2013年6月2日 主日朝礼拝説教 「弱者に現れる霊の奇跡」
説教者 山本 裕司 牧師
ローマの信徒への手紙 8:26
同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。(ローマの信徒への手紙 6:26)
今、私たちは、聖霊降臨節の期節を過ごしています。この期節に誰もが思い出すのは、使徒言行録2章に記されるペンテコステの物語です。そこでは、天から激しい風が吹いてきたような音が家一杯に響き渡り、炎のような真っ赤な舌が人々の上にとどまります。その天からの舌に導かれて、全世界の言葉を語り出す弟子たちの姿があり、群衆の驚きの中、ペテロの雄大な説教へと続き、やがてその日の内に3000人が悔い改め洗礼を受けたという壮大な結末が物語られています。この圧倒的な力に押し出されて教会が生まれ、世界伝道が始まるのです。聖霊が下るということは、このような力が与えられるのことだと、私たちはペンテコステの度に改めて思い起こします。しかし同時に、私たちは、決して目を見張るような成長を見せない、西片町教会、あるいは日本基督教団の諸教会、そして私たち一人一人の人生と比較をせずにおれません。その時、私たちは初代教会の姿を羨ましく思うかもしれない。あるいは深い劣等感を覚えるかもしれない。私も一人の説教者として、一度に3000人が回心するような説教の言葉を、聖霊様から一度でいいから頂きたいと思います。しかし現実は、受洗する人は希で、礼拝出席者は減少しており、長く教会を守ってこられた兄姉が、次々に、御高齢で来ることが出来なくなられるという心細い思いに悩まされています。しかし私たちがそこで忘れてはならないのは、聖霊降臨は、もはや私たちの教会と無関係であると思ってはならないということです。あるいは、使徒言行録に現れるような、誰の目にも感動的な体験だけが聖霊の働きだと考えることも愚かなことです。地味かもしれません。目に見える姿としては話は逆だと思われるような教会にも、やはり2000年前に降られた同じ聖霊が、今朝も豊かに注がれているといことを、私たちは信じなければならないし、信じることが出来るのです。そのためにも、再びこのローマの信徒への手紙8:26のパウロの言葉に立ち帰る、聖霊降臨節第3主日の礼拝としたいと願います。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。」
使徒言行録が強さについて語るとすれば、今朝のパウロの言葉は先ず弱さです。「弱いわたしたち」であります。この手紙の宛先のローマ教会は、実は今の日本の教会以上に小さな群れだったと推測されます。異教の諸宗教が渦巻いている所に、ポツンとただ一つある教会です。どんなに心細かったと思う。そこに集う人々も、おそらく私たちとどこも違わない、やはり弱い人々であったに違いありません。しかし教会において、その弱さは放置されないのです。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。」私たちは弱い、しかし、御霊が助けて下さると断言する。それは、私たちが自分で自分の弱さを助ける必要もないということです。私たちは自分が弱いと思う時、強くなりたいと思います。強がってみせる。大きく見せる。自分の弱さを隠そうとする。しかし私たちが聖霊信仰を持つということは、自分の弱さを恥じる必要もなくなるということです。むしろそれを受け入れることが出来るようになる。この油断も隙もない世の中では、自分の弱さを隠さねばならない、そうしないとつけ込まれると思います。しかし聖霊によって生まれた教会の中では、自分の弱さを、互いの弱さを、受け入れて生きることが出来るようになるのです。
聖書は、人は元々弱い者だということを徹底的に語ります。聖書は何百年、何千年と人々に読み継がれてきました。それは、そこにある人間理解に、全世界の心ある人たちが共感したからに違いありません。人間は弱い。そこに人間の本質がある。王と呼ばれる人の中にも、模範的な信仰者だと思われている人の中にも、拭うことも出来ない弱さがあることを、聖書は至る所で語ります。それが本当であれば、自分が強い存在であると虚勢を張るのは空しいことです。直ぐメッキは剥げる。教会で生きるということは、そのような自分についてのありもしない夢を追うことではありません。他者に対して不可能な夢を押し付けることでもありません。私たちは弱い、その弱さから絞り出されてくるような呻きに生きる、その瞬間、「“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(8:26b)のです。
ル・フォールの作品『断頭台の最後の女』は、18世紀末、フランス革命の時代の教会に対する迫害の中で、断頭台に殉教したカルメル会修道女を描いた作品です。次々に断頭台の上で殉教していく修道女の中で、最も困難なのは「最後の女」です。殉教という厳しい場所に立たされた時、信仰者が必ず勇気を奮い起こすためになすことは、讃美すること。歌うと力が湧いてくる。しかし処刑台は一つしかない。いっぺんに死ぬわけにはいかない。最後の修道女は独り残って、誰も唱和する者のない中を、殉教していかなければならないのです。そしてその「最後の女」とは、ブランシュという、かぼそい、弱い、そのために 修道院の生活に耐えられず一度は逃亡した女だったと作者は言うのです。
この女性は生まれ落とされる時に、その母親が、非常に危険な目に合ったこともあって、とても心配症な子どもでした。彼女の家庭教師は、その臆病をどうにか直そうと思って、こういう話をします。カルメル会修道院にある「小さき王」と呼ばれるイエス像の話です。この小さき王は金の冠をかぶり笏を持っていた。どちらも「小さき王」が、天地の支配者であることを明らかにするために、フランス国王が寄進したものでした。「小さき王」は、そのお礼として、国王とその民を守って下さるのだ。おかげでフランスでは誰でも安心して毎日生活出来るのだから、やれ階段が外れやしないかとか、やれ壁が崩れやしないかと心配しなくていいのよ。フランスの王様だって、あんなにお強いじゃありませんか。天の王様にとってはあなたを守ることくらい、何でもないことなのよ、と教育したのです。そういう信仰を得てから、この少女の心は落ち着いて、心配症もなくなり、明るい女の子に変わりました。そしてその子が16歳になった時に、そういう救われた体験からでしょうか、彼女は修道女になることを志願して、その「小さき王」の像の置かれているカルメル会に入るのです。最初はその信仰生活は何もかも順調でしたが、時代の大きなうねりの中に、ブランシュも巻き込まれていく。フランス革命が勃発し、あのイエス像に冠を贈ったフランス国王も捕らえられてしまったのです。そして国民議会が修道院に圧迫を加え始める。財産の没収が行われ時、あの「小さき王」の王冠と笏も取上げられてしまいました。その上、像は、床に落とされ頭が粉々に割れてしまったのです。ブランシュがそうやって頼りにしていていたものが次々に失われていった時に、彼女は家庭教師に出会う前の臆病な子に戻ってしまう。そして恐怖に駆られて修道院から逃げ出します。
しかしその弱い小さな女が最後に見せてくれたものは、先に述べたような、断頭台の最後の女の役割を一身に担う殉教の死であった。その時、彼女が最後まで一人で歌い続けた歌こそ、「造り主なる御霊よ、来たりませ」というペンテコステの歌であったと、作者は印象深く描くのです。
その作品の中で作者はこういうことをある人に言わせています。「あなたは一人の英雄的な女性の勝利を期待していらっしゃった。ところが、あなたが出会われたのは、弱者の中に現れた奇跡なのです。しかし、この点にこそ、限りない希望があるのではないでしょうか。」「弱者の中に現れた奇跡」、ペンテコステの出来事とは、まさにそういう奇跡なのではないでしょうか。だからこそ限り無い希望があるのではないでしょうか。問題は人間的な強さとか、大きさではない、神から来る力、私たちのような弱い臆病な存在に殉教することをも可能とさせる、聖霊の力こそ全てなのです、そう言われるのです。
この物語にまつわる対談を作家の真継伸彦さんと井上洋治神父がしています。ル・フォールはその作品の中で祈りというのは、自分が底の底まで徹底的に落ち込むことなのだ、と書いている。そこで2人が思い起こすのは、リルケの「秋」という詩です。
「落ち葉が落ちる。絶えまなく落ちるけれども、底の底まで落ちれば受け止めてくれる手のひらがある。」
そうリルケは歌ったが、ル・フォールのこの作品にも、そのような心があるのではないか。彼女はやはり、落ちて、落ちて、落ちて、にもかかわらず、受け止めてくれる手のひらを信じ切っているに違いないと、互いにこの2人は頷き合っています。
私たちの弱さというのは、まさに落ちるということにおいて明らかになります。ここでパウロが指摘しているように、どう祈ってよいか忘れてしまうほどの弱さに、私たちは落ち込む。そこではもはや国王が自分を支えるわけではない。美しい王冠と笏に飾られた力強いイエス像が助けになるわけではない。そうではなくて、むしろ、逆に、王冠と笏を奪われ、革命に酔った民衆に奪われ、おもちゃにされ、最後には溝に捨てられ、顔を砕かれてしまう、泥だらけの「小さき王」の像、その弱い像が指し示しているものこそが、私たちの弱さを本当の意味で支えるのではないか。そう暗示されている。イザヤが預言したように。
「この人は…見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。…彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであった…、彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:2~5)
私たちの墜落を支えるのは、御自身が他の誰よりも深く落ちていかれ、十字架の底まで落ちていかれ、さらに陰府の底の底にまで落ちていかれた、主イエス・キリストの手のひらです。その十字架の主の霊こそ、私たちの弱さを、執り成して下さる、執り成し可能な聖霊様なのです。私たちは目に見える支えが、全て奪われた時、ブルブル震えるかもしれない。呻くかもしれない。恐れるかもしれない。しかしその中で、なおいつの間にか、勇気を回復することが出来る。最後は恐怖に立ち向かう力が与えられる。聖霊様を讃美する歌を歌う時、私たちにも、そのような奇跡が起こる。だから私たちは、自分にも教会にも望みを少しも棄てる必要はない。
祈りましょう。 主なる神、聖霊のお力によって、今このテーブルに用意されているパンとぶどう汁に、あなたのお力が注ぎ込まれ、私たちのくずおれそうになる心を励まして支えて下さい。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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