2012年10月14日 主日朝礼拝説教 「神の命、注ぎ込まれ」
説教者 山本 裕司 牧師
創世記 18:9~15・ローマの信徒への手紙 4:18~25
サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。 (創世記 18:12)
神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。
(ローマの信徒への手紙 4:21)
「大逆転の物語」という文学のジャンルがあるかどうかは知りません。しかし、古今東西、人類が延々と様々なヴァリエーションを駆使して語り続けてきた物語。いつの時代でもいずれの国でも、人はそれを聞くと、呪縛から解き放たれ、熱狂し、泣き、爆笑するような「大逆転の物語」が存在します。私たちも、夏にはオリンピックで不振と不運に苦しむ日本選手が、しかし最後に大逆転の勝利をおさめる、そのシーンに酔いました。大逆転の物語、その「原物語」こそ、今朝の旧約・創世記18章に表れるアブラハムとサラの物語ではないでしょうか。しかし、後に生まれたどの物語も、アブラハムとサラの逆転劇の前に所詮色褪せてしまうのではないでしょうか。何故なら、この世で起こることは、どのような勝利であっても、それは真実の意味での「大逆転」とはならないからです。小逆転かもしれないが大逆転ではない。大逆転の物語が生まれるためには、コンマ1ミリの勝利の可能性も元々私たちの内にはないことが前提だからです。
主が遣わされた御使いが、アブラハムに約束をします。「来年の今ごろ…あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう。」(創世記18:10)しかしその時、アブラハムも年老いていれば、サラも月のものがなくなっているという状態でした。天幕の入り口でアブラハムと主の使いのやりとりを聞いていたサラは、思わず失笑したと書かれてありました。「サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。」(18:12)
今朝、私たちが読み続けて、ここに至った新約・ローマの信徒への手紙書でも使徒パウロは言うのです。「(アブラハムは)、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないことを知りながら」(ローマ4:19)と。翻訳の事ですが、この新共同訳聖書では「…既に自分の体が衰えており」とありますが、口語訳では「彼自身の体が死んだ状態であり」と訳されています。原文ではこちらの訳の方が近いと言われます。しかし「死んだ状態」、これでもなお弱いかもしれません。原文はでは、はっきり「死んでいる」という言葉が用いられています。死んでいると言っても、アブラハムはまだ創世記の中で活躍するのですから「死んだ状態」とか、もっと常識的に新共同訳の「衰えており」という訳になったと思います。衰えたくらいなら、ひょっとしてということだって言えるのです。創世記の物語では、実際、アブラハムは、女奴隷ハガルに自分の子を生ませる力をもっていたわけです。しかし使徒パウロは、ローマの信徒への手紙で、旧約のアブラハム物語をさらにラジカル(過激)に解釈します。パウロはここで「アブラハムの体は死んでいた」とはっきり書く。それはサラについても同じで、この「妻サラの体も子を宿せない」(4:19)と訳された箇所も原文では「サラの子宮は死んでいた」とあるのです。パウロが理解したアブラハムとサラの肉体は、既に死んでいた。旧約聖書より物語がオーバーになっています。どうしてパウロはオーバーにしたのでしょうか。それはこのアブラハムとサラの話は、以下の伏線となっているからです。「主イエスを死者の中から復活させた方…」(4:24)主イエスが死んで甦られたのだ。これは新約の人たちしか知らないことです。この新約のイエスの物語を知ると、人は旧約以上に過激になる。異常になる。非常識となる。死んで墓に葬られ、不可能性の塊となった人間の、しかし、可能性の物語を語り始める。復活の故に。その視点からパウロがリメイクしたのが、このアブラハム物語です。しかし、その笑い物になるような物語なしに、きっとこの世は生きるに値しないつまらない場所になってしまのではないでしょうか。つまりそこは、人間しかいない世界です。「主に不可能なことがあろうか。」(創世記18:14)とあります。この不可能を可能とする神がいない世界は、つまり人間だけの世界は、結局「おかしくて、やがて悲しき」といった結末に至るのではないでしょうか。
例えば、スポーツにおける勝敗が、コンピュータによって確率と統計通りの結果となるとなったら、もはやスポーツの醍醐味は失われてしまう、それに似ているのではないでしょうか。かつての長嶋茂雄のような存在、ひらめきが実力を超えるとどこかで信じさせてしまう男。負けても負けても、なお優勝出来ると夢見るように思い込んでいる男。その人なしに、この世は実は面白くならない、豊かにならないのではないか、そんな気がする。聖書は、主の復活を信じる時、私たちもまた死から命へ甦ることが出来る。そう、終わりの勝利を夢見るように約束する。パウロはその私たちの復活体験の先輩としてのアブラハム夫妻をここで描くのです。アブラハム夫妻、それは、私たち自身の姿です。死んだ体、死んだ魂、それは罪と言うことです。パウロは「罪の拂ふ價は死なり」(ローマ6:23・文語訳)と言いました。罪の故に死んでいる私たちが、命を得ることが出来る。死んで甦られたイエス・キリストの命を信じれば良いではないか。そうしたら死者も生きる、その大逆転にあずかるであろうとパウロは訴えているのです。
「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。」(4:18)とあります。先ず、希望はない。そうはっきり言われている。そのことを、先ず私たちはしかと見据えなくてはならないでありましょう。
ある説教者はこう書きます。「我々は 我々の罪の救いが、アブラハムとサラに子どもが生まれるよりも、難しいことであると、本当に悟っているか。本当に自分は神の前に死んでいることを知っているか。自分の中に命なく、命受け継ぐ力を喪失している者との自覚があるか」と。「自分の中に、なおどこかに希望があるかのように思い、全然見捨てたものではない、と思っているかぎり、神の約束は我々に迫ってこない。御子イエスの十字架も復活も、そこでは空念仏に終わる」と。
例えば、私たちが、教師を志しますと「教育原理」という科目を履修するかもしれません。昔の記憶ですが、そこで近代教育論の主流となったルソーやペスタロッチを学んだ記憶があります。教育とは、人間の中に内在する何かしら良きものを引き出すプロセスであると教えられます。先生は、子どもたちが潜在的に持っている可能性を引き出す役割があるにすぎない。強制的な管理教育がいけない。子どもは、大人が妙な干渉をしないで、自由にさせておく時自ずから成長するのだ、という教育論は確かにとても大切です。このような人間に内在する「善」という楽観主義は、カウンセリングの分野においても、ロジャーズが主張した「来談者中心療法」という形で応用されました。同じ事です。人間の中には、可能性が内在している。悩みをもってカウンセラーの所に来る来談者は、実は、既に自分の中にその問題を解決する回答をもっている。カウンセラーは、ああしろ、こうしろと指示を出さないで、その内在している回答を引き出す手伝いをして上げればよい。だからこれは「非指示的カウンセリング」とも呼ばれました。これはカウンセリングの基礎です。しかし、牧師がもしこの方法だけに頼ったとしたら、それで教会の使命を十分に果たすことが出来るでしょうか。パウロは全く違うのです。私たちの内には、人間の根元的問題、つまり罪と死の問題を解決する力は一切備わっていない。そこで絶望なのだ。私たちは死んでいる。死んだ体だ。何という惨めなことか。パウロは言いました。
にもかかわらず、何故、「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」(4:18a)と語ることが出来たのか。私たちの内からではありません。私たちの外からです。外から解決の光が訪れる。上から命の光が差し込める。そこにだけ私たちの望みが生まれるのであります。
人間の内に、潜在的に良きものが備わっている。それを引き出せば良いのだという考えは、確かにある所までは、私たちを救う考え方でしょう。しかしこれは「おかしくて、やがて悲しき」という結末を迎える。引き出す持ち合わせが、私たちになければ、この理論は破綻する。そして私たちも一生の内、一度は経験するに違いない、私たち自身が真実、自分に絶望した時、この教えは一つも役に立たなくなるのです。自分の中を探せば、どこかに良き物が隠されている、そう思っても、見つからないのです。むしろ、自らの内を覗き込めば覗き込むほど、汚いものが溢れてくる。そのように私たちが、自らの拭うことの出来ない罪の問題に苦しむ時、私たちが救われたのは、来談者中心療法を受けたからではありません。ただ教会で説教を聴いたからです。講壇の上から牧師が一方的に語る説教。質問も一切許されない中で、一方的に押しつけられるようにして聞く説教。この世の目新しい教育法、カウンセリングの新理論を一切無視したかのような、数千年前から変わらない一方的なやり方です。しかし、自らの内に望みを失った者にとって、すがりつくものは自分の外から来る、一方的な恩寵としての神の言葉のみ。他に何もない。この外から来る望みが、強い。「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱」(4:18a)くことが出来る。これが最後の砦です。だからこれを知った時、私たちは喜びに溢れる。笑わずにおれない。もう駄目だと思っていたことが、間違っていたからです。もう負けたと思った試合が、9回裏ツーアウトツーストライクからホームランが飛び出して勝利する、それは噴出する喜びの瞬間です。私たちはその時、爆笑せずにはおれない。「悲しくて、やがておかしき」という大逆転が私たちの人生に起こる。
今年もクリスマスを待つ「降誕前」の季節を迎えようとしています。それで思い出すのは、ルカ福音書のクリスマスの物語に、アブラハムの物語を再現したような、老祭司ザカリアと妻エリサベトの物語があります。二人には子どもがなく既に年をとっていました。しかし、天使ガブリエルが現れ、エリサベトは男の子を産むと言った時、ザカリアは、あり得ませんと、「わたしは老人です」(ルカ1:18)と信じなかった、そのために、彼は口を利けなくなりました。しかし、約束通り、この老夫妻に洗礼者ヨハネが産まれた時、その喜びの中で、ザカリアは口が開き、舌がほどけ、「ほめたたえよ」と神を賛美する。そして歌いました。「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」(1:78~79)と。自分たちの内からでない、自分たちの心も体も、望みを失っているけれども、外から光が来る。その高い所から来る光だけが強い、と。私たちは、深い喜びの中で、この光を「指示」します。ロジャーズのように「非指示」などと洒落たことを言っている暇はありません。このザカリアの子・洗礼者ヨハネが、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(ヨハネ1:29)と、全身が人差し指のようになって「指示」したように。私たちは、どのような闇、どん底の中でも、指さすのです。御子イエス・キリストの光のありかを。
先の創世記で、サラは、不可能な子の誕生を約束されて冷笑を漏らしたと言いました。それは何と悲しい笑いでしょう。しかし主もまた、その皮肉に笑うサラの「常識さ」、「まともさ」をもっと高々と笑い飛ばしておられるのではないでしょうか。笑いながら「神に不可能なことがあろうか」と言われたのではないでしょうか。その神の笑いが伝染して私たちも笑う。自分の不信仰を笑う。自分の知恵を笑う。自分の悩みを笑う。苦しみを笑う。絶望を笑う。死を笑う。その悩みも、その罪も、死も、絶対的なものでないということを見るからです。不可能を可能とされる神の前に絶対だと思われることも、全て相対化される。それを知った時の噴き出すような笑いが生まれる。かくして、アブラハムは生まれた子に名前を付けました。「イサク」と。その意味は「笑い」(創世記21:6)です。冷笑ではない、歓喜の笑いです。大逆転の物語、終わりに来るのは笑いです。「悲しくて、やがておかしき」神の国が到来する。その喜びは今、私たちのものであります。
祈りましょう。 父なる神よ、私たちの絶望の夜のただ中に、あなたは光の御子を送って下さり、笑いの渦の中に招いて下さいました恵みに感謝します。
・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。
聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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