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2012年 3月11日 主日礼拝説教 「キリストの僕・使徒パウロ -再び3月11日を迎えて-」

2012年3月11日 主日礼拝説教「キリストの僕・使徒パウロ-再び3月11日を迎えて-」

  説教者 山本 裕司 牧師
  (ローマの信徒への手紙 1:1~3a)


「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。」 (ローマの信徒への手紙 1:1~3a)


 今朝、2012年3月11日からローマの信徒への手紙を、毎主日、読んでいくこととなりました。この手紙は本当に素晴らしいものです。それはここを読み始めて直ぐ「福音」(1:1,2)という言葉が目に飛び込んでくるところからも直感されます。「福音」とは、以下の旧約の言葉にその源流があると教えられました。「いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」(イザヤ52:7)

 この第2イザヤの言う「良い知らせ」こそ、パウロが「神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもの」(ローマ1:2)と明言した「福音」のことです。その知らせが来れば人生が変わる。望みの扉が開く。そういう良い知らせが、この世の中には存在します。その内容を、パウロは「御子に関するもの」(1:3)と言い換えました。これは誰にでも差別なく伝えられる知らせです。いえ、むしろ、この世の良い知らせがとうとう来なかったと悲しむ人にこそ、思いがけず予想に反して届く、天からの手紙です。だからこそ、それは益々福音なのです。

 イザヤの時代はイスラエルが戦争に負けて半世紀が過ぎた頃です。約50年前、多くの民が捕えられ異郷の地バビロンに連行された。それは、国家崩壊の大惨事でした。もはや2度と良い知らせは我々には届かないと予想された破局の時代です。私たちは、丁度一年前の3月11日、これと近似の経験をしました。大震災による避難者数は34万人、福島第一原発事故による避難者は16万人以上です。原発20キロ圏内とその周辺は殆ど無人地帯となりました。これらの人々はまさに、現代のバビロン捕囚を経験をしているのです。

 立ち入り禁止とされた双葉町から、熊本に避難したある老夫妻の生活は3月11日以来、一変しました。それまでは畑でとれた野菜や山菜を食べ、サケの腹を割いてイクラの塩漬けを作った。自宅から原発までは僅か5キロだが、3月11日以前に不安に思ったことはなかった。東電も県も「絶対安全」と言っていたからです。地震の翌日長女が「トウデンが危険だから逃げろ」と連絡してきた。「どうせ1、2日だろう」と車に乗り込んだ。しかし放射能汚染の広がりで古里の状況は急速に悪化し、ついに熊本への避難を決意した。それから1年を迎えるが、遠く離れた古里のことが気にかかる。震災後1度帰宅したが、自宅は空き巣に遭い、現金や衣類などが盗まれていた。残してきた飼い猫はいつも一緒に寝ていた妻の布団にくるまるようにして餓死していた。荒れ放題の田畑を考えると気が沈む。いつまで続くか分からない異郷での暮らしはストレスがたまる。そう言うのです。この人々にもし「放射能がなくなったので、さあ、古里双葉に帰りましょう」という知らせが入ったとしたら、それは歓喜の福音です。それと似て、イザヤは捕囚から我らは解放される、故郷シオンに帰る日が来る、バビロンから解き放たれるのだ。そう伝える伝令の登場を預言するのです。

 「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、―」(ローマ1:1)、その預言者の約束が今こそ実現します。その福音のための使徒(伝令)に私が選び出され召されましたと、パウロはこれもまた歓喜の中で挨拶します。この春、恋人からのメールがとうとうなかった少女にも、合格通知が来なかった若者にも、災害から避難し遠き古里を涙ながらに思う人にも、その人たちにこそ先ず届く良い知らせを今送ります。神からのラブレターをと、それが、使徒パウロの手紙なのです。

 パウロの自己紹介は先ず「キリスト・イエスの僕」という言葉から始まります。この「僕」という字は「奴隷」という言葉です。これは矛盾なのではないかと思われるかもしれません。さっき言ったではないか、福音とは捕囚からの自由解放、囚われの世界から解き放たれることではないかと。しかし先のイザヤの預言の中に「あなたの神は王となられた、と/シオンに向かって呼ばわる」(52:7)ともあります。神が私たちの王となられる。それこそが福音なのです。私たちが真の王・神に支配されることこそ、私たちが真の意味で自由になる道だと聖書は言うのです。そこで、義なる王、憐れみに富む神に忠実な「主の僕」(第2イザヤに現れる不思議な救い主)こそ福音の伝令になることが出来る。彼こそが「傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする」(イザヤ42:3)と言われるのです。そこに故郷喪失者への正義と愛の眼差しが注がれるのです。この「主の僕」こそ新約の信仰では、まさにパウロの言った「福音そのもの」御子のことなのであります。

 本日の3・11を迎えるにあたって『原発とキリスト教』(新教出版社)という24人のキリスト者が原発問題を論じた一冊を読みました。私はある頁まで読み進めて衝撃を受けました。それは「八幡浜・原発から子どもを守る女の会」代表・斉間淳子さんの書かれた「伊方原発の地元で神を呼び求める」との文によってです。四国・八幡浜市の西10キロに伊方町があり四国電力の原発3基が稼働していました。斉間さんは1988年の出力調整実験から反原発運動を始めます。確かに原発交付金によって道路や港は整備され立派な建物が建設された。しかしそれらの施設を維持するために再び原発を誘致する他はない程町は疲弊していく。「原発マネー」によって、故郷のに生きる素朴な人々の心が崩壊していく様を彼女は見ました。人々は、先祖代々の土地と海を四電に売り渡しました。突然舞い込んだ大金で村中が疑心暗鬼になり、家族間での争いや自殺者も何人も出ました。斉間さんは自分の属する八幡浜教会に署名用紙やポスターを持って行きました。しかし教会の反応は複雑だった。その地域は四国教区南予分区というとても貧しい地域で、15の教会、伝道所があり、自立している教会は数カ所に過ぎません。他は全て教区から互助を受けている。その中で八幡浜教会は例外的に大きな幼稚園を持っており、そこに通う子どものたちの中には四国電力の社員の子どもが多かったのです。教会役員には、四電八幡浜支店の所長もいた。小さな教会が存続するためには、四電社員が教会を嫌うようなことは避けなければなりません。ここでも経済が優先されたのだ、と斉間さんは書くのです。そのような中で、南予の教会の牧師たちは「原発問題にかかわらない」という取り決めをしたと言うのです。私が本当にショックを受けた言葉は、ここです。

 私はその頃、伊方原発から30キロ圏内に立つ大洲教会の牧師でした。当時私は神学校で教えられた通り牧師の使命は教会形成のみと覚え、教会の内に閉じ籠もり、世の人々の悩みに鈍感でした。しかしかろうじて斉間さんの運動には献金を送り、また広瀬隆氏などの講演会に出席し、原発に対する危機意識を持っていました。当時、南予の牧師たちが原発問題にかかわらないと取り決めをした記憶はありません。だから私が東京に来てからそうなったのでしょうか。しかし、斉間さんは、そのような南予の教会に対する鋭い問いの中で、なお「それでも私は神に叫び求める」と言って、信仰を守り通しました。やがて南予の三瓶教会に導かれ一緒に戦ってきた夫が受洗します。教会に対して不満をもっていた夫が、神様の遠大な御計画と御旨を感じることが出来たのです、と最後に斉間さんは証しました。私はこのように教会を問い、それでもなお、神に向かって叫び求める魂に少しでも寄り添ってきたのか、深く悔い改めざるを得ないのです。主の僕は、傷ついた葦、消えかかっている蝋燭のような、弱くされている人たちに、福音を告げる。それは御子イエスの伝道に現れるあり方です。伊方も福島も、原発が来て本当に喜んでいる町村民はいないと思います。過疎化に歯止めをかけたい、財政を安定させたいとの一念で、危険施設の受け入れを決意したのではないでしょうか。そのために先祖伝来の美しい古里を失い、弱い人々が益々弱くされている、そのような状況が、原発だけでなく全く同じ構造において沖縄の米軍基地問題にもあります。

 しかしそこで、主の僕は、そのような弱い人をじっと見つめています。傷ついた葦を折ることなく、消えかかっている灯心を消すことはありません。そして福音の伝令は告げる。あなたたちが、巨大な悪しき力から解放される時が来ると、故郷に帰る日が来る、と希望を約束するのです。
 私たちこそ弱い人々と連帯出来ない自己中心の罪の奴隷状態です。そのために実は自分自身がその深いところで最も傷ついているのです。罪人である私たちこそが、傷ついた葦であり、消えかかっている灯心です。それが故に神の国という故郷を喪失している私たちに、キリストの僕たる使徒パウロは、実はイエス・キリストこそが、イザヤが預言した「苦難の僕」その方なのだと、その十字架の死の贖いによって、あなた方は罪の奴隷状態から解放される、そして真の故郷である神の国に帰ることが出来ると、福音を宣べ伝える。そのように福音を知らされた者は、押し出されて、自分もまた僕となり伝令となる。パウロがそうでした。教会は、傷ついた葦の如き隣人、希望の灯火が消えかかっている隣人に、手を差し伸べ、解放の福音を告げる使徒となることが求められています。私たちを縛り上げている呪縛があります。罪の呪縛とは私たちの魂の中にあると同時に「社会構造的罪」が存在するのです。その両者の罪と私たちは十字架の御力をもって戦う僕となることが求められています。その使命に生きる教会へと成長することを、今朝、あの3・11より一年を迎えた礼拝における志としたい、そのように祈り願いましょう。


 主なる神よ、あなたが、御子イエスを福音そのものとして、与えて下さった恵みに感謝を致します。御子によって罪の奴隷状態から救われた者として、私たちもまたあなたの僕となり、伝令となって、福音を宣べ伝え、内なる罪、この世の罪と戦う者とならせて下さい。そのために聖霊を注いで下さい。どうか主よ、被災者の人々、寄留の民となった人々を特別に顧みて下さい。罪に傷つき疲れ果てた日本に、どうか平和を与えて下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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