2013年9月29日 主日朝礼拝説教 「聖書は言う」
説教者 山本 裕司 牧師
ローマの信徒への手紙 10:14~21
ローマの信徒への手紙10:14から21節までの使徒パウロの言葉には、鉤括弧が多く記されています。鉤括弧の中は全て旧約聖書の引用です。私たちは、時に引用を嫌うのではないでしょうか。学者でない私たちですら、なるべく引用や孫引きではなく、出来たら自分の言葉を語りたいと思います。しかし、パウロは、ここで、ひたすら旧約聖書を引用して恥じません。自前の言葉がなかったのではない。パウロは類い希な博学でした。しかしそのパウロがここでは引用に徹する。それは、このローマの信徒への手紙でパウロが語り続けている、主題・福音と深い関係があると確信します。それは、人は自力では救われないということです。自らの知恵の言葉、学識、それがどれ程優れていても、それが自らを救うことにはならないのです。泥沼に落ちた時、どれ程腕力がある男でも、自分の髪の毛を引っ張って自らを救うことは出来ないように。だからパウロは、福音を語る時、自分の知恵や言葉を禁欲して、聖書の言葉に聞こうとする。それがこの福音を語る箇所の鉤括弧の多さに繋がっていると思います。そしてパウロはこう言いました。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)
そこで思い出すのは、再び、ドラマ「八重の桜」ですが、ドラマはこの一月間、同志社建学の経緯を通して、日本におけるプロテスタント発祥の歴史を丁寧に描いてきました。夕礼拝が終わった後、それを観ていると、もう一度礼拝をしているような気持ちになります。その中で、新島襄が女紅場で「主われを愛す」の原曲を女学生に教えるシーンが現れます。また京都において、キリスト教への反対運動が勃発し、その中で、耶蘇を捨てようとしない八重が、女紅場を解雇される。彼女が学校を去ろうとする時、女学生たちが立ち上がって、八重から教わった、「Beautiful Dreamer」を歌って送り出すシーンもあって、深い感動を味わいました。その歌も私には「主われを愛す」と重なって聞こえるのです。
「Jesus loves me! This I know, 」、イエス様が私を愛して下さる!それを私は知っています。どうしてそんなことを、明治初期の八重や女学生は知ったのでしょうか。自分で考えて到達したのでしょうか。そうではありません。直ぐ歌は続けます。「For the Bible tells me so.」、「聖書が私にそう言うからです。」讃美歌21-484(口語訳)では、その原文に沿って、「聖書は言う、イェスさまは、愛されます、このわたしを」と美しく訳しました。自分の考えも、どんなに頭の良い人の言葉も、その知識は限界を持つ。主イエスに私は、愛されている、その福音の真理を知るためには、「聖書は言う」、その言葉を聞く他はないと歌われるのです。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
明治維新において、薩長土肥の官軍が勝利を得た時、それに対立した会津藩などの佐幕派出身者は立身出世の道から閉め出されました。これら没落士族の青年たちは生きる道を求めて、宣教師の英語塾に集まりました。しかし、八重もそうですが、彼らは英語以上に、宣教師が語る聖書の言葉に魅了されていく。寄る辺なき敗北者である自分たちをなお愛して下さる真の主(殿様)イエスを知り、生きる勇気を回復するのです。パウロの時代の異邦人も同じでした。彼らは、神を持たない孤独の中にいた。その「危機」の瞬間、まさに、聖書は言う、イエスさまは、愛されます、と「聞き」、文字通り、「喜々」として福音に従いました。しかし、一方、聞かない者の存在をパウロは指摘します。「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。」(10:16)、ここだけではありません、パウロが9章以下で涙ながらに語ったことは、同胞イスラエルが、聖書に聞かず、教会を迫害したことです。それは、長州閥など、明治維新の勝者たちが、天皇を担ぎ、キリスト教を迫害した姿と重なるのではないでしょうか。彼らには、聖書に聞く前に、自らの主張、「日本(天皇)教なるもの」がありました。その高慢なる大声によって、神の言葉を消し去ろうとしたのです。神の言葉は、確かに、預言者エリヤが経験したように、風や地震や火のような轟音ではない。「静かにささやく声」(列王記上19:12)でした。だから私たちの方も静まらなくては聞き損なうのです。それは、神の言葉が語られていないということではありません。「その声は全地に響き渡り、/その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。」(ローマ10:18)、そうパウロは、ここでも、旧約・詩編19編の言葉を引用しています。しかし全地に響き渡る神の言葉を覆い尽くすほどの、私たち人間の大声がある。騒ぎ立つ心がある。その罪が指摘されるのです。
受難週の物語を思い出しても良いでしょう。祭りの定めで、囚人を一人釈放出来る時に、総督ピラトは、主イエスの無罪を確信した。ところが、ユダヤ人は一斉に「イエスを殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけるのですが、人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と大声で叫ぶ。口語訳聖書は、ここを、真に印象的な言葉で締め括ります。「その声が勝った」(ルカ23:23)と。そこに十字架が立ったのです。そうであれば、私たちは、自らの声の大きさを悔い改めざるを得ません。あるいは、バッハは、その「マタイ受難曲」で、主イエスがゲツセマネの園で、祭司長たちに捕縛される、その時の弟子たちの騒ぎ立つ心の様を音楽をもって描きました。その時、一人の弟子が剣を振り上げて、大祭司の手下の耳を切り落とす、そのような怒りの嵐が吹き荒れるフォルテシモの音楽です。しかし、その中で、突然、「総休止」の沈黙が出現する。そこで、磯山雅先生は、この総休止の意味をこう解説します。この音楽の一瞬の沈黙とは、「そこに立つ全員が耳を澄まして主の来るのを待つ様を現している」のだ、と。私たちも、理不尽なことに合うと怒ります。感情の爆発がある。フォルテシモで叫ぶ。しかしその嵐の心を歌う音楽のただ中に、バッハ、突然、総休止を置く。彼はその試練の時こそ、「沈黙せよ」と訴えているのです。
ゲツセマネにおいて、主イエスだけが静けさの中にありました。そこで、私たちの今朝の言葉と重なり合う言葉が現れます。剣を取る弟子に対して、主は「剣をさやに納めなさい」と命じてこう続けられる。「それでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」(マタイ26:54)、ここでも聖書の言葉です。私たちが、騒ぎ立ち、自力で生き延びようとする時、そこで聖書の言葉はかき消されてしまう。聖書が言う、主の十字架から来る、愛と救いは、それでは、与えられないで、終わってしまうではないかと言われるのです。
しかし、そういう私たちの罪の大声を問うパウロが、最後に語り始めるのは、我々がそうやって押し潰したはずの神の言葉から、なお声が聞こえると言うことです。イザヤが大胆に言っている。「わたしは、/わたしを探さなかった者たちに見いだされ、/わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」(10:20)、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」(10:21)と。神を探さなかった異邦人にも、神に反抗したイスラエルにも、神はなお語り掛けると言うのです。つまり、神は誰も見捨てない。聖書はそう言うと、パウロは何度も何度も聖書を引用する。「Jesus loves me!」とは、そのように神が、耳を塞いでいる私たちを、なおも愛して下さる、という意味です。直ぐ、自分の言葉に頼り、大声で勝とうとする私たち、剣を抜く私たち、その騒音の中で、聖書が聞こえなくなってしまう私たち、そういう愛される資格のなき私たちを、なお神は一方的な恵みをもって愛して下さるではないか。聞く耳の持たない者に一所懸命、神の方で近付いて来て下さり、私たちの耳を押し広げて下さる。これでも聞こえないのか、と、「For the Bible tells me so.」、聖書はこう言っているではいか。「こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。「救う方がシオンから来て、/ヤコブから不信心を遠ざける。」」(11:26)、そうやって、私たちの罪を赦し、詰まった耳をこじ開け、閉じた目を開いて下さる、憐れみの御手を伸ばして下さる。そのイエスの愛を、「This I know」、知ることの出来た私たちの人生の限りなき祝福を思う。
祈りましょう。 主なる神様。どんなに年老いて耳が遠くなっても、どのような巷の騒がしさの中でも、どうかあなたの愛の言葉を聞くことの出来る耳を、終わりまで開き続ける者とならせて下さい。
(この後、皆で喜びの中、讃美歌21-484「主われを愛す」(口語訳)を歌った。)
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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