2012年12月30日 降誕節第1主日礼拝説教 「クリスマスは終わらない」

説教者 山本 裕司 牧師

創世記 3:21 ローマの信徒への手紙 5:12~14



 この礼拝においてローマの信徒への手紙を読み続け、5章12節に最初に入ったのは、待降節第1主日・12月2日でした。爾来この季節、私たちは、この御言葉をもって礼拝を守ってきました。先週12月23日の「教会学校合同クリスマス礼拝」では、ルカ福音書を読みましたので一度飛びましたが、降誕節第1主日である今朝、再びこの使徒パウロの言葉に戻ってきました。そして、もう一度ここを開いた時に思ったのは、この御言葉はクリスマスの季節に読まれるのに何と相応しいかということです。まさにここは福音書の生誕物語に匹敵するクリスマスの言葉であるのです。

 「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)、私たちにとって、最悪の罪と死は、どこから始まったのかと問うた時に、聖書は「一人の人アダム」からだと答えるのです。そしてこの後生まれてくる人間は皆等しく、この最初の人間の罪をそのまま受け継いで生まれてくるようになってしまった。それが「原罪」の教えです。

 先ほど、旧約聖書創世記3章の一部も朗読頂きました。神様がこれだけは食べてはならないと戒められていた禁断の木の実をアダムが食べ、それを神様に咎められた時、彼は素直に自分が悪かったと謝らなかった。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」(創世記3:12)、私のせいじゃない。あなたが与えて下さった妻のせいだと言ったのです。こういう罪のなすりつけ合いは、私たちに本当に身に覚えのあることではないでしょうか。やがてこの夫妻から2人の男の子カインとアベルが生まれる。2人は成長すると仲の悪い兄弟になりました。そして弟アベルが神様に祝福されて、何をやってもうまくいくのを、兄カインは見せつけられた時、彼の妬みの炎は燃え上がり、弟を殺してしまう。この嫉妬の怒りも、そのまま私たちは受け継いでいるのではないでしょうか。

 ETV特集「永山則夫100時間の告白~封印された精神鑑定の真実」(2012年10月14日)という番組を見ました。これは19歳だった永山則夫が、4人を連続して射殺した事件(1968年)に関わるものです。彼は北海道網走で8人兄弟の7番目の子(4男)として生まれました。父は、稼ぎの大半を博打につぎ込み、家庭は崩壊状態、育児放棄(ネグレクト)の中で育ちます。母もいなくなり、家に残された則夫を含む4人兄弟は極貧の生活であった。しかも年少の則夫は始終兄たちから激しいリンチを受けました。彼自身も妹を木刀で殴るようになるのです。やがて上京し、19歳となった則夫にとって、米軍基地で盗んだ拳銃は、彼にとって木刀に変わる「宝物」となった。逮捕後、彼は精神科医・石川義博による100時間に及ぶカウンセリングを受けました。その結果、石川医師は、彼の生い立ちに着目し、この犯罪が「PTSD」(心的外傷後ストレス障害)による可能性を指摘した鑑定書を裁判所に提出します。しかしそれは最高裁では採用されず、「同様の環境で育った兄弟は、被告人のような軌跡をたどることなく、立派に成人している」との理由で死刑判決が確定されました。しかし番組はそれが事実ではないと言うのです。「長男は詐欺罪で逮捕され刑務所を出て以降消息不明。次男はギャンブルに明け暮れ42歳で死ぬ。姉も妹も心を病み、一緒に育った姪も行方不明」と。

 小学2年までしか学校に行かなかったため、字もろくに書けなかった永山は、獄中で猛勉強を始め、やがて更正し罪を悔い、優れた文学者となりました。しかし1997年、死刑が執行されたのです。48歳でした。私は90分にわたるこの番組を見て、彼の死刑執行を思い、声を上げるほどやるせなく深い悲しみを感じました。私も彼と同じではないかと思いました。もし彼のような境遇に生まれたら、同じことをしたのではないか、彼が特別な殺人鬼であったのではない、誰もが、そのような心の暗黒を抱えて生まれるのではないか。それが、劣悪環境と無知の相乗効果によるPTSDで、表に現れただけのことではないか。それが、おそらく良い家庭環境で育った最高裁判事には、理解出来ないのではないかと思いました。いやむしろ、判事は、聖書を知らないのではないか。ローマの信徒への手紙を読んだことがないのではないか。私たちは皆原罪のもとに生まれる、私たちは神を棄てたアダムと殺人者カインの末裔である、それを知っていれば、犯行当時19歳の永山に対して、一抹の同情心が湧くのではいか。そう思いました。

 あるいは、ある外国の死刑囚の話ですが、33歳のドビーという黒人は、盗みに入った時、騒がれて白人の女性を殺し、やはり死刑を宣告されました。何故、こんなことをしてしまったのでしょうか。ドビーは3歳の時、大きな心の傷を受けていた。母親が男と喧嘩をして、ピストルで撃たれそうになった時、ドビーを楯代わりに男の前に突きだしたのです。成長した彼が人の命を軽視したことは、母親のしたことをそっくりそのまま真似たと言って良いのではないでしょうか。さらに遡れば、ドビーの母親も永山の両親も同じような境遇の中で育ったのではないでしょうか。事実、則夫に対する母の虐待、それは母自身が受けてきた壮絶な虐待の相似的行為である。「虐待された親が自分の子をまた虐待するという連鎖」であったと指摘されるのです。こうして、罪が親から子へ子から孫へと受け継がれていく。その罪の連鎖を遡っていくと、その原形にたどり着くとパウロは語るのです。それが「一人の人アダム」であった。人間の罪と死は、全ては最初の人・アダムから出てきた、と言うのです。

 粘土細工をする時、型に粘土を入れると、次々に同じ物が出てきます。同様に、最初にアダムという鋳型があって、その鋳型にはめられたように、同じものが次々と出てきた。よそ事ではありません。則夫たちだけじゃない。私たちも同様なのです。

 
 ところがここが大事ですが、「実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。」(ローマ5:14b)とあります。この「来るべき方」というのを、私たちのことと考えれば、これまでの話と辻褄が合います。しかし、これが私たちのことなら何故「来るべき方」と敬語が用いられたのでしょうか。それは、これがイエス・キリストを表す言葉だと学者たちによって判断されたからです。また「前もって表す」と訳された元の言葉は「型」です。口語訳ではそうなっています。「鋳型」のことです。だから「来るべき方(イエス)の型」がアダムだと言った時に、救い主キリストとは、アダムの「型」にぴったりはまる存在だと言われているのです。アダムという鋳型から飛び出して来た者、それがキリストだと言うのです。そこで私たちは良く分からなくなるのです。アダムとは、私たち罪人の鋳型ではないか。原罪のアダムとそっくりなのは、私たちの方であって、聖なる御子イエスのことであるはずはないと、私たちは思います。

 しかし私たちが、このクリスマスの季節に知らされたのは、御子イエスは本当に弱い一人の人としてお生まれになられたという事実です。貧しいベツレヘムの馬小屋で生まれられ、ゴルゴタの十字架で死刑囚として処刑されました。人が人として生きる苦しみを全て体験された。極貧も病も虐待も殺戮も死も経験されながら育たれた。イザヤが御子の姿を預言したように。「この人は…見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」(53:2b~3)、まさにアダムの「型」をとって生まれられた。天使ではなく一人の人として降臨された。そのクリスマスのメッセージを、教会は古くから「受肉」と呼んできました。どうして、そんなアダムの型をとって、御子はお生まれになられたのでしょうか。

 ヘブライ人への手紙4:15にはこうあります。「この大祭司(主イエスのこと)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」超人ではアダムの弱さが分からないのです。恵まれた家庭に生まれた最高裁判事が、永山をついに理解出来なかったようにです。天使では、肉体をもつアダムの煩悩は分からないのです。肉体の飢え渇き痛みが、肉体の欲望が分からない。御子イエスは、天の高みから、肉の悩みで呻吟する私たちを、憐れなものよと同情して、高いところからお恵みを投げ与えたのではありません。御自身が天から飛び降りるようにして、最も低い地上に、切れば血が流れる同じ人間アダムの「型」をおとりになって来て下さったのです。ここにクリスマスの愛がある!

 創世記の物語に戻ると、最初の人間・アダムとエバは禁断の木の実を食べた瞬間、自分たちが裸であることに気づきます。神と和やかな関係にある時は、気候も春のようであり、野には棘ある草もない楽園、パラダイスに暮らしていたのです。しかし罪を犯した瞬間、神の怒りによって、空に黒雲がわき上がり北風が吹き始め雹が打ち付けたかもしれない。あわてていちじくの葉で腰を覆いましたが役にたたない。寒さに震えながら逃げる2人の足に茨とアザミが容赦なくからみついて、足から血が流れたかもしれない。そんな2人を神様は憐れに思われ「皮の衣を作って着せ」(創世記3:21)て下さいました。『失楽園』を書いた詩人ミルトンの解釈では、この裸に震えて立つ2人に、皮の着物を作って着せて下さるのはキリスト御自身です。かくして「御子は、罪と恥を、愛をもって覆われた。御子は、父なる神の怒りの眼差しから人の罪を隠した」とミルトンは言うのです。パウロは「主イエス・キリストを身にまといなさい」(ローマ13:14)と奨励しました。それはもはや獣の皮ではない。キリスト御自身が、裸の我々を覆うのです。

 「実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。」(5:14b)、人は皆、裸です。着せられなくては生きられないのです。しかも隙間だらけのいちじくの葉では駄目です。それは隙間なく私たちを覆う神の衣服でなくてはなりません。車でも僅かな塗装の傷から錆がどんどん広がります。だからぴたっと体にフィットするものが必要です。そのようなオーダーメードの衣になるために、主イエスは、アダムのサイズに受肉されて、私たちを隙間なく覆って下さった。どんな小さな傷でも、そこから罪と死とが侵入してくる。神の怒りの眼差しが皮膚を刺す。キリストは、そうやって侵入してくる滅び力から、私たちを守るためにコーティングとなって下さった。そうやってアダムが虜になった罪と死に勝つ。ミルトンはそれを「内なる裸を覆う、義の上着」とも呼びました。

 そうであれば、爾来、私たちは罪と死のどんな過酷な環境の中でも生きていけるのではないでしょうか。御子の衣とは、真空と絶対零度からパイロットを守る宇宙服に近い。だから私たちは、どんな劣悪環境(ネグレクト)に育っても、殺人者になる必要はない。

 「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。」(イザヤ49:15)

 永山の言う「無知」とは、この神の愛を知らなかったことに極まると言わねばならない。しかし、この無知のために殺人を犯した者の裸も御子が覆って下さる。御子は私たちの弱さを全部知った上で、憐れみ守って下さる。御子が私たちに代って死刑となって下さる。そのために、一人の幼子として、アダムの型、私たちと同じ姿をとって、クリスマスの夜ベツレヘムにお生まれ下さった。クリスマスの喜びは余りにも深いと言わねばならない。



 祈りましょう。  主なる神様。この季節、もう一度、終わりなきクリスマスの喜びを私たちに充たして下さい。御子イエスの命に覆われる喜びにあずからせて下さい。それが故に例外なく希望をもって、2013年の朝を迎えることが出来ますように。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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