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2012年1月15日 主日礼拝説教 「御光の射程は遙かに」

2012年1月15日 主日礼拝説教「御光の射程は遙かに」

説教者 山本 裕司 牧師
マタイによる福音書 27:1~10



「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとし…」 (マタイによる福音書 27:3)


 ユダヤの最高法院で主イエスに有罪の判決が下された時、ユダは「後悔」したと記されています。そして裏切りの代価として受け取った銀貨30枚を祭司長に返そうとする。それを受け取ってもらえなかった時、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで首をつって自殺しました。このユダの死を他の福音書は言及しませんが、使徒言行録1:18で、彼は裏切りで得た報酬を用いて土地を買ったが、その土地で事故が起き、身体が裂け腸が出てしまい死んだと語られます。マタイ福音書よりさらに惨たらしい最期が記されているのです。「12弟子から裏切り者が出た」とは、初代教会にとって衝撃的なことだったと思います。そこでユダは、憎むべき例外的悪人であったとの理解が、教会でなされるようになりました。ユダについての解釈が時代によって変化発展するのです。もし教会二千年の「ユダ解釈史」を研究したら大変な神学論文となると思います。というのは、このユダをどう理解するかで、その時代における教会の福音理解が明らかになると思うからです。

 既に使徒言行録では福音書とは異なり、ユダの貪欲さが強調され、死に方もより惨たらしい。ユダに対する拒否的な感情が既に強まり始めているのです。時代が進み2世紀の始めに残された文書になるとこうです。「ユダはむくみに襲われ、異様に肥り、道を通り抜けることもできないほどであった。…彼はこの上なき苦痛の中で死に、その場所は荒れ果てて、今に至るまで、鼻を押さえてしか通れぬほどに臭い。」あるいは、中世の詩人ダンテの『神曲』では、ユダは、地獄のどん底で氷漬けとされ、悪魔大王にかみ砕かれているということになるのです。

 ある時代の教会が、ユダをこのように理解した時、おそらくその教会の人たちは、自分決してユダでない、イエスを裏切るような人間ではない、という自信を持っていたに違いありません。我が教会には万が一、主を否認したペトロのような弱虫は出るかもしれない。しかし断じてユダのような裏切り者はいないという自己理解があったから、そういう残酷なユダに対する物語を作れたと思います。しかし私はこういう古い教会の解釈を読みながら、こういう問いを先達に投げかけたくなりました。「主の憐れみの射程はどこまでなのですか。ペトロの弱さの罪までですか。そこまでなら、御光は届き、救うことが出来る。しかし積極的に裏切ったユダの心の闇を照らすことはない、そういうことなのですか。先輩方、主イエスの光は、あなた達が考えていたよりも強いのではないですか。主の御手はもっと長いのではないですか。20世紀を生きた私たちにとって、そうでなければならないのです。人間の底なしの罪を私たちは知りました。20世紀は大量殺戮の時代です。私たちは、南京、提岩里(チェアムリ)、アウシュビッツ、広島、長崎を経験した後の人間なのです。人は誰でも悪魔になりうるということを、知ってしまった人間なのです」と。

 さらに福音書を読んで参りますと27:23以下に群衆の叫び、27:27以下に兵士の侮辱が記されています。私はこの群衆、兵士たちの姿に弱いものを虐めて快感を得るサディズムを感じます。この受難の物語は、そういう人間の重層的な罪が現れています。決してユダだけが例外的悪人であったなどと語ろうとしているのではありません。私たち一人一人の中に、ペトロがおり、ユダおり、群衆、兵士がいるのだ。それが心の中で、何層にも折り重なって、主を十字架につけたのだ。そう福音書は私たちに訴えているのです。そこでまるで自分とは何の関係もないかのように「ユダは地獄の底で氷漬けになっておれ」と言っておれば済むかと言うことです。

 ユダを最悪の人間とする解釈史の主流に抗うように、ユダに同情的な解釈をした人がいます。それがバッハです。今朝の真に暗いと思われる箇所の中で、思いがけない明るい音楽が、ヴァイオリンをかき鳴らし、ベースがこう歌い始める。「返してくれ!私のイエスを。見るがいい。殺しの報酬である金を、戻ってきた放蕩息子はお前らの足下に投げ出した。返してくれ!私のイエスを。」磯山雅先生は、このアリアを意外にも『受難曲』中、最も重要な楽曲だと書いています。この一見流れを乱すかのように思える明るさ自体に、大いなるメッセージが込められているという指摘です。ここでベースが「返してくれ!私のイエスを」と歌う時、この「私」とはユダ自身だと書いています。そしてバッハは、このユダを、戻って来た「放蕩息子」(ルカ15章)だと言うのです。それは一面正しいと私も思います。息子が父を棄て、ただ父の金だけを得る姿は、ユダが主イエスを金に換えてしまう姿に重なる。つまり両者とも、神より値打ち高きものがあったのです。

 私が小学生の時、学校の帰り道で、子ども相手にいろいろな物を売る香具師がいました。学校が引けた解放感もあって、それは見ているだけでとても楽しいものでした。ある時、売られていたものは、磁石のついた兵隊だった。香具師が遊んでみせると、ことのほかおもしろく見えたのです。まるでそれは生きているように、飛んだり跳ねたりする。私はそれが急に欲しくてたまらなくなった。そしてとんでもないことをしました。そこにいた友人を家に連れていくと、自分が大切に集めてきた切手を売ってしまったのです。それは今考えても、そのまま手紙に貼って使ったって、そんなに安くはないような値段で、とにかくそのおもちゃの値段で売ってしまったのです。そして私は磁石の兵隊を買いました。部屋に閉じ籠もって遊び始めた。ところが、ちっともおもしろくない。それは少しも自由に動かない。そのことが直ぐ兄に知られて、兄は、即座に父親に告げ口をし私はひどく叱られました。次の日学校に行くと、その切手を売った友人を中心に、子どもたちが「ヤマユウは馬鹿だ、馬鹿だ」と笑っている。「あんなものと交換に切手を手放すなんて」、あの恥ずかしさは忘れることが出来ません。

 「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。」(27:9)主イエスが銀30枚、約5,000円に見積もられる。私たちは、主イエスとの関係において、本当にそういう間抜けの子どもと同じことをしてしまうことがあるのです。大切な宝を屑同然のものと交換してしまう。神の恵みよりもっと別のものが輝いて見えたからです。放蕩息子もユダもそうでした。

 しかし、そこでです。そこで、私はユダと放蕩息子を同じとするバッハの解釈は行き過ぎがあると思います。それは聖書的でない。何故なら、放蕩息子は全てを失った時、父の愛だけを頼りとしました。悔い改めたのです。しかしユダは悔い改めていません。「後悔」(27:3)しただけです。ユダは、とんでもない間違いを犯したと気づいた時に、その罪を自分で清算しようとしました。

 「『わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った。しかし祭司長たちは、『我々の知ったことではない。お前の問題だ』と言った。」(27:4)

 「お前の問題だ」、ここは、別の訳では「自分で始末するがよい」となっています。これこそ神を棄てた者が取る唯一の解決方法です。神を棄てる、イエスを棄てるとは、私たち人間が自分の力のみで、やっていくということです。その末路は、自分で自分の始末をつけることです。使徒パウロはこれを「律法主義」と呼びました。人間の力に全てはかかっている。自力だ、努力だ、根性だ。そう言われた時、使徒パウロはそうではない。主イエスは、自分で自分の始末がつけられない私たちの問題を担って下さったではないか「これこそ福音!」と宣べ伝えました。律法宗教の守護者・祭司長が「我々の知ったことではない」と言ったのは当然のことでした。しかし「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」(27:4)とおかしくなったように罪の告白するユダの前に、もしこの時祭司長に代わって主イエスがいて下さったのなら!、そう思います。祭司長は「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。しかし主ならばこう言われたことでしょう。「私は知っている。あなたの罪を知っている。それを私の問題にしよう。そのあなたには負いきれない重荷を、あなたに代わって、私が背負い始末をつけよう。今から、ゴルゴタで。」そう言って下さる神の言葉を、ここでユダが聴かなかったところに、実はユダの最大の過ちがあった。ユダの本当の問題は、主を裏切ったことにあったのでない。その罪の闇のただ中で、しかしそれを凌駕する神の光の言葉を聴かなかったところにあったのです。

 ここでユダは放蕩息子とはっきり違う。この両者は主を裏切った点で同じです。しかし結末はまるで違う。何故かというと、それはユダが、人生最大の危機の時(最大の危機とは、自分がどうしようもない存在だということを知る時です。自分が嫌で嫌でたまらない時です。あいつが悪いこいつがいけないなどと言っていられる内はまだ余裕がある)、神の言葉を聴かないで祭司長の言葉を聞いた、人間の言葉を聞いた。そこに彼の絶望が生じたのだと思う。一方、ペトロは、人生最大の危機の瞬間「イエスの言葉を思いだした」(26:75)とあります。ここで暗示されるのは、神の言葉を思いだした者は救われる、ということです。ペトロとユダ、最後にこの弟子たちの明暗を分けたのは、それは、ユダの方がより悪質であったなどということではない。神の言葉を聴いたか、聴かなかったかということ、つまり、神の憐れみにすがることができたか、あくまで人間だけで始末をつけようとしたのかにあった。

 何に絶望しても、このどうしようもない罪人に差し出される、神の恵みの光に望みを託すのです。それが出来たのが放蕩息子でありペトロでした。高橋三郎先生は使徒言行録の注解書の中でこう書きます。「ユダは、その全存在を挙げて、罪の実態を我々にさし示しつつ、死ぬなよ、絶望するな、主イエスのもとに立ち帰れと、地獄の底から叫んでいるのではあるまいか。」

 バッハのこの箇所におけるアリアの驚くべき明るさ。それは、このユダと紙一重の所で、神と出会わせて頂いたが故に「主イエスを返して頂いた私たち」の、幸いを喜ぶ、歓喜の歌なのかもしれません。


 祈りましょう。  主よ。挫折しても、失敗しても、そこですら、自分の力だけで、始末を付けようとする、私たちです。どうかこのような私たちの高慢を打ち砕いて下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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