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2013年9月22日 主日朝礼拝説教 「美しき伝令の足」

2013年9月22日 主日朝礼拝説教 「美しき伝令の足」

説教者 山本 裕司 牧師

イザヤ書 52:7~10 ・ ローマの信徒への手紙 10:14~21


 今朝与えられましたローマの信徒への手紙10:14以下が朗読された時、聖書を開いておられた兄姉は、それらの節に多くのカギ括弧があることに気付かれたと思います。この括弧内の言葉は、旧約聖書からの引用文です。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」(ローマ10:15)、これは以下の旧約からの引用です。「いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え/救いを告げ/あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる。」(イザヤ52:7)、今、こうして「何と美しいことか」という感嘆の声を聞きますと、既に一つの歌が、心の中で響き始めるのです。それはヘンデル作曲「メサイア」の中のアリアの一曲です。私はこのソプラノを聞く度に、心の高揚を押さえることが出来ません。この歌は「ああ、美しきかな」、この歌詞通り万民に「美しい」と承認を得る音楽でしょう。しかし優れた芸術がいつでも皆に美しいと認められるわけではありません。子どもだましのような作品が、返って大衆に受け入れられることは多いのです。そして真の芸術は少数の選ばれた人にのみ、その真の美しさの秘密を明らかにする、そういうこともまた多いと思います。


 ヒトラーは、若かった頃画家志望だったのですが、何度芸術大学を受験しても不合格になる。彼は絵の道を諦めて政治の道を行き上り詰めました。その権力を手にして彼がどんな野蛮なことをしたかは誰でも知っています。その一つに絵画に対する弾圧もありました。彼は自分の好みとする具象的な絵画を奨励し、抽象的な作品や帝国主義に反すると思われる芸術を弾圧しました。そのため優れた画家たちがドイツを追われたのです。その時大衆もまたヒトラーに賛同したと伝えられるのです。ヒトラーが好んだ作品は、分かり易く力強く美しかったからです。逆に彼によって「退廃芸術」と名付けられた作品は、抽象的で、時に弱々しく醜いものに見えたからです。

 以前、芸大の美術館にも展示されましたが、退廃芸術の烙印を押された一つに、ドイツの彫刻家エルンスト・バルラハの作品があります。それは「再会」と題される等身大の彫刻です。誰と誰の再会でしょうか。それは復活を信じない弟子トマスと甦りのキリストとの再会の場面を描いたものだと伝えられています。あるいは宮田光雄先生は、放蕩息子と父との再会の場面(ルカ15:20)を思い浮かべています。さらにこれは、私たち自身とイエス・キリストとの出会いの場面にも見えてきます。トマスにしても放蕩息子にしても、一度、神を捨てたのです。しかし、その時、バルラハはその男を疲れ果てた老人として描きました。真の故郷、神の国を捨てたこ時、彼は力を失ってしまったのです。しかしその罪人を、キリストが両手で抱き留めて下さっている。主が支えて下さるから立つことが出来る、その信仰告白がここから響いてくるようです。しかし、何故、これが退廃芸術の烙印を押されたのでしょうか。その一つの理由は、この作品全体から醸し出される、弱さの雰囲気であると思います。その頃、ヒトラーの帝国は輝くような権勢を誇っていた。その力をもって、世界支配すら成し遂げようという勢いです。そういう中で、倒れそうになって人にようやく支えられている弱さは、第3帝国・ドイツには相応しくないと判断せずにおれなかった。それだけではありません。その支えている側のキリストの表情にも、途方に暮れたような無力さが現れている、と指摘する人もいるのです。キリストもまた英雄ではない。力尽くで人を引っ張っていくお方ではない。弱い者が弱い者を支えているのです。美しくない者が美しくない者を支えているのです。そして私たちは、あの御言葉を思い出さざるを得ません。「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」(イザヤ53:1~2)、キリストは、ヒトラーのように輝ける力で人を支配する存在ではありません。十字架につかれるのです。「輝かしい風格も、好ましい容姿もない」、とある通り、醜くなられる。弱くなられる。しかし、その弱さと醜さの背後から、バルラハの作品がそうであるように、美が静かに現れ出てくるのです。

 ヘンデルの「メサイア」は、よくクリスマスに演奏されますが、これは元々、受難節のための作品として作られました。その受難週の最初の日、主イエスは都エルサレムに入城され、御自身が王の王、主の主のであられることを宣言された。しかし、軍馬ではなくロバの子にのっておいでになられたので、エルサレムの人々は主を見捨てました。主イエスの美しさが分からなかったからです。そのように、どうしてもその美が分からない旧約の民・同胞ユダヤを前にして、使徒パウロはあえて旧約聖書を引用する。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と、そう書いてあるではないか、と。これは、先ず、イエス・キリストの御足です。その御足に香油を塗り、自らの髪の毛で拭った女性マリアがいたと福音書(ヨハネ12:3)には書かれてあります。その足の美しさを始めて発見したのがこの女性です。そしてこの足の美しさを、受け継ぐ者こそ、パウロのような伝道者であり、またここにいる私たちキリスト者です。


 パウロは、その美を語る中で、同時に「宣べ伝える人がなければ」(10:14)と伝道者の必要性を訴えています。それは必要だろうと私たちも思います。そして、誰が宣べ伝える人となってくれるのだろうと、周りを見渡すのですが、それは、その時、ここを今朝、読んだ、私たちのことだった。そうこの御言葉が聞こえてきた時、直ぐに私たちは心弱くなってしまいます。伝道って言うけど、教会に誘って来てくれる人は少ない。私の話を聞いて何て美しい話だなんて言う人はいませんよ。そう言い返したくなるのではないでしょうか。しかしパウロは書くのです。それはあなただけのことではない。既に起こったことだと、そして次の引用・カギ括弧を記すのです。「イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。」(10:16)、こここそ、あの受難預言、イザヤ書53:1の引用です。主イエスの福音を、人は聞くことはなかった。「誰が信じましたか」、誰もいないではないかと言うのです。主イエスの福音も、それを持ち運ぶ御足も、あの女性マリアを除いて、誰も、美しいと思わなかった。美しいと思わなかったから、不敵にも、ゴルゴタで、御足に釘を打ち込めたのだと思う。しかしその弱さと、醜さと、そして何よりも、御足から滴り落ちる御血潮から、思いがけず、あの女性が発見した、至上の美がこの世に噴出したのであります。


 私は以前、北支区の集会があって信濃町教会に行きました。駅を降りて教会に向かうと、沢山の人たちが同じ方向に歩いて行くのです。この夥しい人たちが、北支区の集会に向かっているのかと、今日は北支区始まって以来の凄い集会になると期待に胸を弾ませて歩いて行くと、何のことない創価学会の建物の中に皆吸い込まれていきました。急にぽつんと一人になってしまって、いつものようにガランとした信濃町教会に入りました。そして思うのです。私たちもこうして日曜日毎に礼拝にやってきます。歩いてやってきます。足を使うのです。殆どの人が、たとえ日曜日の朝外出をしても、それぞれ別の所へ行くために自分の足を動かすのです。しかし少数であるかもしれませんが、キリストの御足の美しさを、あの女性から学んだ者たちが、教会に向かいます。その足は、キリストの御足に似てくるのではないでしょうか。そして、心ある通行人は、それは、百人に1人かもしれない、千人に一人かもしれませんが、教会に向かう私たちの足を見て、何かを感じるのではないでしょうか。それが伝道になるのです。


 本日、午後、新宿で、キング牧師の志を受け継ぐ人たちが、差別撤廃を求めて「東京大行進」を行います。西片町教会九条の会もそれに加わります。まさに、デモとは、足の表現です。足が平等と平和を訴えるのです。それが宣教となると確信します。教会学校の生徒は、毎週、ここで、大人たちと入れ違いになります。毎主日、午前10時頃、子どもと大人がそこで出会います。子どもたちは、今日もあの人が来ている、そう思って見ているのです。お年を召されて、時に足を引きずるようにして、それでも毎主日朝、教会に入って来る人たち。特に何か特別におもしろいことがあるわけでもないのに、どうして、教会に大人たちは歩いて来るのだろう。それは、教会に何かがあるのだ。その何かを、後に子どもたちは、人生の悲しみに遭遇した時、知ることになる。十字架の主の御体から輝き渡る美しさです。勿論、教会学校でも、説教は繰り返しなされますが、その時は上の空の子どもも、日曜日午前10時過ぎの大人たちの足を見て、信仰が育まれ礼拝を重んじる気持ちが養われていくのです。ああ、こうやって、死ぬまで、どのような人生の季節にも、雨の日も、風の日も、試練の嵐の朝も、教会に足を運ぶことが信仰なのだと、無言の内に学んでいくのです。その足は美しいのです。そんなこと、私たちは一つも考えないかもしれません。雄弁な口がするのが伝道だと思うかもしれません。格好良いカリスマ牧師の伝道が効果的だと思うかもしれない。しかし、そうではないのです。足が伝道する。顔が美しいのでもない。スタイルが美しいのではない。声が美しいのでもない。足が美しいのです。ここに不思議なパウロの美学があります。

 「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。」(ローマ10:15)アーメン!



 祈りましょう。  主なる神様、御子イエスが私たちの所に来て下さった、その足の美しさを受け継ぐ、伝令の役割を私たちの足にも担わせて下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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