日本基督教団 西片町(にしかたまち)教会へようこそ!バリアフリーの教会です。 どなたでもいらしてください。

2012年11月18日 主日朝礼拝説教 「あなたのために死んでくれる人はいるか」

2012年11月18日 主日朝礼拝説教 「あなたのために死んでくれる人はいるか」

説教者 山本 裕司 牧師

イザヤ書 49:14~15・ローマの信徒への手紙 5:3~10



「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」(ローマの信徒への手紙 5:10)



 使徒パウロは「苦難をも誇りとします。」(ローマ5:3)と言いました。私たちの人生には苦しみや悩みが来ます。病気になったり、お金のことで苦労したりします。それも勿論「苦難」ですが、それだけでなく、パウロは信仰者だからこそ襲ってくる悩みを、特にここで思い浮かべていたのでないかと解釈する人もいます。パウロはその悩みを吐露しています。「日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。」(コリント二11:28)

 ある心理学者によると、牧師は最も「燃え尽き症候群」に陥り易い職種だそうです。その理由は(私には余り当てはまりませんが…)「牧師は真面目であり、楽しみを抑制し禁欲的生活をしがちである。牧師は否定的感情・恐れ、不安、怒りなどの表出はふさわしくないと言われ、自分でもそう思っている。牧師は来談者の深刻な苦悩を聞くと、その苦悩に捕らえられ一緒に溺れてしまう。これらが強いストレスとなって牧師は狭心症や心筋梗塞、胃潰瘍、さらには精神病に罹患する可能性が高い。」そういう牧師の危機が延延と語られるのです。しかし牧師でなくても信仰者は大なり小なり、このようなストレスを受けているのではないでしょうか。キリストを知る前は、遊びたいだけ遊び、憎みたいだけ憎み、人の心には無頓着で神の御心などどうでも良いと、ストレスなく過ごしたかもしれない。しかし、キリストと出会ってから私たちはそれが出来なくなりました。信仰者としの重荷を負うのです。勿論、私は、学者が勧めるように、牧師がカウンセリングを受けられるシステムを作ったり、リフレッシュ休暇を取ったりすることは必要だと思います。しかしこうも思いました。牧師である以上、どんなにしても、この重荷から解放されることはない。本当に解放されたいのなら、牧師を辞め、さらにキリスト者であることも止める他はないと。

 だからこそ、信仰者としてどう健康に生き抜くかを、パウロは今朝の御言葉の中で示そうとしているのです。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(5:3~4)どうして、こんなことが言えたのでしょうか。パウロは特別にストレスに強かったのでしょうか。そうではありません。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(5:5b)とその理由をはっきり記すのです。そうであるなら、私たちがもしストレスに弱いとしたら、それは神が私たちの心に注ごうとして下さっている愛を、無意識の内に水門を閉ざして拒絶しているからではないでしょうか。そこで私たちの心は不毛の砂漠となってしまう、まさに燃え尽きるのです。それなら、私たちの最大のストレス解消、リフレッシュとは、この神の愛を、心の水門を大きく開いて、豊かに私たちの心に注ぎ込んで頂くことです。

 私たちのストレス、それは究極的には、愛されないことに尽きると思う。どんなに遊んだって、酒を飲んだって、愛されることがなければ、その休息の中でストレスは私たちをもっと蝕むことでしょう。現在の牧師が何故学者の言うように病んでいるのか。それは明らかです。教会員が牧師を愛さないからであります。教会員が何故病んでしまうか。それは明らかです。牧師が教会員を愛さないからであります。心理学の先生が上げたストレスの原因のどれを取っても、教会に愛があれば、解決されるのではないでしょうか。教会だけじゃない。家庭もそうです。何故そこで子どもが苛立つのか。何故妻が燃え尽きるのか。家庭に正しい愛がないからです。しかし、それなら、いったいどこに愛があるのでしょうか。それは、ヨハネの手紙一に書いてあります。私たちは元々、真の愛というものを見たことも聞いたこともなかった、と。しかしイエスが私たちのために命を捨てて下さった。その時初めて私たちは愛を見たのだ、と、彼は言うのです。これはパウロと共通しています。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:8)、愛とは、自分が愛する者のために死ぬことによって、初めて証しすることが出来るようなことかもしれません。だから例えば牧師である私が教会員に対して、その愛を証明したいと思うなら、兄弟姉妹のために死ねば良いということかもしれません。しかしこう語りながらもう立ちすくむ。そんなことは出来ないと、皆さんの前ではっきり告白しておかなければならない。しかしそう「あなたがたのために私は死ねない」と牧師がはっきり言ったとしたら、信徒はどう思うでしょうか。冷水を浴びせ掛けられたような気がするのではないでしょうか。「嘘でもいいから、先生そんなこと言わないで下さい」と、「それは公然の秘密にしておいて欲しかった」と、何故か深い寂しさを皆さんは感じるのではないでしょうか。家庭でも同じです。夫が、ある日、これだけはちゃんと言っておこう。お前のために俺は死ねないからな、出来ないものは出来ない、そう妻であるあなたに言ったとします。どんな気持ちになるでしょうか。お母さんがある夜、子どもを呼ぶ。○○ちゃん、お話があるのよ。お母さんはあなたのために死ぬのはまっぴらだからね、と言う。子どもはそれを聞いて、何か深い穴の中に飲み込まれていくような気になるのではないでしょうか。少なくても生涯の傷となる。不思議なことです。自分だって良く考えてみれば、お母さんのために死ねないのです。だからお互い様です。人は皆そういうものだ。それが分かっていながら、でもそれがはっきりさせられると、何故か、やはり寂しくて寂しくて仕方なくなる。そうやって人は孤独を知る。自分は一人で生まれ、一人で生き、一人で死ぬ、それが分かる。そして敏感な人から順番に心が病気になるのです。感受性の鋭い人から自分で自分の命を絶つのです。

 しかしヨハネは言います。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(ヨハネ一3:16)、そうありますが、ここで疑問に思う人がいるかもしれません。確かに数は少ないかもしれないが、子どものために死ぬ親はいるのではないか。「ロミオとジュリエット」のように恋人のために命を捨てる者もあるではないか。そうであれば、キリスト以前に、兄弟のために死ぬ、その愛を知っている者はいるのではないか、と。そういう問いを携えて、私たちはローマの信徒への手紙に帰っていきたいと思います。「善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(5:7~8)、「善い人」のためなら死ぬ者はあるいはいるかもしれない、そうパウロも考えているのです。ヨハネの言う「兄弟」に対してならば、命を捨てることもあるかもしれないと言うのです。しかしここでパウロが言いたいことは、では私たちの中に、そのような善があるかと言うことです。彼はむしろこう言うのです。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。」(5:6)、私たちが弱く、不信心であるということは、神の戒めを守らない、何よりも神も隣人も愛さない「罪人」(5:8)だということです。その罪の中身は、神に対して「敵」であるということです。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」(5:10)、実際、パウロは主イエスを知る前、教会の迫害者でした。キリストの敵です。その点ではヨハネとは主イエスとの出会い方が異なるのです。先に引用したヨハネの手紙は、主の愛弟子ヨハネと関係のある文書だと言われます。使徒ヨハネは、主イエスから最も愛された弟子でした。ヨハネは自分がイエスの「兄弟」であり「友」だといつも考えていました。だから、主イエスが死なれたのは、私のためだとヨハネが思った時に、だから主イエスの十字架とは、兄弟のため、友のために命を捨てることだと覚えた。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ福音書15:13)、しかしパウロの場合、そうは言えなかったのです。パウロは元々イエスの敵でした。しかし彼が気付いたのは、その敵であった時に、もう自分のためにイエスが死んで下さっていたという事実です。敵であることを止めた時に、イエス様のパウロへの愛が始まったというのではありません。神と敵である私たち罪人の所にも、イエス様は来て下さって言われる。「誰があなたのために死ねないと言おうとも、私は、この私だけは、あなたのために死ぬ!そのようにあなたを愛する」と。預言者は、母が子を憐れまず、忘れることが万が一あったとしても、神は私たちを憐れんで下さり、忘れることは決してない、と断じました。(イザヤ49:15)、「たといお母さんが君のためには死ねないと言っても、神である私は君のために死ぬことが出来る。」この神の言葉を聞いた瞬間、私たちは、ついに暗く冷たい冬を通り抜け、温かい春の雨を全身に浴びたような歓喜を覚える。「神の愛がわたしたちの心に注がれている」(ローマ5:5a)、空だきのやかんのような私たちの心に神の憐れみの水が豊かに注ぎ込まれる時、私たちは「燃え尽き」からついに解放される。これこそ使徒パウロの最大のストレス解消でした。

 あるスポーツ選手は糖尿病のためインシュリン注射を毎日かかせないそうです。もしインシュリンがなかったら、彼はとうに選手生命を失っていたと思います。しかし薬さえ注ぎ込めば人並み以上の健康を得て、一流選手として活躍することが出来る。私たちもまた、原罪の木の実を食べて以来、体内でもはや愛を作り出すことは出来ない病人となりました。その時イエス様が命を捨てて下さって、私たちの病んだ心に愛を注入下さる。その時、私たちは変わるのです。一流にはなれなくても、少しはストレスを乗り越えて、隣人を愛するために歩み始めることが出来るようになる。人格高尚だからではありません。イエス様の御血潮が、その愛が、恵みとして、私たちの血管に注ぎ込まれたからであります。その中で、主の御心であれば、自分でも思いもがけずに、隣人のために命を捨てることだって、あるいは、私たちの人生の中で起こるかもしれない。神の愛の力とは、それほどに強い。ハレルヤ、主を褒め称えましょう。



 祈りましょう。  主よ、愛無き人生の渇に呻吟する私たちの心に、あなたの愛を注ぎ入れて下さい。そして、燃え尽きることなく、あなたと隣人に仕える者とならせて下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



a:1264 t:2 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional