2013年12月29日 主日朝礼拝説教 「復讐はクリスマスの主が」

説教者 山本 裕司 牧師

ローマの信徒への手紙 12:14~21
(2014年2月号 月報掲載)


 2013年最後の主日を迎えて、私たちがこの一年を振り返って見る景色は、決して明るいものではありません。特に年末12月6日、性急に可決された「特定秘密保護法」から始まり、12月26日に決行された首相の靖国参拝、そして12月27日、沖縄県知事による辺野古埋め立て申請承認など、「平和を実現する人々」(マタイ5:9)の胸を抉るような決定が次々に強行された一年でした。また12月12日、アムネスティ・インターナショナルが抗議しましたが、安倍政権は発足2カ月後の2013年2月に3人の死刑執行を行いました。その後も4月に2人、9月に1人、そして、12月12日に2人と、2013年に計4回執行し、8人を殺しました。安倍政権下で行われるハイペースの執行は、死刑廃止を求める国際社会の要請と真っ向から対立するとアムネスティを嘆かせています。確かに死刑制度は、被害者の復讐心満足のために必要、との意見もあります。愛する者を殺された被害者の苦痛は想像を絶します。しかし、殺人者が「同害応報」的に殺されれば、被害者の溜飲が下がり、傷が癒されるのでしょうか。そうでないから、使徒パウロは、この歳末の主日に巡ってきた御言葉・ローマ12:19でこう勧めたのではないでしょうか。「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」


 私は、先週、「赦し、その遙かなる道」という韓国SBSがクリスマス特番として放映したドキュメンタリーを観ました。10年前、韓国を震撼させた連続殺人事件の犯人ユ・ヨンチョル(柳永哲)が逮捕された。彼は約10ヶ月の間に、17回、計21人を殺害しました。その遺族の一人、コ・ジョンウォン(高貞元)さんは、ユ・ヨンチョルによって母と妻、そして息子を殺害されました。彼は、爾来、夜も殆ど眠れない。その絶望と深い喪失感の中でカトリックの信仰に導かれます。そしてこのままでは自分が破滅してしまうと思い、殺人者を赦そうと心に定めました。そう決心をした晩、彼は事件後始めて、驚くほど深く長く眠りました。しかしそれで問題が解決するわけではありません。憎悪が心から溢れてくる。2人の娘たちは「赦す」と公言した父を理解出来ず、関係は疎遠になりました。その孤独も彼を押し潰すのです。また同じくユ・ヨンチョルに兄を殺され、そのために他の2人の兄さえも鬱病によって自殺してしまった、一人の弟が登場しすます。彼も殺人者を赦そうとするコ・ジョンウォンさんを罵倒します。国が処罰しなければ自分が復讐してやる、と。

 また別の事件ですが、最愛の娘を別れた夫に殺害された父は、最初「彼も決して悪人ではない」と言い、半分赦しているように見えました。しかし酒を飲むと、まるで人が変わったようになる。ああ、何故、自分は娘を守れなかったのかと泣き、絶対に赦せない、あいつの親たちはろくに謝罪もしないと、腕を振り回して怒ります。妻が、あの家族も苦しんでいるのよ、とたしなめても止まらない。一体、父親にとって、どちらが本心なのでしょうか。

 一方、殺人者・ユ・ヨンチョルはどのように育ったのでしょうか。彼は、ソウルの貧しい家に生まれ、父親からひどい虐待を受けて育つ。幼児期、母を求めて家出を何度もしました。彼は家族から愛された経験がないまま育ち、やがて非行少年となります。18歳から33歳まで、刑務所の入退所を繰り返す。1991年に結婚しますが離縁され、彼が凶悪犯になるのは、この離婚が引き金とも言われます。このように辿ると、彼もまた復讐に生きたのではないかと思いました。虐待した父、貧困を作り出す社会、自分を受け入れない世間、自分を見捨てた妻への「復讐」こそ、殺人だったのではないでしょうか。従って彼のターゲットは主に富裕層や女性でした。幸せそうな人々を彼は、激しく妬み、赦すことが出来なかったのです。


 パウロは言います。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」(ローマ12:14)、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」(12:17)、さらに「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。」(12:19)と続けます。これは福音を受け入れたキリスト者に対する戒めですから、これは大変なことになったとこの年末、私たちは思うのではないでしょうか。この2013年の一年間、どうしても隣人と平和に暮らすことが出来ず、人を赦せず、憎しみに生きた自分を思い、首うな垂れるか、開き直るしかないという気持ちになるかもしれません。私たちは確かに殺人の被害者ではありません。またユ・ヨンチョルのように、家族や世間から徹底的にのけ者にされたわけでもありません。しかし、そのドキュメンタリーで、被害者たちが、赦したい、でもどうしても赦せない、あるいは、ユ・ヨンチョルが、世間に復讐しながら、なお幼い息子の愛を求めている姿が描かれる。それを観た時私たちは、これは決して自分と無関係な話ではないと思うのではないでしょうか。実際、自分の家族や同僚の間でさえ、小さなことでも赦すことが出来ない。憎しみや妬みを抱えて、時に自分でも思いがけない小さな復讐をいつの間にかしている、逆に小さな復讐をされ続けている、それに苦しみ、いつもそのことが心から離れない、どんなに楽しいことがあっても本当の意味で心晴れる時なき2013年を過ごした、そのような私たちの物語と重なって見えてくる。人間は本当に他者を赦すことが可能なのか、そう問わずにおれません。

 そして、その迷いは、使徒パウロにもあるような気がするのです。いつも毅然としたパウロには珍しいかもしれませんが、「できれば、せめて」(12:18)との挿入があります。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」パウロが時に用いるように、「断じて!」と言ったのではありません。この一連の「キリスト教生活の規範」を語る中で、パウロの心もいろいろな動きをしたことでしょう。自分がどう隣人や敵対者を思っているか、これを書く時、どうしても思い出さざるを得なかったと思う。あるいは兄弟姉妹の中で、本当に、コ・ジョンウォン(高貞元)さんのような経験をした人がいたかもしれません。その余りにも激しい赦すための戦いを目の当たりにしていて、パウロは、復讐をしてはいないと、迫害者を祝福しなさい、そう牧会者として勧める。それでもなお、その赦しの戦いのためにのたうち回るその兄弟の手を握って、できれば、復讐しないでおくれ、せめて、平和に暮らしなさい、そう懇願し一緒に泣いた夜を思い出しながら、ここを書いたのかもしれない。

 パウロは「 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(12:15)と求めました。「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」(12:16)とも勧めました。あたかも自分は聖人でもあるかのように、高い所から、キリスト者ならこうせねばならない、と断じ、出来ない者を裁いているのではありません。一緒にやろう、堪えよう、共に和解への道を歩いていこうと、一所懸命になって、励まそうとしているのではないでしょうか。


 やがて、コ・ジョンウォン(高貞元)さんは、アメリカで行われる「希望の旅」に参加しました。これは死刑囚の家族と殺人被害者の遺族が同伴する2週間の旅です。その中で彼は傷が少しずつ癒される経験をする。司祭との対話でも癒されることはなかった傷がです。コ・ジョンウォンさんは、自分の娘が殺され、また別の事件で息子が殺人者となった母親と出会いました。つまり殺人の被害者遺族であり、同時に加害者家族であるという究極の重荷を負っている母です。彼女は、息子が死刑になる時、刑場に行きました。母として息子の処刑は見るに堪えなかった。「でも死に赴く時、周りに知らない人ばかりだったら、息子は可愛そうだと思って私は行ったのです。あなたのことを愛している者が未だいることを分って欲しかった。」そう母は言いました。コ・ジョンウォンさんはそれを聞いて、自分よりも苦しんでいる人を始めて発見した。そして、「ああ、あなたは私よりも苦しんでいる!」、そう言って二人は抱き合って泣きました。彼は共に泣いてくれる人(12:15)、思いを一つにしてくれる人(12:16)と、その旅で始めて知り合いました。その慰めの先に、クリスマスのインマヌエルの主がいて下さるのではないでしょうか。それから何かが少し変わり始めた。

 コ・ジョンウォンさんは、死刑囚・ユ・ヨンチョルに手紙を書いて、面会を申し込みました。赦しを告げるために。それが事件後3年目の出来事でした。しかし「希望の旅」主催者(彼自身も被害者遺族)は、未だ3年では短すぎる。赦しは、コさんにとっても遙かに遠い先にあるだろう。しかしその道を歩いて行くしかない。それ以外に、私たちが癒され救われる道はないからだ、そう言うのです。だから、この映画の題名は、「赦し、その遙かなる道」なのです。

 やがて、ユ・ヨンチョルより返事が来ました。面会の断りと共に「私はあなたから赦される資格はありません」と書かれてありました。しかしその文面からは、以前の彼とは様子が違うように感じられます。彼は、世間に復讐することだけが生き甲斐でした。だから何人殺しても、そこに罪意識は生まれなかったのです。だからそこに苦しみはありませんでした。しかし、彼もまた、遺族からの意外な手紙を受け取り、その優しい言葉に接することによって、変わり始めているのではないでしょうか。自らの罪を告白し、真に悔い改める、その道は、これもまた、遙かに遠い道かもしれません。罪責の告白は余りも苦しいからです。しかし彼もまたその苦難の一歩を、歩き始めたのではないでしょうか。それ以外に、彼の魂の癒しも救いもないからです。

 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」(12:20)、そうであれば、コ・ジョンウォンさんは思いがけず、加害者の頭に「燃える炭火」を積んだのです。そしてそれこそが、クリスマスの主の復讐なのではないでしょうか。死刑は、この神の愛の復讐を妨害する愚かな制度です。韓国は現在「事実上の死刑廃止国」です。日本もこれに学ばねばなりません。


 聖書は私たちも殺人者だと言います。主イエスは山上の説教(マタイ5:22)で、兄弟に腹を立てる者、「ばか」と言う者は人殺しと同じである、と教えて下さいました。また、禁断の木の実を食べた人間は、生みの親である父なる神を、いないこととする「無神論」に生きました。それは神殺しです。何よりも主イエスを十字架につけたのは私たちであると福音書は教えます。しかし私たちは、ユ・ヨンチョル同様に「それがどうした」と、「自分は、神にも、あの人にも、復讐する権利があるのだ」と、そう口には出しません、しかしどこかで思って生きてきたのではないでしょうか。妬みと怒りの中で、神を棄て、兄弟をばか呼ばわりし、晴れ晴れするようなところが私たちにはある。それでいて、ユ・ヨンチョルのように、何の罪意識も感じない、そんなことは誰でもやっている、当たり前だと思っている。まさに神から見たら赦されざる存在である私たちの罪を、御子イエスはご自身で担って下さった。その罪を赦すために、私たちの殺意を受け止めて下さり、十字架について下さった。そのような悪をたくらんだ私たちに、あの創世記(50:20)のヨセフに似て、主の食卓に招き、魂の飢餓を満たして下さる。コ・ジョンウォンさんのように、あなたを赦す、と言って下さる。その時、私たちは、自らの罪に気付き始める。自分が恐ろしい人生を生きてきたことを知り始める。そうやって、以前は皆がしているのだ、と、何でもないことだと思っていたことが、大きな罪だと知った時、私たちは本当に苦しみ始めます。繰り返し申します。それが、神の復讐だったのです。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」(12:20)、しかしその「燃える炭火」とは、私たちの魂を浄化する愛の炎です。私たちはこのように、神に赦された喜びと共に、新しい年、2014年、真の悔い改めに至るための遙かなる道を、さらに歩いて行きたい、それは厳しい巡礼です、しかしこの信仰の道を進む以外に、私たちの傷付いた心の癒しも救いもありません。



 祈りましょう。  主なる神様、自らの罪を直視出来ない私たちに、どうか聖霊を注いで下さり、主の御赦しの中で、それを可能として下さい。2014年、その赦された喜びをもって、隣人に対する復讐を、せめて、捨て、敵を、できれば、赦し、それが故に自分自身が慰められる癒しの道を歩む一年とならせて下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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