2014年11月9日 主日朝礼拝説教 「主のはしためとなる喜び」

説教者 山本 裕司 牧師

ルカによる福音書 1:26~38



マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」

(ルカによる福音書 1:38)



 ある人は、ルカの描いた福音書の物語を読むと、彼には絵心があったのではないかと思うと、言っています。カトリック教会では、福音書記者ルカは画家たちの保護聖人でもあるそうです。ルカ自身が絵描きであって、御子イエスの母マリアの姿を描いたという伝説もあるそうです。そう思わせてしまうほど、ルカが語る物語は視覚的イメージが豊かです。キリスト教美術の作品においても、ルカの物語に題材を採ったものが多いのです。

 高久眞一さんが「キリスト教名画の楽しみ方」というシリーズを出版しています。その中に「受胎告知」をテーマとした一冊があります。その一点は、イタリアの画家フラ・アンジェリコの作品です。オリジナルは勿論カラーで、それは光輝くような絵画ですが、神から遣わされる天使ガブリエルは、まことに美しく女性のように優美です。それに対するマリアもまた天使のように黄金色に輝き、表情も天使そっくりです。その中で天使ガブリエルが、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(ルカ1:28)、と祝福を告げ、神の子の出産を預言する場面です。

 その明るい世界に対して、一本の柱廊を境に園が描かれています。それは天地創造の物語、最初の人間・アダムとエバが天使によって、楽園を追放されている場面です。そこは樹木が茂って暗く、2人の犯した罪が暗示されます。失意の中で楽園を去るエバ、光り輝くマリア、それが一枚の作品の中に納められるのです。これはどういう意味が込められているのでしょうか。エバは蛇の誘惑に負けて、人類に原罪をもたらせました。しかしその反対に、マリアは原罪から人類を救うために選ばれた「第2のエバ」と昔から教会では理解されてきたことによるのです。


 天地創造物語において、神様は、元々、楽園の果物は、何でも食べて良いと、人間に自由を与えて下さいました。しかし、中央にある知識の木の実だけは食べていけない、死んでしまうから、そう警告された。ところが悪魔とも解される蛇が登場して誘惑します。「それを食べても、決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」(創世記3:4)、「神のようになる」、これこそ、人間が決して食べてはならない禁断の果実なのだと、創世記記者は訴えるのです。この「自己神格化」こそ人間の原罪である、と。

 自己神格化、少し難しい言葉になってしまいましたが、言い換えれば、それは人間が神様の言葉を聞かないということです。神様のお考えは無視して、人間だけでやっていこうとすることです。自分の考え、自分の思いを第一として生きていこうとする。それは自分が自分の神になる道なのです。それは真の神様を捨てることです。それは礼拝をしないことです。祈らないことです。聖書を読まないということです。神からの独立、その自己神格化の甘い果実の魅力にエバは勝てません。そこに「失楽園」が起こります。

 それに対して、新しい第2のエバが登場した。神の言葉に従うエバです。その第2のエバによって、新しい時代、楽園回復の時代が始まる。そう昔の教会の人たちは考えました。その女性こそマリアであった。それをアンジェリコは描いたのです。


 それと対照的な受胎告知も、高久眞一さんの本に紹介されていますが、それはシモーネ・マルティーニの作品です。この作品のマリアの表情は、先のアンジェリコの作品とは違って、嫌悪の情がありありと見られる。そして、接近してくる天使ガブリエルからのけ反って睨み返している。目も吊り上がっています。私たちも教会で嫌な奉仕を押しつけられた時、こういう仕草や顔をしているかもしれません。

 まだ結婚していないマリアです。天使から、「おめでとう、あなたは男の子を産む」と言われても、「戸惑い、考え込む」(ルカ1:29)他はない。マリアは天使に食い下がります。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(1:34))、彼女は婚約期間中でした。その時婚約者ヨセフと、どんなに将来の夢を楽しく語り合ったことでしょう。ところが、まだ結婚する前に、赤ちゃんが出来てしまう。そして、その後の夫妻の人生は、この1人の子どもによって、その計画が全部狂わせられてしまうのです。王ヘロデの乱心によって直ぐ、エジプトへ逃げるはめに陥ったりなど、訳の分からない事件が次々に息子を中心に起こり翻弄される。その先行きを直感した賢いマリアが、天使をじっと睨み付けている、そういう作品です。

 さらにその絵について申し上げれば、その両側に、福音書の物語には登場しない、手になつめ椰子をもった殉教者の姿があります。そこを解説して高久先生はこう書いています。「常緑のなつめ椰子は、死に打ち勝つものを象徴している。彼らとて、死ぬのは嫌だったろう、しかし、彼らは信仰によって、神の言葉を受け入れ、死を受容した存在である。マリアもまた、自分の思いでは、拒絶したい御子の宿りであった。だがこの殉教者のように、暫くすると、神の言葉を信仰をもって受容する者に変わる、そのことが、殉教者によって暗示されているのだ」、そう言われるのです。そして、この他に類例を見ない受胎告知の作品は、信仰者たちから拒否されることはなかったと、高久先生は続けます。ある教会の祭壇画として設置された。それは、その当時の信仰者たちが、マリアの中に自分の姿を見て、でも、最後には、御心を受け入れる者に、私たちもなりたい、そういう祈りが込められているからだと、思いました。


 この殉教者とは誰でしょうか。私は、成長された御子イエス以外の誰でもないと思いました。御子イエスも、ゲツセマネの園で、この苦い杯を取り去って欲しいと父なる神に祈った時、やはり、マリアのように、反り返られたかもしれない。しかし、最後は御心のままにと、十字架の死を受け入れたのです。主イエスはアダムの過ちを犯さず、神の僕として生きられました。使徒パウロはこう記すのです。「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」(コリント一15:22)

 マリアは、主イエスが第2のアダムとして従順を貫いた姿を見ました。そしてその死んだはずの主が甦られた時、本当に神に従うことこそ、生きることだと学んだと思います。自分の思いを捨てて、御心に従う時、人はつまらない人生を選んだように見えて、実は本当に生きる、いつまでも生きる、禁断の木の実を食べないことこそ、真に生きることなのだ、命を得ることなのだ、そのことを直感した時、マリアは受け入れます。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1:38))
 主のはしため、僕のことです、自分が王になるのではなくて、主に服従して生きる喜びを知る。それを知った時、あのフラ・アンジェリコの作品のマリアのような顔、崇高な顔に変えられたのではないかと思います。


 私は、このマリアの物語を読む度に、また先週は永眠者記念日だったというこもあって、思い出すのは、56歳で神に召された鈴木正久牧師の「キリスト・イエスの日に向かって」、その言葉です。その言葉は、このルカの受胎告知の御言葉の最良の注解でもあると思います。ルカの物語は命が与えられるとの告知の物語、しかし鈴木牧師の場合は死の告知の出来事です。しかし話は逆のことではなくて、鈴木先生は、受胎告知のマリアと同じ経験をされ、マリアと同じように信仰の勝利を迎えた、そう私たちは気づくのではないでしょうか。

 死の床で先生は言っておられます。「この頃私が頂く手紙の中に随分度々、主の御心によって奇跡が起こって、再び再起出来るように祈っていると、こういう言葉があります。これは、しかし、私には非常に寂しいことです。なぜと言うと、(その言い方は)、主のみ心が本当に働くならば私の病気が治るのだということです。そうであれば、主の御心が私のために奇跡を行うほどには働かないので、私が死ぬのだということになります。そうであれば、もっぱら私が病気で死ぬということは、癌のためだということになります。もしそうだとすれば、このようにして死ぬことはどんなに寂しいことでしょう。生きるにも死ぬにも主にあって、というのが、私たちです。だから私にしても、本当に主の深い御心によって、世を去るのだ、このように思わなければ安らぎが与えられません。少なくても、私の死がそのようなものでありたい、そう今私は思っています。」

 死の告知もまた神の御心なのです。それを鈴木牧師は、神の僕として受け入れるところに、安らぎが与えられると言われるのです。鈴木先生は一方、「心残りがある、嘆きがある」、そう書いています。「一つは1970年代の教会の戦いに参加出来ないこと、もう一つは、年老いた母を残して…こう思う時、私は涙を止めることは出来ない」と。しかし、「お言葉通り、この身に成りますように」、と祈り続けられたのだと思います。こうも書いておられる。「死の陰を通るところに、主の備えた道があります」と。そして、「自分は元気です、元気です」と言い続けられました。


 主の言葉に逆らう者は、肉体はどんなに健康でも、魂は病んでしまうことでしょう。しかし主に従順な僕として生きる時、私たちはどんなに肉体は病み衰えても、元気なのです。そう鈴木牧師は、病床で渾身の力を振り絞って、私たちへのメッセージを残されたのではないでしょうか。私たちもまた西片町教会に属する者である以上、鈴木牧師に続く者でありたい、主のはしため、主の僕として、人生を全うしたい、そうキリストに導いて頂きたいと思います。私自身は、鈴木牧師のように、生き、死ぬ、それが出来るかどうか、それは大変怪しい。しかし「 神に出来ないことは何一つない。」(1:37)、そう天使は約束しました。私たちもそう生きることが出来る。神が私たちを変えて下さるのです。

 母マリアは、この後も、御子イエスによって心を乱され、戸惑い続けますが、最後に初代教会の信徒の一人になりました。(使徒言行録1:14)、私たちもまた、主にある苦しみも、死をも受け入れ、「元気に」去っていくことだって出来るかもしれない、神には出来ないことはないからです。



 祈りましょう。   主なる神様、先週、今週と、私たちは、あなたの僕として生きた西片町教会の先達の大いなる証しに励まさることが出来ましたこと、心より感謝を致します。私たちもその後に続く者とならせて下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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