもそうですが、パウロ先生のように大らかだと、愛餐会の準備をする人は、二種類作らなくてはならいので、困ると思います。あるいは、礼拝が終わった後、一部の者だけがもう一度集まって、何かの記念礼拝を始める。指導者が曖昧な態度を取ると、そういう煩わしいことになります。しかし、パウロは、それでも良い、但し、と付け足したのです。但し、それが「主のため」であれば、「感謝」の心でするなら、そう言ったのであります。「特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。」(14:6)

 ここが大切です。パウロは、ここで、真の支配者は、つまり「主」は、あなたではない、と言いたいのです。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(14:9)、パウロがここで教会内の争いを問題にしているのは、ただヒューマニズムで皆仲良くしようと、言っているのではありません。ある牧師は、今朝の箇所は、特に「神」、「主」、「キリスト」という言葉が多いと指摘しています。合計17回ある。特に「主」は10回ある。そしてその牧師は、ここは実は、ただ教会の交わりをどうするのかということではなく、「主とは誰か」が主題である。「裁いてははらない」とは、人間が主ではない、という厳かな事実、「イエスは主なり」、この告白に関わるのだ、そういう意味のことを言われます。主が中心であるにもかかわらず、自分が、教会の食卓を支配しているかのように、人を裁く、排除する、免職にする、その傲慢こそ、教会を破壊するのだと、パウロは言いたいのです。私たちは、互いに多様な神学を持ちますが、しかしそれを超えて、共に「神の御前」(14:22)で膝を突く思いの中でだけ、私たちは一つになるのだ、と言われているのです。

 「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、/すべての舌が神をほめたたえる』と。」(14:11)


 この言葉は決定的です。「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。」(14:4a)、教会の教師、兄弟姉妹は、あなたの召し使いではない。他人、つまり主・イエスの召し使いなのだ。確かに、その召し使いが間違いを犯す時もある、しかし、あなたが、その召し使いの主人であるかのように、裁いてはならない。その僕は、主人のものなのだから、主人・イエスが裁くであろう。しかし実は、主なるイエスが本当になさることは、倒す事ではない、パウロがここで本当に強調するのは、以下です。「しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。」(14:4b)、主はこのように、私たち、弱い者を、罪人を、何とかして倒そうとするのではない、十字架の贖いをもって、立たせようとされる。そこに真の福音がある、神の国が見える、そのことを本当に知った者として、私たちが教会共同体をどう作るか、隣人とどう交わるかが、定まってくる、そう思います。



 祈りましょう。  主なる神様、人を屈服させ、支配することに喜びを感じるような、この醜い私たちを憐れんで下さい。この原罪を悔い、主の御前に跪く教会の民を、どうか、今、一つにして、立ち上がらせ下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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