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2013年3月10日 主日朝礼拝説教 「罪の正体」

2013年3月10日 主日朝礼拝説教 「罪の正体」

説教者 山本 裕司 牧師

ローマの信徒への手紙 7:11



罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。(ローマの信徒への手紙 7:11)



 使徒パウロはローマの信徒への手紙において繰り返し、律法の問題を指摘してきました。律法とは613に細分化された掟です。その中には、私たちが到底守ることが出来ない戒めもあります。例えば食物規定の中の魚類に関して言えば、うろこのあるものは食べてよいのですが、うろこのないものは汚れたものであり禁止されます(レビ11:10)。そうであれば、律法遵守の信仰者は、土用の丑の日がきても鰻を食べることは出来ません。最も「ニホンウナギ」が絶滅危惧種に指定されそうですので、日本基督教団は今夏この律法を「教憲教規」に加えて、鰻を食べた牧師を免職にしたらよいのではないでしょうか(ジョーク)。それはともかく、旧約律法には確かに今、意味をもたないと思われる掟もあります。しかしそれでパウロが律法を否定しているのではありません。主イエスも確かに空しい律法は拒否されましたが、律法の本質を御指摘なさり、その重大さを教えて下さいました。その本質とは、神への愛と、隣人愛であります。そして、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:40)と断じられた。その上でこう言われるのです。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5:17)、これに連なる思いの中で、パウロもまた言うのです。「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。」(ローマ7:7a)

 ところが一方、パウロは、律法を忌避するようなことを書き連ねます。「掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。」(7:9b~ 10)、掟とは、神様がこう生きれば私たちが幸せになれると与えて下さった「聖なるもの」(7:12)、「善いもの」(7:13)です。ところが、よりによって、この善いはずの「掟」によって、私たちの罪が「機会を得」(7:8、11)、罪はその「限りなく邪悪な」(7:13)、「正体を現わす」(7:13)と言われるのです。現日本基督教団執行部も、「教憲教規」の厳守を強調する中で、返って、人を切り捨てる罪に陥っているのではないでしょうか。


 私は先週、遠藤周作の初期作品『月光のドミナ』を紹介しましたが、同じ文庫の中にあった『パロディ』という作品も合わせて読みました。『月光のドミナ』のような刺激的な作品とは対照的に、結婚生活の日常が淡々と記される地味な作品です。それは一人の夫の独白で始まります。君は申し分ない妻である、と。家はいつも掃き清められ、洋服にもきちんとブラシがかけられ、ワイシャツが汚れていたことは一度もない。君はそのように清潔な家庭を築いていった。そしてその真ん中に君はしっかりと腰を下ろし「主婦」の座に安住している。しかし僕は、そこが自分の家庭でありながら、だんだん息苦しさを感じ始める。そんな頃こういうことがあった。僕はある日、昔友人だった坂本が妻と子を捨て、何処かの街の女と木更津で心中したという新聞記事を発見した。「あいつが…」と呟いた時、君はチラッとその記事を覗いて「馬鹿じゃない、その人。奥さんや子どもまであるのに…」そう言った。その時、僕は君を始めて憎んだのだ。けれでも反省してみれば、申し分のない良妻である君に、このような重苦しさを感じるのは身勝手に違いない。世間の常識から言っても正しいのは君であって、間違っているが僕である。しかし、良妻でしかない君の知らぬ、暗い闇の世界、苦しみと孤独の場所がある。もしそれを君が知ったとしら、もう、木更津の黒い海で、女と自殺をした坂本を、あのように撥ねつけることはないだろう。しかし君は相変わらず、道徳的な良妻賢母なままであった…。そういう物語です。


 作家が何を言いたいのかお分かりになるでしょうか。この男は、人も羨む良妻の夫でありながら、少しも幸せではない。むしろ牢獄に幽閉されている如き息苦しさに耐えている。妻は杓子定規な「掟」の中で人を評価し裁く。その中で、人の心の不思議さや矛盾、その深みに対して、何も理解しようとしない。彼女の教憲教規的「良家の掟」から逸脱した人は、「馬鹿じゃない、その人」と裁くだけです。そこには、やむにやまれず、そうせざるを得なかった、人の心への思いやりは、つまり主イエスが、これこそ律法!と言われた、隣人への愛は、何も存在しないのです。そのような律法・掟に安住する者の、計り知れない高慢と偽善を、つまりその「正体」を作家は見抜くのです。

 「命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。」(7:10b)

 これ程巧妙に私たちを支配する罪に、どう私たちは立ち向かったら良いのでしょうか。パウロは罪の虜にされている自分を指して言いました。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(7:24)、そう問うた瞬間、彼は続ける。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(7:25)と。イエス様の周りには、まさに律法学者から「馬鹿じゃない、その人」と裁かれた、徴税人、罪人が集まっていました。それは、彼らがイエスという名の広場で、初めて、規則の呪縛に窒息しそうな牢獄から解放され、息をつけたからだと思います。彼らはそこで、初めて、神の愛を感じられたのです。「馬鹿じゃない」と言われる生き方しか出来ない者を、なおも愛し、労り、あなたの苦しみを私は知っていると、言って下さるお方がここにおられる。規則でなく、掟の本質を体現しておられるお方がここにおられる、と。

 私たちは本当に、隣人の苦しみ一つ分かち合うことが出来ない愛なき者です。そのような私たちが出来ることは、悔い改め、「主イエス・キリスト」(7:25)と呼び求め、その広場に急ぐ他はない。そこに漲る律法の本質たる愛の大気、その開かれた場で、大きく深呼吸した時、私たちも、律法の「本質」を少しずつですが、守り始める者に変えられていくかもしれない。もう一度、神と隣人を愛してみようと思えるようになるかもしれない。



 祈りましょう。  主なる神様。善いものであるあなたの掟さえも、悪用する、私たちの罪の邪悪な正体に一刻も早く気付き、警戒し、悔い改める者とならせて下さい。御子の愛に倣い、時に、掟をも超えて、隣人を愛する者となれるように聖霊を注いで下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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