2012年8月5日 平和聖日・主日朝礼拝説教 「ところが、今や!」
説教者 山本裕司 牧師
創世記 28:10~16・ローマの信徒への手紙 3:21~26
見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。(創世記 28:15~13)
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。(ローマ信徒への手紙 3:21)
ある牧師の書いたローマ書講解説教集を読んでいましたら「未完成」という言葉から説き明かされているのが印象に残りました。牧師は、そこで、バルセロナにあるサグラダ・ファミリアという未完の大聖堂を指摘しています。あるいはシューベルトには交響曲「未完成」がある、そのように人間が始めたことで、未完成に終わるものは多いと言うのです。その説教が語られた時代、ソ連が崩壊したこともあって、牧師は社会主義という壮大なる政治経済的実験もまた未完に終わったのではないか、と言います。そしてさらに、旧約聖書もまた巨大なる未完成であると言うのです。その根拠は、ローマ3:20aの言葉にあります。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。」新約聖書が、ここで「義」と呼ぶ、その意味は、神と私たちの交わりの回復・完成です。パウロは、この救いを目的とする書であるなら、旧約律法では、それは未完に終わる他はないと断言する。「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(3:20b)、旧約律法によって人間にもたらせられたのは、むしろ、神と人間との埋めようも無き、分断、分離、という原罪の確認だけだったというのです。
今年もまた暑い8月となり思い出すのは、宗左近(そうさこん)というフランス文学者の作品「炎える母」です。1945(S20)年5月、東京は大空襲を受け火の海となりました。大学生であった彼は母親と手をつないで、その炎の海を必死に逃げ回った。いつしか青年とその母だけが、無数の火の柱の中に包まれていた。母親の背の荷が燃え始めました。繋いだ手がスルリと抜ける。振り向くと、倒れた母が、あっち行け、あっち行けと、手で合図している。ぱっと母の身体に火がついて、夏みかんの皮のように、はじけける母の顔を忘れることは出来ない。戦争は終わった。しかし、と彼は独白する。私には勝ったも負けたもなかった。ただ心に暗闇が広がるばかりだ。「ワタシハ ハハヲオキザリニシタ ワタシハ ハハヲミゴロシニシタ」、そう繰り返すのです。
極限状況では仕方がなかったのだと人は慰めるかもしれない。しかし彼にとっては、それは言い訳に過ぎない。その極限状況で、ついに自分の「正体」が明らかになっただけです。それは母を愛さねばならないという子の掟、その律法を、エゴのために捨てる獣のような己の姿であった。この上なく愛してくれた母、自分はその受けた恩に相応しく母を重んじ、その愛に報いたのか。母が命を捨てて私を愛したように、私は母を思ったのか。敗戦後、その問いが、彼を終わることなく責め、心は闇で閉ざされ続けるのです。
ローマ1:18以下から、特にこの人間の正体・原罪のもとにある人間を論じる言葉が始まりました。神学者バルトがその注解で、この題に「夜」と名付けたのは有名です。ローマ3:10以下は、まさにその人の罪の闇が極まったと言ってよい箇所です。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(3:10~12)、しかしその深まる夜のただ中で、今朝の御言葉が突然閃光のように出現する。「ところが今や」(3:21)と。26節でも繰り返されます。「今この時に」と。ここで一気に朝が明けたと言って良い。どうしてそんなことが出来たのか。母を殺したという、彼だけではない。私たち日本人全員が、罪人としての正体が露わになった67年前の戦争の暗黒の経験、その私たちが、どうして再び朝の光を浴びることが出来るのでしょうか。日本人だけでもない。聖書が問題にしているのは、古代ユダヤ人を始めとする人類そのものです。人間はその正体において、神を愛し、隣人を愛するという律法に生きることはない。その人間の闇の根性のために、旧約聖書の記す救済もまた未完に終わる他はなかったのです。
そう望み絶たれるように思った瞬間、使徒パウロは「ところが今や」と、語り始めたのです。聖書を完成させる「続編」が今やこの地に出現しようとしている、と。今この時に、新約聖書が生まれようとしている、と。そのために、永遠の未完と思われた聖書が、今や完成されようとしている、と。神と人間が今度こそ和解し、その交わりが甦る、つまり、義が完成されようとしている。そのあり得ないことが起こった。今、この時に。どんな時だ、と問われた時に、パウロは喜びの声を張り上げたと思う。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(3:23~24)、この贖いの時に!と。
宗左近さんは、罪の意識に駆られつつ、それでも戦後を生き抜くために、自身を叱咤激励して叫んだそうです。「そうさ、こんちくしょう!」この言葉が宗左近というペンネームの由来となりました。しかし、自分を鞭打つような努力精進の末、学者として成功を遂げてなお彼の「夜」は、何も変わらなかった。それに似て、日本人の戦後復興、経済成長もまた、「そうさ、こんちくちょう!」と気合いを入れ、コンクリート建造物を建て続けた発憤努力、それもまた、3・11の原発事故によって、結局未完に終わろうとしているのではないでしょうか。
創世記に登場するヤコブは次男でした。父の後継ぎは長男と決められていた。それは次男にとって納得出来ないことではあっても、皆それを運命として受け入れてきました。ところが、このヤコブは「そうさ、こんちくしょう!」と言ったのかもしれない、弟の夜を、払拭しようとする。何とかして財産相続の権利を獲得しようと策略を弄し、2度に渡って兄と父を偽り、祝福を奪い取りました。兄エサウは激怒してヤコブを殺すと誓う。ヤコブは、全てを捨てて、砂漠へ逃げ去る他はありませんでした。そして日が暮れる。彼は自分の人生を明るく照らす光を求めて、ついに長男の特権を奪取したのです。しかしその結果は、もっと深い夜でしかなかった。その夜、ヤコブは夢を見る。「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」(創世記28:12)、当時の高層建築は、外側に螺旋状の階段が設けられ、そこを登ることによって人は神の聖域に至るという信仰がありました。しかしヤコブの経験は、彼が階段を昇ったという話しではありません。逆です。この階段は上を向いているのではない。新共同訳の翻訳では「地に向かって伸び」(28:12)るのです。このヤコブの梯子を、下から上へ伸びるとイメージされる翻訳も複数存在します。そのため、時に、梯子を、律法、道徳と理解し、善行を積み重ねて天に至ることが、ヤコブの梯子を昇ることだという誤解を生みました。美術作品でも、その梯子が描かれたり造形されたりする時、その梯子は必ず横木が15本だったそうです。これは15の徳目を意味し、私たちが、第1の徳、第2の徳と、それを一段、一段昇って、だんだん神に近づいて行くことが表現されています。それこそ、「そうさ、こんちくしょう!」の世界です。そのような上昇志向こそ、ヤコブの出世欲であり、律法であり、日本の戦後復興だったのではないでしょうか。パウロは、それは光ではないと言ったのです。真の光とは「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で」(3:24)与えられる義のことだ、と。だからヤコブは梯子を一段も昇っていません。むしろ、梯子を降ってこられたに違いない、主が、どん底に臥すヤコブの傍らに立って言われる。「見よ、わたしはあなたと共にいる」(28:15)と。その瞬間、朝が来るのです。
パウロは「贖いの業」(ローマ3:24)と言いましたが、ある牧師は、ヤコブの梯子は十字架を意味すると書いています。何故かというと十字架の上で死なれたイエス様のご遺体を人々は梯子をかけて降ろしました。「十字架からの降下」と題される有名な絵が沢山あります。そこにも描かれる梯子を用いて降ろされたイエス様を、ヤコブの梯子を地に向かって降られる主なる神と重ね合わせるのです。かくして、主は墓へと葬られる。さらに陰府に降られる。つまり、私たちの原罪と死の暗黒の底に、主は梯子をつたわってどこまでも降りて下さると言うのです。どうして主イエスはそんなことをして下さったのか。私たちには、天に昇る力がないからです。バベルの塔も、天上の音楽も完成させることは出来ないからです。平等公平な社会主義を完成することも出来ないからです。戦後70年かけて、日本を真の意味で敗戦から復興させることも出来なかったのです。私たちのエゴ・原罪のためです。主は、そのような私たちを憐れみ、私たちの臥す、どん底に、十字架の梯子をつたわり降りて来られる。「わたしはあなたと共にいる。」(創世記28・15)、あなたがどこへ行っても、決して見捨てない、と。ここでだけ、私たちは、神との交わりを回復することが出来る。その義を恵みとして得ることが出来る。律法を守ることによってではなく、ただ信仰のみによって。「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」(3:24)
私は先週、今回芥川賞を受賞した、鹿島田真希さんの書いた『冥土めぐり』を読みました。「冥土」というのは、心が死んだ状態を表現しているそうですが、主人公の奈津子は、まさに「冥土めぐり」を強いられて育った女性でした。その家は元々、先代の成功によって大変豊かでした。しかしバブルの崩壊と共に破産したのですが、なお過去の栄光にしがみつく浪費癖をもった元スチュワーデスの母親と、傲慢の限りを尽すアルコール依存症の弟に、彼女は精神的虐待を受けて育つのです。さらに奈津子の得た僅かな金すら2人に搾取されるという日々でした。彼女はそこから何とか逃れようともがき、母が最も嫌う地味な公務員の男と結婚する。ところが、やはり、夫・太一からも、2人が金を収奪しようとした時、太一は、誰も思いつかない仕方で、それを回避する。それは彼が脳性の発作を起こし、脳に電極を埋め込まれ、足が不自由となり、奈津子の世話なしに、何も出来ない状態となるということです。ハンサムでもなく、男としての魅力もない夫です。さらに、障碍をもって、滑稽な生活しか出来ないような太一、しかし幼子のような無垢な彼との生活の中で、家族の呪縛という「冥土めぐり」から思いがけず奈津子は救われるという物語です。途中、かつて家族の黄金時代、飽食と浪費のただ中にあった時、好んで泊まった高級ホテルが出てきます。今や、すっかり落ちぶれて、区民割引で、一泊5000円で泊まれる安宿になっている。零落の中で、なお資本主義の価値観にどっぷり浸かっている母と弟を含めて、このホテルを、ある人は「今日の日本経済の暗喩」と解釈しました。そこに全く異なる価値観の世界を生きる、何の欲も虚勢も持たない、あるがまま、自然のままの夫・太一によって、奈津子の心は初めて浄化されていくのです。
この作者・鹿島田真希さんは、高校生の時、ドストエフスキーの作品に魅了されて通い出した東方正教会で洗礼を受けたキリスト者です。その正教会の聖人の一つに「聖なる愚か者」というスタイルがあるそうです。その聖人は、乞食のような姿をしたり、突飛な言動をとって、人々から軽蔑されたりする、特別の修行を積んだ人のことです。ドストエフスキーの小説には、世俗の欲望に苦しんでいる人が、そのような「聖なる愚か者」と出会い、癒され救われる物語が幾つかあります。そのことを、鹿島田さんも描こうとしたそうです。
まさにヤコブも、そして旧約律法も、そして戦後日本資本主義も、「そうさ、こんちくしょう!」と梯子をどこまでも昇ろうとして、逆に、地に叩き落とされたのではないでしょうか。私たちの資本主義も今や未完に終わろうとしているのです。その絶望の底に臥す時、そこに、私たちの上昇志向と全く逆に、降りて来るお方がいる。そのお方は、まさに聖なる愚か者として、地を行き巡り、十字架という梯子をつたわり、冥土(陰府)にまで降る。そして経済破綻に瀕している資本主義世界に向かって「わたしはあなたがどこに行っても共にいる」と、なお約束して下さる。その無限の愛の中で、私たちは、今こそ、3・11以前の上昇志向を悔い改め、「そうさ、こんちくちょう!」との浪費と飽食と傲慢の呪縛から解放される歩みを始めることが出来るのではないか。それが、パウロの言う2012年8月5日(平和聖日)の今、「ところが今や」「今この時」なのだと思う。
祈りましょう。 主なる神様。夜を朝に、闇を光に、罪を義に変えて下さる、あなたの恵みに感謝致します。戦後67年を迎えるこの夏、どうか、なお梯子を昇るところに幸いを見出すのではなく、地の底にまで降られる十字架の主と共にあることをひたすら求める私たちでありますように。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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