2012年5月20日 主日朝礼拝説教 「我ら、神の光に照らされ」

  説教者 山本裕司 牧師
  哀歌 2:1~5  ローマの信徒への手紙 1:18


 教会は、喜びの知らせ・福音を宣べ伝える場所です。この世の生活の中で重荷を負い労苦している人々に、平安と慰めを与える場所です。教会にはその励ましを求めて多くの兄姉が来訪されます。そういういう期待の中で、今朝、朗読された旧約、新約の言葉を聞いておられて、どう思われたでしょうか。期待に適った言葉を聞くことができたでしょうか。この朝、次々に語られたのは「神の憤り」「神の怒り」でした。ここには、平安とか慰めという単語はありません。私たちの罪が容赦なく指摘される。一体、こういう厳しい聖書のどこに福音があるのか。今日ここに来たのは間違いであったのではないか。そういう暗い思いになられた方もおられるかもしれません。実際、バルトの『ロマ書』では、ここの小見出しを「夜」と名付けたのです。

 そうであれば説教者は急いで言わなくてはなりません。福音とは確かに闇を照らす神の光です。決して私たちを暗くするものではない。明るくするのです。しかし光とは、その性質から、隠れているものを露わにします。私たちの正体が白日のもとに曝されるのです。だからこのローマ1:18以下のテーマは「福音という光に照らし出された、人間の罪の姿」とも言われます。

 若い頃、壁紙屋のアルバイトをしたことがあります。ある日、一つの倉庫の整理をする仕事となった。筒状になった壁紙は、実に重いもので息を切らせながら、運んだことを覚えています。暗い倉庫にずっといると、喉がだんだん苦しくなる。ふと顔をあげると、節穴から日の光が一本の束になって、斜めに差し込んでくるのを見ることが出来る。その光の中を埃がもうもうと舞っている。ぞっとしました。でも暗い倉庫にいると、その空気の悪さに気付かないのです。あるいは、西日に照らされた私たちの影法師の不気味さ、長さを思い出しても良いかもしれません。神の光は、私たちが本来持っている濁り、私たちの原罪の不気味さ、大きさを浮かび上がらせる働きがあるのです。

 昨夜、NHK『ETV特集』「失われた言葉をさがして 辺見庸 ある死刑囚との対話」を観ました。作家辺見が、63歳となる死刑囚・大道寺将司と対話を重ねる中で、一冊の本を出版する話しです。大道寺は東アジア反日武装戦線「狼」に属し、1974年、三菱重工爆破(三菱と無関係の多数の通行人も含む8人の死者と300人以上にのぼる負傷者を出した)など連続企業爆破事件を起こし逮捕されました。1987年に最高裁で死刑が確定しています。辺見が出版に尽力したのは、逮捕以来37年間獄中にいる大道寺が、東京拘置所で作る俳句を集めた句集です。辺見自身は、自分の故郷を壊滅させた、3・11以後、表現する言葉を失っていました。言葉を失った彼は、獄中で、極限まで自らの内面に接近しようとする、大道寺の俳句に、今、日本から失われてしまった、信頼に値する「言葉」の回復を見出そうとするのです。大道寺の一句はこうです。

 「寝(い)ねかねて 自照(じしょう)はてなし 梅雨じめり」

 狭い独房の中で、眠れない梅雨の夜、彼はじっと自照する。自分自身の心の奥底の暗黒に光を当てようとする。夜を徹して。辺見は言いいます。簡単に思想とか文学とか詩とか言うのだが、本当に自分の生身の恥の部分、体の底に沈んだ暗い部分には、決して光を当てようとはしない。他者をあげつらうだけで、自分の内面に光を当てない。そのようなあり方に、この国の戦後と現代がある。1974年の三菱重工爆破事件の犯罪と、それを引き起こした自らの内面の罪と、大道寺は37年間、狭い空間の中で向き合い続けて来たのだ。この国が、表面的な繁栄とか、表面的な明るさに浮かれて、軽い、余りにも軽い言葉を洪水のように溢れさせていった時、大道寺は、たった17字の言葉の中で、苛烈なまでに自分を責めていく、糾弾していく、根源まで指弾していったのだ。

 「実存を 賭して手を擦る 冬の蠅」

 独房に迷い込んできた弱っている冬の蠅、その蠅が手を擦る。その蠅の姿は大道寺の心そのものなのです。大道寺は自分の全存在を賭けて、何者かに謝っている。「ごめんなさい」と手を擦ってわびている。そう解釈して辺見は続けます。「私のように、沢山のことを物忘れしている輩や、記憶のあやふやな者どもが、ひたすら記憶し、苦しみ悔いる者、記憶の果てしない反芻を強いられている者を、痛罵することが出来るのか。出来はしない。してはならないのだ。」そう呻くように言うのです。

 自らの恥と罪の内面を自照しないと、どうなるのか。連続企業爆破事件が起こり、3・11における福島第一のようなことが起こるのです。しかし、大道寺のようになれない、記憶あやふやな私たちが、どうしたらこの自分の内面の奥底に光を当てることが出来るのでしょうか。聖書は、その問いに対して、福音の光に照らされる他はないのだ。そう言うのです。「寝(い)ねかねて 自照(じしょう)はてなし 梅雨じめり」、私はこの「自照」を「福音の光」によって照らされることと読みました。
 
 その光に照らされた時、多くの信仰者が体験されることは、信仰をもつ前より後の方が、自分の「不信心と不義」(ローマ1:18)に悩むということです。信仰以前は、何でもないと思っていたことが、いかに罪深いことだったか。「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」(1:18)という現実を知るようになる。しかし、それなら、そんな光は来なかった方が良いのか。そんなことはない。私たちにとって、自らを照らす光とは、同時に命の光です。しかし、私たちが本当に命を得るためには、光の中で暴露される罪の闇を直視しなければならない。これは厳しいことです。しかし、この罪を見ないことの方が私たちにとって、もっと厳しいことになるのです。

 『天国の凱旋門』という本があります。これもある死刑囚と信仰者たちとの交流を記録したものです。戦後暫くして、福岡刑務所にSという若い死刑囚が収監されました。その小学校時代の友人・新保満は、Sの死刑判決を聞き、何とか救いたいと願います。会いに行って聖書を与え、文通が始まりました。やがて新保さんはSのような悲劇を防ぐために、社会事業家になろうと、ICU(国際キリスト教大学)の第一期生として入学しました。紆余曲折はありましたが、Sはついに反抗を捨てて、こういう告白を新保の妹にするに至る。「貴方の兄さんが私のために神に祈られる姿を思い、わが身の罪の恐ろしさに、はじめて気がつきました。戦争のために両親を亡くして、頼るべき人は冷たく、世の中に捨てられたときは、人を恨みました。この時の寂しさにうち勝つだけの何かが欲しかった。柔道の力をかりてその寂しさを防いでいました。しかし何のために働くのか分からない。俺が真面目だと誰が喜ぶのか、不真面目だと誰が悲しむのか。誰一人として、心から励ましてくれる人はなかった。人生の荒波に負けた私、しかし、今からでも決して遅くないと気付きました。」そしてSは、御言葉を引用するのです。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」

 この後この新保満の働きに共鳴した、ICU第一期生のキリスト者数人が、この刑務所内聖書研究会に、教会の説教を書き送る運動を行いました。自由に教会に出席出来ない服役囚は、これによって御言葉を学んだのです。その一人が書き送った説教こそ吉祥寺教会の竹森満佐一牧師の説教『ローマ書講解説教』でした。この講解説教の古典と呼んでも良い優れた説教集は、この死刑囚へ送るために筆記されたことによって生まれたのです。

 「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」(1:18)この説教の中で、竹森牧師は最後にこう締め括られます。「十字架の光に照らしだされるところ、醜悪な罪の姿があらわらになる。それを暴き立てる神は、決して冷酷なのではありません。冷酷というのは、運命のように、何がどうあろうと、何の反応も示さないもののことであります。運命は、石のように冷たく、従って、怒ることもしないのであります。十字架の神は、そうではありませんでした。まことの、愛を持っておられる神は、運命のごとく冷淡ではなく、真に怒ることをなさるのであります。子を真に愛する父が、子を本気で怒るように。」

 こういう説教を獄中で死刑囚は読みました。Sは「ああ、ここに自分の真の姿、そのままが書かれてある」と直感しました。敗戦の大混乱の中で両親を亡くしたSは、全てが冷酷な運命の仕業だと思ったのです。誰も自分の人生を見ていてくれないと思ったのです。「俺が真面目だと誰が喜ぶのか、不真面目だと誰が悲しむのか。誰一人として、心から励ましてくれる人はいなかった。」誰も見ていない、誰も気にしくれない、天涯孤独だと思った時、彼が出来たことは柔道だけでした。その腕力が殺人を犯させたのです。神なしで、どんなに生きようと力を付けても、それは結局、他人を傷つけ、自分の傷つける他はなかった。私たちも同じなのではないかと思います。「真理の働きを妨げる人間」(1:18)この「妨げる」とは「暴力をもって、牢獄に拘留する」という意味があるそうです。不義な者たちが、真理を捕え、牢屋にぶちこんだと言う意味となる。そうであれば、ここで言う「真理」とは、主イエス・キリストことです。それが邪魔になる。真理・キリストを、そんなものいらいないと、私たち人間は、捕らえ、牢に入れ、裁判にかけ、そして十字架につけたのです。しかしそこで、いったい何が起こったのか。この福岡刑務所の聖書研究会はカルバリ会と言いました。このカルバリとは、主イエスの十字架が立った丘の名です。主と共に十字架につけられた死刑囚の一人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23:42)と願いました。カルバリで死刑となるのは、孤独な自分だけだと思った時、あに図らんや、自分の直ぐ隣で、主イエスもまた十字架についているではないか。自分は一人ではなかったのだ。どこまでも自分と共にいて下さり、見ていて下さり、一緒に死んで下さる方がおられる。そして、私を、楽園に導いて下さる方があられる。そこで、この悲惨この上ないと思われた場・カルバリが思いがけず楽園への門「天国の凱旋門」となるのだ、その喜びが「カルバリ会」の命名となりました。

 白日のもとに、私たちの罪が露わになる恐怖の瞬間、福音の光は、同時に、その罪が赦されたことを告げる救いの光となる。十字架の力によってです。

 「実存を 賭して手を擦る 冬の蠅」

 御子も共に父なる神に謝って下さる。その光の中に立つ時、初めて私たちは「悪かった」と言うことが出来るのではないでしょうか。十字架の犯罪人のように、罪を告白することが出来る。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」(ルカ23:41)、罪を告白することは厳しいことです。しかし繰り返し申します。自照せず、手を擦らず、罪を告白しない生き方こそ、もっと厳しいのであります。主の光の中で、罪を問われ、しかしその光によって救われていることを本当に知る時、私たちは立ち直る。主がついていて下さり、見ていて下さる、孤独はもはやない。一緒に御前で手を擦って下さる。そこで私たちは、私たちの魂を支配する根源的重荷を、ついに、下ろすことが出来る。今朝もまたこのような慰めと平安の御言葉を聞くことが出来た幸いを思う。


 祈りましょう。  主なる御神。あなたの御光によって、私たちが罪人であると明らかに悟らせて下さい。しかしその福音こそ、その罪人を救う恵みの光であることを、もっと強く悟らせて下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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