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2012年7月29日 主日朝礼拝説教 「巨大なるマイナス符号」

2012年7月29日 主日朝礼拝説教 「巨大なるマイナス符号」

  説教者 山本裕司 牧師
  ローマの信徒への手紙 3:9~24


 人はいつの時代でも差別に苦しんできました。かつて四国教区差別問題委員に選ばれたことがあります。委員になった当初恥ずかしい話ですが部落差別に全く無知でした。そこで図書館に行ってにわか勉強を始めたのです。最初に学んだのは、部落差別とは作られたものだったということです。徳川幕藩体制が成立した時同時に士農工商という身分も確立される。それは権力を得た支配者が下克上を防ぐためであった。身分を徹底させ下級の者が立身出世が出来ないような格差社会を作る。しかしそうなると下の身分の者はつまらないのです。そこでその者たちの心を慰める方法を生み出した。それはさらに最下層の身分を人為的に作った。そうすると、いつもは士族から軽んじられている自分が、人を見下す快感を得ることが出来る。そのことによって、自分の心の安定を保つことが出来る。「生まれてきてよかった」などと思えるようになる。これは悪魔的な知恵であります。いささか図式的かもしれませんが、私はこういう差別の成り立ちを学んで、これは人の心の弱さを実に巧みについているシステムだと思いました。そして、こういうことであれば、差別は決してなくならないと思いました。部落差別を克服することが出来た時も、また別の差別が生まれるのではないか。何故なら、人は差別なしに生きられないからだと、その書は暗示しているように思いました。

 私たちは幼い時から自分と他人を比較して、見比べて育つようなところがあります。そして優越感と劣等感の狭間で揺れ動く。あの人のように美しくもない。あの人のように頭もよくなければスポーツも駄目だ。そう思うと何か生きる力が萎えてくる。しかし、いや、自分よりもっとひどい人がいる。自分はあいつよりましだ、そう思うと、何かほっとして、元気づけられる。ローマの信徒への手紙3:13~14節に詩編から引用された唇の罪が列挙されるように、私たちはよく悪口を言います。「困ったものだ」と舌打ちし不愉快そうな顔をしてながら。ところがその話題を止めることはない。どうしてか。楽しいからだと誰かが言いました。人の愚かさを語るのは愉快なのです。その悪口の背後にあるのは、自分の優れた点を誇る思いです。あんな破廉恥ではない、あなな馬鹿ではない。そう言っていると何故かリフレッシュされる。生きる力を得る。これは悪魔が私たちに与えた生命力です。そうであれば、元気であれば良いということでもない。この話からは、この世で生きる力を失い鬱的になる人の中に、むしろ人間のぎりぎりの誠実や良心を見ることにもなるのではないでしょうか。

 使徒パウロはその傲慢を指摘するのです。「私たちには優れた点があるのでしょうか」(3:9)と問い直ぐ自分で答えました。「全くありません」と。これは当時最も宗教的な誇りに生きた古代ユダヤ人に向けられたものです。彼らは人が皆平等などと考えたことはありません。自分たちを選民(選ばれた民)と自称し、特別に神の寵愛の下にあると自負した。パウロはそういうユダヤ人を前にして、人は皆平等なのだと訴えているのです。しかしここでパウロの言う平等とは、皆同じ暮らしが出来るというような意味の平等ではありません。人は皆「罪人」であるというところから、パウロは平等を語り始めるのです。人が平等であるということは自明のことではありません。人は元々、差別されて生まれ落ちると言っても良い程、厳然として違いがあります。その中で優劣貧富がどうしても生じる。パウロはそこで、普通の平等論の意表を突くように、罪のことを考えてみると、人が全く平等であることが分かると言うのです。「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」(3:9)と。

 この言葉を読んでいて私は簡単な計算式を思い出しました。例えば3×2+4という数式があります。答は10です。もっと正確に言えば+10です。しかしこの式を括弧で括って、その前にマイナス符号を付けたら、答えは-10です。その括弧の中の数字をどんなに大きなものにしても、括弧に括られ前にマイナス符号が付いたら、その答えは必ずマイナスになります。パウロはいわばここで、人間を括弧で括っている。その括弧の中は確かに色々違うかもしれない。「ユダヤ人もギリシャ人も」(3:9)とあります。人には違いがある。そこでは不平等です。しかし人は皆、実は括弧で括られている存在であると彼は言う。しかもそれは罪というマイナス符号が付いている括弧です。そうであれ、最後の答えはいつもマイナスである。つまりそこで本当にパウロが言いたいことは、ユダヤ人だとかギリシャ人だとか、強いとか弱いとか、健康とか不健康とか、それが決定的なものと思って、安心したり落胆したり、差別したりされたり、している。しかし、実はそれは括弧の中の閉ざされた場でだけ通用する相対的な計算式なのだ。実は人生の真の決め手とは、括弧の前に付くマイナス符号なのだ。そこで人は平等となると断じられたのです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ3:10~12)

 この時代、自分をプラスの存在だと確信したのは、律法学者、ファリサイ派の古代ユダヤ人でした。パウロも復活の主とお会いするまでファリサイ派だったのです。その時の彼の自慢の言葉が残されています。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、…律法の義については非のうちどころのない者でした。」(フィリピ3:5~6)しかしそういうプラスにプラスの掛算をしたような人生を作った人が、最後に計算し終わると、その答えは大きなマイナスとなっている。そしてこの計算は興味深いことに、括弧内が大きいプラスの数字になればなるほど、最後に巨大なるマイナスとなるという逆説を伴うことです。パウロはこう言う他ありませんでした。「…しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。…それらを塵あくたと見なしています。」(フィリピ3:7~8)

 ローマの信徒への手紙に戻ると、先ほども指摘したように、3:13~14節で、先ず口の災いについて語られるのは、人間の罪がこの口において極まるからではないでしょうか。竹森満佐一牧師はこの箇所の説教の中で「世界平和を語る口、その同じ口で、同僚の悪口を言い、他の人を中傷することは何とも思っていないではないか」と、怒ったように突然書いています。そういう牧師たちを、教団の会議か何かで見てこられたのではないでしょうか。そして直ぐヤコブの手紙を引用される。「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。」(3:8~10)、「泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出る」(3:11)わけがない。しかし私たち人間の唇はそれをやってのけると言うのです。やはりマイナス符号であります。美しい言葉を語り、主を賛美し、甘い水を湧き上がらせる同じ口の前に、呪いと苦味のマイナス符号が付いた時の躓きは大きいと言わねばならない。最初から「世界平和」などと口にしないで欲しいと思うのではないでしょうか。我々の喉は「開いた墓」(ローマ3:13)だ、舌で人を欺き唇には蝮の毒がある。どうしてか、自分が上だと思っているからです。自分は「プラス」と自負する者の口は本当に苦くなるのです。

 以前アメリカ映画を観ていたらこんなシーンがありました。美しい田舎の風景を撮影するために、一人の中年のカメラマンがふらりと訪れ、偶然道を尋ねた人妻に恋をする。彼女もまた彼を激しく求めるようになり、2人は駆け落ちをしようかという所まで盛り上がってしまう。しかし保守的な農村です。カメラマンがある時、その村の食堂で別の女性がひどい差別を受けているのを目撃する。その女性も夫を棄て別に男を作った経験をもっていました。その女が食堂で注文しても無視され罵られる。そして女は泣きながら外に逃げ出すのです。ピューリタンの伝統が残る古きアメリカ社会では、特に女性の不倫に対して激しい制裁が加えられてきました。カメラマンは去り、すんでのところで駆け落ちの誘惑を退けた女性は、暫くして、誰も相手にしない先ほどの女性を自分の方から訪ねます。やがて2人は無二の親友となったという物語です。これは美しい物語です。彼女たちはその人生の汚点(マイナス)において、自分たちは同じだと知ったのです。その時、受け入れ合う和らいだ言葉を互いに交わす唇を得ることが出来たのです。

 「…それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。」(3:19)悪臭を放つ口を一度つぐむとことが求められる。ところが主イエスの時代も人々は黙りませんでした。雄弁にあれもこれも律法違反だと裁いた。その優越感の中で、ついに御子イエスを裁き涜神者と糾弾し殺したのです。それは古代ユダヤ人だけではない。私たちも同じです。悪魔の作った元気と慰めを求める時、私たちもまた、私たちのマイナスを見抜く神の眼差しを畏れなくなる(3:18)。その高慢が御子を十字架につけるのです。そうやって、結局巨大なマイナスを作り上げて、生涯の計算をつけてしまう私たちなのではないか。しかし使徒パウロはそこで終わったとも言いません。その主の十字架の故にもう一度、新たなることが起こる。「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(3:22~24)ここでも彼は、人は皆平等だと言うのです。しかしそれは、もはや罪における平等ではありません。救いの平等です。全ての者が、このイエス・キリストの贖いの業を信じる時に、差別なく、御前に無償で義とされるのです。

 それは再び、数式の例えで言えば、その括弧で括られたマイナスの数式、その式全体を括るもう一つの大括弧が突然天より出現し、その大括弧の前にもう一つの巨大なるマイナス符号が付けられたようなものです。すると最後の答えはプラスです。罪というマイナスは、十字架という全人類の罪を集めた、さらなる巨大なるマイナス符号によって打ち消されプラスに反転する。私たちの人生が神に全肯定される、巨大なるプラスに代えられてしまうと、パウロはここで歓喜に溢れて断じているのです。

 私たちの人生に、神が付与された2つのマイナス符号によって、私たちの口は初めて清まるのではないでしょうか。自分と隣人は同じ罪人であり、同時に、十字架の贖いによって等しく義とされた存在であることを知る。その時、私たちは、真実の意味で差別を克服し、隣人と和解し互いに祝福の言葉を語り合う、第一歩を踏み出すのではないでしょうか。そこで、あの映画のように、真の友を得ることが出来るのではないでしょうか。どんなにこの世の優劣の差が大きくても、そんなことは、この神の平等の前に無意味化する。私たちは、皆、等しく罪人であり、等しく恩寵によって救われた神の民、兄弟姉妹だからであります。



 祈りましょう。  主なる神様、どうか自らの高さを主張するところから生まれる差別と分裂の日々を悔い改め、和らぎの言葉を交わし合い、平和をつくり出す教会とならせて下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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