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2013年3月29日(金) 受苦日消火讃美礼拝

2013年3月29日(金) 受苦日消火讃美礼拝 -ヨハネ福音書によるテネブラエ-キリストは一粒の種となり

説教者 山本 裕司 牧師

ヨハネによる福音書 12:24



はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネによる福音書 12:24)



 受難週の金曜の夜、私たちは闇の中で、文字通り、闇という名の礼拝「テネブラエ」を守っています。御子イエスがお生まれ下さったことを祝う、クリスマスイブの夜の礼拝では、最後にこの会堂が、キャンドルの光で満ち溢れました。しかしその御子の光が、今夜、人間の七つの大罪によって、次々に消されていく、ついにはマスターキャンドルも退堂し、主の命の光を奪い尽した現実を表現しています。

 先ほどのプログラムでは、その第2の蝋燭の光を消した時、私たちは、「ユダが主イエスを裏切ったことを思いつつ、この蝋燭を消します」と言いました。そして、第3の蝋燭を消火する際、「ペトロが、3度も主イエスを否んだことを思いつつ、この蝋燭を消します」と唱和しました。この2つの主の光を消した男たちは、決して主の敵ではありませんでした。主の弟子です。ペトロは一番弟子の誉れ高く、ユダも会計係を任されていたように特に信頼された弟子たちでした。つまり、命懸けで、最後まで、主をお守りする使命に生きるはずの優れた2人の弟子が、等しくこの受難週の夜、主イエスを裏切りました。そうやって、ペトロとユダは、同じように主の貴い光を吹き消し、この世を闇で満たしたのです。これは、裏切りの物語であります。


 私はこの受難週に、南アフリカ出身の作家ヴァン・デル・ポストの作品『影の獄にて』を読んで過ごしました。これは後に、大島渚監督によって「戦場のメリークリスマス」として映画化されものの原作です。舞台は、日本軍による1942年のジャワ島捕虜収容所です。数百名の捕虜たちを整列させた前で、要求に応えないイギリス人将校に対して、怒り心頭に発したのは、収容所長・ヨノイ大尉(坂本龍一)でした。彼はついに将校を跪かせ、「切る!」と一喝し、軍刀を抜くと、白刃に唇を当てて祈りをあげた。その怒りは、将校一人の死をもっても贖われそうもなく、今から大虐殺が始まるのが予想されたのです。捕虜たちが絶望した、その瞬間、捕虜の一人セリアズ(デヴィッド・ボウイ)が、「僕が止めてみせる、さよなら」と仲間に言い残し、隊列から歩み出て来る。ヨノイが軍刀の鍔への短い祈りを終えて、再び眼を開いた時、セリアズは、もう目の前まで来ていたのです。彼はイギリス人将校とヨノイの間に割って入り、思いがけず、ヨノイを抱擁し両頬に頬づりした。それによって、ヨノイは顔面蒼白となりわなわなと震え死人のように仰向けに倒れそうになった。この結果、事態は一変し、この大虐殺になろうかという緊張状態は雲散霧消してしまう。しかし言うまでもなくセリアズは処刑されなければなりませんでした。
 

 セリアズは何故このように捨て身で、人々の命を救うことが出来たのでしょうか。彼が特別な聖人だったからでしょうか。そうではありません。物語は、過去に遡り、彼もまた裏切りの物語の主人公であったことが描かれていくのです。高校生であったセリアズは、成績優秀でスポーツ万能、なおかつ金髪のこの上なき美しい少年でした。彼は、学校中のアイドル、憧憬のまとであった。ところが、最高学年の時、弟が入学してくるのです。セリアズは、背中に大きな瘤を持つ弟を愛おしみ、幼い頃から、常に兄として保護してきました。しかし、完璧であったアイドルにもこのような不格好な弟がいたことが、学校中に知れ渡った時、それはセリアズに対する同情と共に、少年たちにも、教師たちの中にすら、何か隠微な心の変化が生じたのです。そして、新入生に対する恒例のイニシエーションの日、助けを求める弟の眼から、兄は逃れるように実験室に身を隠します。上級生たちは、新入生の中でも最も弱い弟をターゲットに絞り、取り囲み、得意技を見せてみろと迫る。その時、弟は歌い出しました。それは彼の音楽的才能が溢れた完璧な演奏でしたが、それが益々少年たちの怒りをかき立て、弟は水を浴びせられ、ワイシャツをはぎ取られ、裸にされた。その時、一人の少年が勝ち誇ったように、「見ろよ、この小僧には瘤があるぜ」と叫び、その虐めは激化し一人の教師に止められるまで続いた。セリアズはそのように、弟の存在を恥じ、見殺しにした。そうやって、弟の兄に対す絶対的な信頼を裏切りました。その時、実験室のカーテンの隙間から、校庭での陰惨な光景を見下ろしていた、セリアズの心の中で、曉の鶏鳴が聞こえたと、作品は記す。この兄の姿は、まさに、主イエスが大祭司邸で、殴られた時、弟子であることを否認したペトロの姿そのものだったのです。弟は、それ以来一切歌を歌わなくなりました。


 爾来、セリアズの心はいつも暗いままでした。それはどれ程、弁護士として成功しても、どれ程狩猟の趣味に没頭しても、その心の闇から逃れることは出来ませんでした。彼は戦争が起こると、その虚無から逃れるために、いち早く入隊し最前線行きを志願する。やがてパレスチナに派遣されイムウォシュという修道院に駐留し、その近くの窪地で戦闘訓練をしていた。そこで出会った修道僧から、この窪地こそ、実に、キリストが復活の後、初めて弟子の前に姿を見せた聖なる地だと、聞かされました。その直後、彼は重症のマラリアに罹患し、死を覚悟した時、戸外で、風に吹かれ、空と星を見つめて死にたいと願います。そこで従卒の手を借りて、修道士と出会った斜面に横になった。春の日が沈む夕暮れの時刻になった時、不思議なことに、セリアズには、2000年の時を超えて、打ちひしがれた弟子たちの姿がそこにあるのが見えるのです。さらに、あの御方が近づいてくる。そして弟子たちに、「皆が揃っておらぬが?」と問われたので、弟子の一人が「いえ、これで全部です」と答えた。ところが、御方はきっぱりと頭を振って、「ユダの姿が見えぬ」と言うので、一人が「しかし当然、先生もご存知のはずですが、ユダは、首をくくって死にました。」と応じた。復活の御方は、これを聞くと、苦しげに仰せになられる。「そんなはずはない。もしそうだとすれば、すべては徒労であった」と天を仰がれたのです。そしてセリアズはこう述懐します。その時、熱病の私は、いつの間にか、その御方の足元にひれ伏し、何故だろうか、申し上げた。「私がユダでございます、こうしてここに参っております。」するとその御顔に光が差して、御手を延ばし、熱に震える私を立たせる。そして「父よ、感謝します」と祈ってから言われた。「弟のもとへ戻って、和解しなさい」と。朝が来た時、熱病は去っていた。私は、一月の休暇願を出すと、故郷へ向かって旅立った。パレスチナからエジプトへ、そしてアフリカ最南端に向かって大陸を縦断して行った。そして弟に会うと、高校生の時の裏切りの罪を告白し、弟の赦しを得た時、丸一年雨が降らず渇ききったアフリカの大地に雨が来る、さらに、弟の妻は驚愕して涙を流した。何故なら、結婚してこのかた、一度も歌わなかった弟が、天使のように、美しく歌い始めたからだ。


 ジャワでのセリアズの処刑方法は生き埋めに決まった。彼は穴の中に垂直に入れられ首から下が埋められた。その姿の気高さに、敵味方を超えて、その前を通る軍人たちは、彼に敬礼を捧げる他はなかった。2日目の夜は、彼に向かって、国籍を超えた捕虜たちが全員で讃美歌「主はわがかいぬし」を歌った。終わった時、キャンプ内のどの眼にも涙が光っていた。3日目の深夜、午前3時、満月の中に、既に所長を更迭され行方不明であったヨノイが姿を現した。そしてセリアズの金髪を切り取り、彼に向かって深々と一礼して去って行った。終戦後、ヨノイは捕虜収容所での蛮行の数々のわりには、ただの一人も殺害していなかったために、処刑を免れ、4年後に特赦された。そして、ヨノイは肌身離さなかった金髪を、彼の故郷である神社に奉納して、セリアズを永遠の英霊として祭ったのです。

 そして作品はこう締め括られる。「はるかな古里で、弟が兄の中に蒔いた種子は、沢山の土地に植えられていったのだよ。あのジャワの捕虜収容所にもね。セリアズはそこに苗木のように植えられ、そこにいた捕虜たちの心の中に、命が芽生え、いや、日本兵の中にも、その種子は蒔かれ、ヨノイの心に蒔かれ、彼の古里の神社で、この春も華を咲かせていることだろう。あの御方が言われたように…。」

 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

 そういう物語です。


 私たちもまたそれぞれに、裏切りの物語を胸に抱いてこの夜まで生きてきたのではないでしょうか。そして何をしても空しい。どんなに夢中で仕事をしても、金を儲けても、どんなに趣味に没頭しても、珍しいことを求めて世界中を旅しても、心は晴れず、暗い。しかしその虚無の夜も、やがて終わる。何故なら、この裏切り者の魂の中に、キリストの赦しの種子は蒔かれ、死に、それが故に、やがて、花が咲き、命の実を結ぶからです。その主に感謝の祈りを捧げましょう。


 一粒の種であり、私たちの飼い主であるイエス・キリストの父なる神様、あなたの御子は、私たちのために命を捨てて下さり、私たちを罪の虚無から贖い出して下さった恵みを覚え感謝を致します。さらに、この後、主の晩餐に与ることよって、一粒の種であるあなたの命を頂き、私たちの魂の中で、その種を育て、花咲き、実らせ、私たちもまた、種蒔く者として、償いの旅に出て行くことが出来ますように。


(この後、私たちは、大島渚監督「戦場のメリークリスマス」でも用いられた、讃美歌21-120「主はわがかいぬし」を皆で歌い、感動の中で主の晩餐に与った。)




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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