2013年6月9日 主日礼拝説教 「神が私の味方であれば」

説教者 山本 裕司 牧師

ローマの信徒への手紙 8:31



では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。(ローマの信徒への手紙 8:31)



 この礼拝において、ローマの信徒への手紙を読み続け、とうとう今朝、8:31以下のパウロの言葉に達しました。今、私が「とうとう」と言ったのには理由があります。注解者たちは、ローマの信徒への手紙は、3つの部分に分けることが出来ると書きます。その第1部がこの8章で終わるのです。パウロはこれまで、1章から先週読んだ、8章30節まで、キリストの福音について徹底的に語ってきました。そしてついに語り切ったと思ったようです。そこでパウロは、この第1部を締め括ろうとしているのです。しかしこの時、パウロの心には一つの困惑が生じたようです。この31節の「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。」この言葉をこう訳した人がいます。「この上、私は何を言ったらいいのでしょうか。」パウロは、ここまで、多くの言葉を駆使して、何とか福音を分かってもらうために、この手紙で書いてきました。しかしある人が、「ここでは」もうパウロは、そのことを断念しているかのようだと指摘しています。人に救いの内容を分かってもらうためには、確かに、神学的な論理、筋道が必要です。それだけにこの手紙も時々、複雑な長い文章になっていると思います。

 それに似て、私もこの説教壇に立つ時、多くのことを丁寧に、皆さんに語りたいという思いにかられることがあります。それをもって福音の豊かさを語りたいと願うのですが、時に困惑をしてしまいます。それは礼拝の限りある時間の中で、語り尽くすことが出来るかと途方に暮れるからです。しかし一方、長く複雑に語れば伝わるということでもないということが、説教者の生活の中でだんだん分かってきました。長い理屈を聞いただけで、神の言葉が分かるものではない。「聖霊がそこに働いて下さらなければ」と思うようになりました。そして、逆に、聖霊が働いて下されば、たった一言の言葉でも、人の心に信仰が生まれるであろう。希望が与えられるであろう。私は、そういう喜びの経験を牧師の生活の中で、随分させられてきたように思います。

 また、礼拝には説教だけがあるわけでもありません。聖餐が用意されます。パンが用意されない主日も、主の食卓が、この中央に置かれ、この礼拝が食卓を中心に成り立っていることを現しています。私は、主イエスがこの礼拝におきまして、御自身を私たちに明らかにされるために、説教だけではなくて、この聖餐を用意していて下さったということが、何と素晴らしいことだろうと、今さらながら感謝します。聖餐に与かるということは、福音の全てを受けるということです。キリストの十字架による罪の赦しも、復活の主から与えられる永遠の命も、終わりの日の神の国の祝宴の喜びも、そういう恵みの全てをいっぺんに私たちは、聖餐によって味わいます。それを言葉にしたら何日かけても、語り尽くすことの出来ない救いの広さ、高さ、深さを、私たちは聖餐によって頂くことが出来る。牧師は説教の終わりに、なお言葉が足りなかったと、残念に思うことがあります。あるいは、自分でも何を言っているか分からない説教になってしまったと、会衆に、いえ、誰よりも神様に対して、申し訳がないと、顔を上げられない主日もあります。そうやって、その主日、誰よりも失意落胆する説教者が、なおそこで救われるとしたら、それは、聖餐が後に控えているからです。主の食卓が前に据えられている。その聖餐こそが説教の結論の役割を果たしてくれるであろう。パウロも似た気持ちだったのかもしれません。「この上何を語ることがあろうか」(8:31)と、やるべきことはした、後は神様に任せて、安んじて、このローマ書第1部を終えることが出来ると思ったのではないか。そこで、なおこの31節以下で何をするかと言うと、それは聖餐に匹敵するような、福音の「結論」を短く「一言」でまとめようとしているのではないかと思いました。

 私が神学生の時に、ある先生が言いました。「聖句を暗誦しなさい。自分の教会の信徒にも、聖句を覚えさせなくてはいけない」と。どうしてかと言うと、人生の危機の瞬間に「あの聖句はどこにあったかなあ」と探していると「間に合わない」と言われるのです。危機は突然やって来て、私たちに勝負を挑んできます。その時「ちょっと待ってくれ」と言っても、待ってくれない。その一瞬、無意識に出て来て、私たちを助ける聖書の言葉が長いわけがない。その時、私たちを救うのは、体が覚えている言葉だと思います。そういうまさに体で味わう聖餐に似た言葉をパウロは「これが結論の一言」と言って、この31節でこう語ります。「もし、神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できますか。」

 創世記の物語ですが、族長イサクには双子の息子がいました。兄がエサウ、その弟がヤコブです。弟には家督相続の権利がない。それが我慢ならなかった野心家ヤコブは、汚い手を使って兄を出し抜き、まんまと長子の特権と祝福を奪い取った。日頃温厚な兄エサウも流石に怒り「殺してやる」と誓う。ヤコブは逃亡します。故郷を追われ、もくろみとは裏腹に家督どころか一切の持ち物を失い、唯一の味方であった最愛の母リベカとも今生の別れをしなければならなくなる。もう誰も味方はいない。そう思って、夜、荒野に石を枕にして寝ていると夢を見る。そこに階段が現れ、神が降ってこられる。そして言われたのです。「見よ、私はあなたと共にいる」(創世記28:15)と。実は「神が私たちの味方である」(ローマ8:31)と訳された言葉は、この神様のヤコブへの言葉に似ているのです。「見よ、わたしはあなたと共にいる」、天涯孤独の、闇の荒野で、ヤコブが聞いたこの言葉、これもまた決して長くはない。この言葉を、ヤコブはこの時、暗誦したに違いありません。これで、彼の人生が直ぐ好転したわけではありません。その後も長い苦行とも言える日々が待っていました。ヤコブは荒野を抜け、伯父ラバンのもとに身を寄せるのですが、ラバンは甥を利用するばかりの狡猾な男であった。そのためヤコブは、過酷な羊飼いの仕事を20年も勤めねばなりませんでした(創世記31:41)。にもかかわらず、ヤコブがついに財産と妻を得て帰郷の旅に出ることが出来た。どうしてそんなことが出来たのでしょう。ヤコブはラバンに言います。「もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方がわたしの味方でなかったなら、あなたはきっと何も持たせずにわたしを追い出したことでしょう。」(31:42)、あの20年前の荒野で、覚えた言葉「見よ、私はあなたと共にいる。」つまり、神様が私の味方となって下さったから、私は生きた。それだけが理由だ、そう歓喜の声を挙げたのです。

 昔、この若き日のヤコブのような体験をした、ある友人の告白を聞いたがあります。彼は、あるキリスト教系のボランティア団体に属して熱心に奉仕していました。組織の中で、徐々に力を得て、益々張り切って働いていたある日の会議の時、示し合わせたように、メンバーが批判し始めた。汗をかきながら弁解をしました。でもその弁解の言葉を捕らえて、また別のメンバーが、言葉尻を捕らえて批判してくる。真っ赤になって反論すると、次は、いつもは黙っているような人まで、思いがけない角度から攻めてくる。最初どもりながら答えていた彼も、黙ってしまいました。良いことをしてきたと思っていたのです。でも、実際はそうは思われていなかった。自分は間違っていたことに気づいた。そして、もしこのままこのビルを出たら、そのまま国道に飛び出してしまうのではないか、そんな衝動にかられました。しかし、その時、聞こえてきた言葉が、今朝の使徒パウロの言葉だったと証しするのです。口語訳聖書でです。「神が私の味方であるなら、誰が私に敵し得ようか。」この言葉が、突然、頭の中で響き渡った。そして、皆に謝って、その場を立ち去った。その団体にはもう2度と行かなかったけれども、死ぬことはなかった、「私は助かったのだ。」そう証しするのです。

 これに似たことは、誰もが一生の間に一度は経験するのではないでしょうか。立つ瀬がない。自分の方に正義があれば、それを立つ瀬に出来るかもしれない。しかし、ヤコブがそうだったように、自業自得なのです。そして、そんな時は、もはや誰も味方はしません。落ち目の人間を誰も助けません。そのターゲットになった時「誰かこの中の一人でもいいから、味方してくれたら」と、私たちは切実に思う。しかし、そういう時に、味方になってくれる人は意外にいない。人はそんな時、自分が虐められないために、虐めに加わる子どものようになるのです。袋叩きに合っている者の味方になるためには、自分もまた傷つかずには済まないのです。罪人の味方になる者は、自分もまた罪人の一人に数えられるのです。そうやって、孤独地獄の中に呻吟する私たちに、主イエスだけは「私はあなたの味方だ」と言って下さる。しかし、そのために、主は「罪人の一人に数えられ」、「死に渡され」(ローマ8:32)十字架につけられました。その傷をもって、私たち罪人と共にいようとして下さったのです。そして「全ての者があなたの前を去っても、見よ、私はあなたと共にいる」と耳元で囁き続けて下さる。

  昨日の東京新聞のコラムで、作家で教授でもある楊逸(ヤンイー)さんが、先週の大学の教室に入ると、学生が一人しかいなかった。複数の電車が遅れたらしい。そう書いて彼女は続けます。前の日、東京株式市場で、1,143円28銭急落した。「株が暴落すると、飛び込みが増える。1990年代の株の暴落で、上海の株取引所のビルから飛び降りた人たちが複数人いた」と。株が暴落しなくても電車はよく止まります。多くの人たちが毎日のように自死している。周りの人に聞くと「何故彼が自殺したか分かりません」と首をかしげる。「今朝会った時は明るくしていたのに」と。そうであれば、現在日本の株価乱高下同様、明日のことは、誰にも予想がつかないということです。そうやって地の底に突き落とされた荒野の夜をどう乗り切るのか。神の言葉しかないのです。その時、聖書を初めから読み直したり注解書を開いたりする暇はない。悩みの嵐の中では、頭も働かなくなります。その時、福音の全てを一言で明らかにする言葉が、どうしても私たちには必要です。そして、それを今朝は、皆で心に刻みました。記憶しました。そのローマの信徒への手紙の結論をもって、私たちは、どのような暗黒の中でも光を見ることが出来る。それがこの世の浮き沈みの激流の中で、唯一の立つ瀬となる。それこそ、何にも勝る命の言葉です。「もし神が私たちの味方であるならば、誰が私たちに敵対出来るであろうか。」(8:31)感謝!



 祈りましょう。  主なる御神。全ての人が私を捨てても、ただお一人、変わらず共にいて下さる御子イエスの御名を心より讃美致します。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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