2012年1月1日 主日礼拝説教 「全地よ、御前に沈黙せよ」

  説教者 山本 裕司 牧師
  マタイによる福音書 26:62~63



そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」イエスは黙り続けておられた。 (マタイによる福音書 26:62~63)


 この2012年元日に与えられた御言葉は、マタイ26:57以下に記される、主イエスのユダヤ最高法院(サンヒドリン)における裁判の記事です。最高法院議員は全員、イエスを「死刑」にしようと最初から決めていたと福音書には記されています(26:59)。その結論に導くために、あえて、偽証人を選んで宗教裁判を開催するのです。なかなか決め手がない中で、最後に2人の証人が現れて61節「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」(26:61)と証言しました。神殿冒涜罪、かつて日本に存在していた言い方では「不敬罪」ということでしょう。しかし御子が父に不敬を犯すなどということは考えることも出来ないのです。福音書記者は、不敬罪だと詰め寄る大祭司カイアファに対して、この受難の物語の中で断固「違う!」と答えようとしているのです。しかし、大声を上げる大祭司たちに対して、主イエスは何もお答えになりません。大祭司は苛立って「何も答えないのか」(26:62)と迫りますが、主は黙り続けられました。キリストがここで「沈黙」しておられる姿をもって、福音書記者は、御子イエスの父なる神に対する明瞭なる「敬意」を言い表そうとしていると確信します。つまり、このお方こそ、このサンヒドリンの中で唯一、神を「敬っている」御存在なのだと、言おうとしているのです。

 バッハは、大変興味深いことを『受難曲』の中でしています。イエスが偽証に対して沈黙されている場面に挿入されるテノール、この曲は器楽の奏する和音の数が39であることを磯山先生は指摘します。その意味は、旧約聖書の詩編第39編を指し示していると言うのです。先ほど交唱致しました39編に「沈黙する詩人」の決意が歌われていました。「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。わたしの口にくつわをはめておこう。」(39:2)さらに10節に現れる詩人の沈黙の心とは、神に一切を委ねる思いです。「わたしは黙し、口を開きません。あなたが計らってくださるでしょう。」バッハは、この詩編39編をこの主の裁判の音楽の中に密かに縫い込み「沈黙の意義」を解き明かそうとするのです。沈黙こそ神を敬う心、沈黙こそ神の主権に対する人間の服従を現すこの上なき「信仰告白」と。「イエスは黙り続けておられた」(マタイ26:63a)、この主イエスの沈黙もまた、受難曲は、続くアリアで表現しようとします。「耐え忍ぼう」と歌う前後の通奏低音は、印象深いスラーが多用されます。それはスラーの原義が「結ぶ」であることから、口を固く結ぶ沈黙を表現していると言われるのです。

 私はこういう受難曲の裁判の場面を、大晦日に、時を忘れて繰り返し聴きましたが、ある時、止め忘れていたら、暫くして、あの、あまりにも切ない、主を否認したペトロの心を歌った、泣くようなアリアが流れてきました。私はその瞬間、3・11以来、心から決して離れることがなかった、旧ソ連の監督タルコフスキーの『サクリファイス』のイメージに再び捕らえられしまうのです。そして何と申しましょうか。この受難物語を同じく題材にして描く、この2人の天才芸術家が何と共通した思いをもって、この受難物語を解釈しているのか。改めて驚嘆するような思いに駆られるのです。

 『サクリファイス』、この信仰の物語も「沈黙」いうモチーフが非常に重要な鍵となっているのです。全面核戦争によって世界が破滅を迎えようとした時、老教授アレクサンデルが示しを受け、自らを犠牲にして世界を救うという物語。その場面の中でも特に印象深いのは、自らを犠牲にするために魔女と思われる家に、真夜中向かう老教授の孤独な姿です。彼は途中、自らの行おうとしていることの異常さに気づき、荒涼とした白夜の草原で躊躇逡巡する。この時映画では、真に謎めいた神秘的な「音」が響き始めるのです。音楽とも、叫び声ともつかない、高い、抑揚ある何かを呼ぶような響き。それはラスト、羊飼いが草原の羊たちを制御するための呼び声らしいことが分かる。その発見をもってこの映画を見直しますと、老教授アレクサンデルは、羊であり、羊飼いである「神の言葉」に呼び出され、励まされ、あるいは叱りつけられながら、救済という目的を達成していくという筋書きが隠されていることが浮かび上がってきます。つまり、タルコフスキーはここで、人の雄弁によって世界は破滅に向かう。そうではなく、人は「屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように」(イザヤ53:7)口を開くことなく、羊飼いの発する呼び声にのみ聴き従う時、命の希望が生まれる。世界は破局から救われるであろう。そう言うのです。

 西片町教会の礼拝招詞で、以前度々用いられたのは、旧約聖書ハバクク書2:20の言葉です。「主は、その聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。」具体的に言っても、会衆が沈黙しなければ礼拝を始めることは出来ません。沈黙し静まる時だけ、神の言葉が聴こえてくるからです。

 主イエスの十字架には人の罪が凝縮しています。この法廷では、特に、雄弁の罪です。次々に偽証する者が立ち現れ、大祭司は口角沫を飛ばし、人々は「死刑にすべきだ」(26:66)と叫びました。特に偽証人の箇所に「2人」(26:60)とありますが、それは裁判において、2人が同じ証言をしなければ、容疑者を死罪に定められないとする慎重なユダヤ法規に乗っ取った記述です。「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」(26:61)、『マタイ受難曲』では、この箇所が大変興味深く作曲されます。磯山先生によると、2人の証人は、アルトとテノールですが、テノールがオクターブ上の高音域を歌って、無理に高いアルトと同じ音域を取ろうとする。それで、両者が、苦しい口裏合わせをしていることが暴露されるのです。その最後の言葉の高音では、アルトとテノールがどうしても合わず半音狂い、それに続く通奏低音の後奏が、階段を踏み外したような、ちぐはぐなほころびを響かせて終わる。雄弁の虚無、雄弁の罪です。しかし、思いもかけないことですが、その人の罪が結集した十字架が同時に、同じ罪人を救う「神の意志」になりました。だから主イエスは老教授アレクサンデル同様、沈黙し、神の小羊として羊飼いに抗うことはありませんでした。その沈黙から噴出する救済がこの世を覆い包むからであります。

 人はその神の御心一つ知ることなく、知ろうともせず、自らの殺意のままに「死刑にせよ」と叫び、イエスの顔につばきをかけ、拳で殴り、平手で打ちました。そして問います。「メシア、お前を殴ったのは誰か。言い当ててみろ。」(26:68)、これはもし本当にお前がキリストなら、今叩いている者の名が分かるはずだ、という奇跡的なメシアの力を見せてみろという嘲りの言葉です。そう歌われた瞬間、受難曲ではコラールが遮るように介入する。そのコラールは、これもまた思いもかけないのですが、その嘲りの言葉と全く同じ言葉をもって始まります。「殴ったのは誰なのですか」と。しかし、それは、既にイエスを罵る言葉ではありません。それは方向をくるっと変えて私たちに迫ってくる「問い」となるのです。殴ったのは誰なのか」、「日本を破滅の淵に立たせたのは誰か」、「御子イエスを十字架につけたのは誰だ!」

 それは妬みの虜大祭司カイアファです。カリスマ・イエスを大祭司は妬み(マタイ27:18)、抹殺しました。大祭司は、例え伝道が進まなくても、ライバルが失脚し、自分のプライドが守られることの方が大事だったのです。

 「誰が十字架につけたのですか」、それは自分の義を確信するファリサイ派の人々です。自らの古い義の尺度が絶対で、新しい真理の到来を認めることが出来ません。

 それはローマ総督ピラトです。彼は主の無罪を承知しながら、神より人を恐れました。沈黙して神の言葉に聴かねばならなかったのに、人の大声と脅迫に負けて日和見、死刑の判決を下しました。

 それは裏切り者のユダです。性急な武力革命によってユダヤ問題を一気に解決しようとしましたが、それに反する神の言葉には耳を塞ぎ、主を敵に売り渡してしまうのです。

 それは弟子のペトロです。キリストにどこまでも従うと誓いながら、自分に危険が迫るとイエスなど知らないと否認します。結局はイエス様より自分が可愛かったのです。

 それは無責任な民衆です。扇動者に乗せられ、ムードに流され、多数派の中に身をおく心地よさに安住し「十字架につけよ」と叫びました。

 それは権力のロボット、ローマの兵士です。ゲツセマネで捕らえよと言われれば、疑問をもたず神の子を捕らえ、殺せと命じられれば、無表情に十字架につけました。ローマ皇帝に対する思考停止の忠誠心が罪を犯させました。

 バッハは『受難曲』で訴えます。「それは私だ」(讃美歌21-295参照)と。「最後の晩餐」の箇所で、バッハは「この中の誰かが裏切る」と預言する主の言葉に、ユダを除く弟子全員11人に次々に「まさか私のことでは」と問わせている。それはユダだけでなく全ての者が主を裏切る可能性のあることを示しています。その直後、バッハはパウルゲルハルトのコラールを置きました。「それは私です。罰せられるべき者は、この私なのです。」この同じゲルハルトのコラールをバッハは、もう一度『受難曲』の中で用います。それこそ今朝の「イエス様、あなたを殴ったのは誰ですか?」そう歌うコラールです。バッハ何が言いたいのか、明らかです。「殴ったのは誰か」「それは私です。主を十字架につけたのは私です」、そうここで、バッハはもう一度ゲルハルトの曲を引用して、私たちに罪を告白させるのです。では罪を犯した私たちに希望はもはやないのでしょうか。

 『サクリファイス』のラスト、枯れ木に子どもが再生を信じて水を注ぐ美しいシーンがあります。それは、あの陸前高田の海岸に一本だけ残り、しかしやがて茶色く枯れ果てた「奇跡の松」を思い出させるのです。その浮かび上がるイメージの中で気づいたことは、もしかしたらタルコフスキーはこのラストを「十字架伝説」からイメージしたのではないかということです。キリストを十字架につけた、木の物語です。この木は元々エデンの園に生えていた。それは原罪への誘惑の木です。最初の人間アダムとエバがこの禁断の実を食べたために、楽園はこの地上から失われ、この木もやがて枯れました。長き流転の後、地に埋もれていたこの「死の木」こそ、主の十字架につける木材と選ばれる。全ての人間の魂を干からびさせ、その罪の故に、自らも枯れ木になってしまった木。それはゴルゴタの丘に再び立てられました。キリストがその木につけられる。キリストの体から血が流れる。十字架の木に主の血潮が滴り、流れ下り、樹皮を赤く染めていく。その時、奇跡が起こるのです。枝が甦り、そこに若葉が芽吹き始める。そして果実が実る。その果実は、禁断の実ではもはやない。そこには、キリストの救いの生涯の出来事を表す、神秘的果実が実ったというのです。

 主を十字架につけたために、2011年、原罪の木のように干からびてしまった私たちに、主は御血潮を注いで下さる。その時、私たちは、春を迎えた木々のように、命の芽吹きを体験することが出来るでしょう。主はそうやって、自らの命を注ぎ出して、私たちを、私たちの日本を、この2012年、アダムの原罪より救い、甦らせて下さるのです。

 祈りましょう。 主よ、語るに早く、聞くに遅き、私たちを憐れんで下さい。愚かな私たちのために、この世界でただお一人、沈黙に耐えて下さった御子を、クリスマスの夜私たちに与えて下さった恵みに感謝します。今から与る2012年最初の主の食卓において、その沈黙から注ぎ出された、唯一無比の主の御血潮を与えられることによって、これまで犯してきた、私たちの滅びを呼び起こす罪を、とりわけ雄弁の罪を、贖い、洗い流して下さり、この2012年の新春、命の再生の希望を、抱く者とならせて下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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