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2013年2月10日 主日朝礼拝説教 「春を待つ歌」

2013年2月10日 主日朝礼拝説教 「春を待つ歌」

説教者 山本 裕司 牧師

創世記2:1~4a・ローマ6:15~23



あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。(ローマ6:22)



 今朝もそうですが、凍えるような大変寒い日々が続いています。このように寒さが厳しいと、教会内外で、体調を崩される人が多く現れます。今朝も複数の兄姉から風邪などのために礼拝を欠席されるとの連絡が次々に入りました。新聞を見ても、誰々が死んだというニュースが特別に多いのは、この冬の季節のような気がします。人生の四季が語られる時、冬は必ず終わりの季節、死の時刻になぞらえるのではないでしょうか。木々が葉を落とし枯れたようになり、生き物が生気を失う色褪せた季節。この人生も、いろいろなことがあった。春の瑞々しさ、夏の溌剌さ、秋の円熟と素晴らしい季節もあったけれども、結局私たちに待っている「行き着くところは」厳冬の孤独なのでしょうか。

 そうではありません。今朝の御言葉は、私たちの最期に待っている季節とは、冷たい時ではないと断言している。いえ、罪の奴隷として生きてしまった場合は実り無き死の冬を迎える他はないかもしれません。「では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。」(ローマ6:21)、そこでは、どうしても冬は免れないけれども、キリストに捕らえられた、あなたたちは違う。「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」(6:22)、そう約束されるのです。

 先ほど、本当に久し振りに「54年讃美歌」291番を歌いました。多くの兄姉が大変楽しまれたのではないでしょうか。これは「春を待つ歌」です。試練の冬で、私たちの人生は終わるのではない。必ず春が来る。「雪はとけて花は咲かん」、だから冬の季節に耐えて欲しい。「主にまかせよ」、それがあなたにも出来る。春が来るとの確信の故に。春が来てそれから終わりが来る。それが私たちキリスト者の人生の四季です。その恵みの事実を信じることが出来るために、この厳冬の礼拝を主は私たちのために用意して下さったと言ってよい。しかし病気がなかなか治らないと、私たちはそれを疑い始めます。心が病んだ時、もう人生は終わりだと思います。そうではない。あなたにも春が来る。いつまでのこの冬は続かない。そう、主は、今朝もまた、その証拠を、この礼拝で示されようとしておられるのです。


 マタイ福音書には「小黙示録」と呼ばれる、主イエスがこの世の「行き着くところ」を黙示(預言)された御言葉があります。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」(24:32~33)、ここで主は、この世の終わりを冬に譬えられたのではありません。夏だと言われた。強い光を浴びる命ほとばしる季節。それが来なければ終わりは来ない。これを信じることが出来れば、私たちの老いの不安、死の恐れは半減するのではないでしょうか。いえ、神さまのお許しがあれば、一切の不安から解き放たれることだって、あるかもしれない。終わりは冬ではない。夏ですと、死は闇ではない、光ですと、主イエスは、どんどん老いて、これから自分はどうなってしまうのだろうと怯える私たちを励まして下さっている。

 これだけではありません。今朝は、終わりの輝きに関わるイメージで溢れている讃美と御言葉を重ねて説教に至りました。先ほどもう一箇所朗読頂いたのは以下です。「 天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」(創世記2:1~3)、神は天地を創造され、その一週間の働きを終えられた時、深い安息の中に憩われました。創造主は最初の一週間、激しい労働をなさった。大事業をなさった。その結果、その終わりに神様は深い満足の中で安息された。その創造主のお姿は「神のかたち」「神の似姿」(創世記1:26)として創造して頂いた私たちの終わり日の姿の先取り、モデルなのです。だから、私たちの「行き着くところは」、成就、完成の喜びなのです。死は滅びではなくて、成し遂げた者、走り通した者だけが知る、深い充足と安息の時です。私が神学生だった頃、難産であった論文を書き上げ提出した時、脳内麻薬ホルモンが放出されたのか、この世のものではないような安らぎを、一瞬ですが感じたことがあります。つまり、終わるということは悲惨なことでありません。神様からそれぞれに与えられた人生の課題が私たちにはあります。それは目立つことでなくても良い。それぞれが直面している試練の日々の中で、神と隣人に仕えつつ、御心に叶った仕方で生き抜くこと自体が、既に神様から与えられた人生の大きな課題なのです。それも含めて、神のために生きた人は全て、私が小さな論文によって味わうことが出来た何百、何千倍もの終わりの平安が待っています。使徒パウロがそれを約束したのです。「行き着くところは、永遠の命です」(ローマ6:22b)と。


 では「永遠の命」とは何でしょうか。100年も200年も生きることでしょうか。そうではありません。日野原重明医師はこう言われます。病人が息を引き取ろうとする時に近代医学は、蘇生術を行って生かそうとする。人工呼吸をして止まった肺をまた動かし、苦しい状態にして延命を試みる。先生は現代の医師のしていることは延ばし役だ。私にはそれがチューインガムをただ延ばしているように見える、問題は命の長さではない質なのだ、と言われます。これは単に病院にだけ言われていることでないと思いました。私自身がそれなら、これまでの人生において、自分の「命の質」についてどれだけ心を砕いてきただろうかと思いました。どれだけ本当に生きるということを、この人生で重んじてきたのか。結局、パウロが6章で言う、罪の僕、虚無の奴隷としてこの人生を浪費してきたのではないかと悔い改めざるを得ません。「罪が支払う報酬は死です。」(6:23a)、そうはなりたくない。そうならないで済むためには、罪のではなく、神の奴隷として生きるのだと既に書いてありました。「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」(6:16b)

 そうであれば、具体的には、神の僕として生き、義に至り、永遠の命を頂戴出来るのは、どんな仕事を成し遂げた時なのでしょうか。それは修道院に入ることでしょうか。神学の大論文を書くことでしょうか。そうではいと先にも申しました。律法遵守や良き行いによって、つまり自力で、私たちは救いに至るのではないと、パウロは主張し続けて来ました。罪の生活は確かに「報酬は死」(6:23a)と書いてあります。やっただけの給料が支払われる。しかし、これまで、対照的構造で文章を組み立て来たパウロですが、この「永遠の命」に関しては、あえて「報酬」とは書きません。永遠の命は「神の賜物」(6:23b)と区別して書きます。ここが大切です。私たちはどんなに一生、努力しても、神様が天地を創造し終えられ時のような「完成」を得ることはありません。主イエスが十字架の上で言われた「為し遂げられた」(ヨハネ福音書19:30)という、成就の宣言、その完全無欠な仕事も、私たち人間のものではありません。私たちが神の僕としてなす仕事の全ては、中途半端であり、汚れがへばりつき、それは最良のものでさえ、「良き業」の欠片のようなものでしかないと思います。仕事を完全にやり終えた、真の安息の時とは、本来創造主だけのものです。だから、私たちは、こういう神の安息、主イエスの充足を、私たちの努力によって、報酬として受け取ることはできません。しかし、それでもなお、信仰をもって生きた最期に、天地創造を終えられた神のように「極めて良かった」(創世記1:31)と歓喜して、実りの季節に入ることが出来るとしたら、それはどうして可能なのでしょうか。


 日野原医師はこうも言われます。カール・ヒルティーの『幸福論』の中に「人間の幸福は働くこと、労働である」と書いてある。有益な仕事は、例外なく全ての人々の心身の健康のために、必要欠くべからずのものと思う、と言います。しかし、老人は給料をもらう仕事はだんだん出来なくなる。しかし、老人は何歳になっても仕事を続けることが幸福なのだ、そう思って、ある所で先生は、老人でも働ける。老人ホームでもボランティアとして働ける。そう老人を励まそうと思って言いました。そうしたら、それを聞いたある老人が手紙をくれた。「自分は身体も弱く、知的な能力もなく、老人ホームにただ寂しく暮らしている。同居の人から意地悪されて、大きな声をあげて泣きたいこともある。老人ホームで仕事するなど、才能ある人への励ましでしかありません。」それに対して先生はこう答えます。「自分に出来ることは何もないと自己を放棄されないように。黙っていても小さな人間社会で出来ることがある。例えば、よい集会を老人ホームの中で育てること。そのためには、語らなくても、黙って、定刻の時間より早く行って座って待つこと。時と場のスペースを占めることも大切な業。小さなことの中にも自分を生かす努力を重ねたいものです。」私はここで日野原先生は、明らかに教会のこと、礼拝のことを思い浮かべながら書いておられると直感しました。礼拝や集会を育てる。語らなくてもいい。黙ってただ早く行って座って待っている、そういう仕事が残されている。そういう礼拝のお年寄りの不動の姿が、どんなに説教者を励ますことでしょうか。その謙虚な姿が、若者たちに信仰者のありようを、無言の内に教育します。良い集会に遅れないで出席する。それは既に、神の僕としての大切な仕事をしている。神様はその僕としての私たちの生き方を見て、終わりの日に、永遠の命を与えて下さいます。報酬ではありません。恵みとして与えて下さる。世界を又にかけた伝道者パウロの働きも、実は、創造主と御子イエスのなさった大事業から見れば、それは、欠け多き、小さな業でしかない。神の眼差しの中では、どんな奉仕もまた小さく、どんな奉仕もまた大きい。私たちは、ただ神の憐れみの故に、賜物として永久の命を頂くだけなのです。大事なのは、私たちを救う主に私たちの命を「任せること」です。信仰を守り通すことです。その「行き着くところは」、「54年讃美歌」291番で言えば、春です。マタイ福音書で言えば、夏です。だから望みを捨ててはならない。だから、今の冬の忍耐の日々に耐えて欲しい。空しくは終わらないから。それを、信じ、心に刻んで、元気良く、ここを立ち去りたい。



 祈りましょう。  主なる神様。厳しい寒さに耐える日々のただ中に、あなたの温もりに包まれる経験をする、主日を与えられましたことを感謝します。この礼拝の日々を重ねて、私たちもいつか終わりを迎えます。しかしそれは終わりではなくて、復活の命が与えられる、春だということを覚え、希望をもって主の僕の道を、皆で支え合いつつ歩む、西片町教会とならせて下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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