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2011年11月27日 主日礼拝説教 「待つことに耐える -アドヴェントに寄せて-」

2011年11月27日 主日礼拝説教 「待つことに耐える -アドヴェントに寄せて-」

  説教者 山本 裕司 牧師
  マタイによる福音書26:14~25

 今朝、教会歴におけるアドヴェントを迎え、典礼色もレントと共通の紫となったこの時、この紫の季節に相応しい、主イエスの御受難の物語を読むこととなりました。今朝は12人弟子の一人イスカリオテのユダが、主イエスを裏切る場面にさしかかりました。ユダが何故主イエスを裏切ったのか、その理由の一つにこういう説明があります。イスカリオテとはギリシャ語のシッカリに由来する言葉で、意味は「刺客」(暗殺者)だそうです。当時ユダヤはローマ帝国に支配されていました。異教徒ローマ人によってユダヤ独自の経済も宗教も歪められていました。そのローマを追放するために、愛国主義的な過激派が存在しており、まさに国名を自らの名とするユダは関係していたという説です。イエスを神様から遣わされた解放闘争の指導者に祭り上げ、ローマに反乱を起こし駆逐する。そうやって一日も早くユダヤに神の国を出現させるのだ、との思いです。その解釈からすると、先週読みました弟子たちの言葉、香油を「高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」(26:9)、この「貧しい人々」とは単に貧乏ということでなくて、ローマによって搾取されたり、獄に入れられた同胞のことであったかもしれません。その金があったら武装することが出来る。その金で活動家を養うことが出来る。反ローマ戦争を起こすことが出来る。実際、この「なぜ、こんな無駄遣いをするのか」(26:8)と言ったのは、ヨハネ福音書12:4では、ユダとその名が特定されています。「今こそ、先生が立って下されば。」そういう強い期待があった。ところが主イエスは弟子たちをたしなめ、香油をみな主の頭に注いでしまった女のしたことをお褒めになられました(26:13)。この直後、ユダは裏切りを決意したと福音書は強調するのです。この世の革命のために役立たなくなった男を、銀30枚に換える。まだしもこれでイエスよ、お前はユダヤの役にたつのだと考えたのかもしれない。ユダが弟子集団の会計係であったことは暗示的です。金の力を彼は知り尽くしていたのではないか。金で人の心を買える。金で国を動かすことが出来る。いたずらに待つ必要はない。金の力で、今、直ぐ、救いが成就するのだ。その信念からイエスを金と交換したのかもしれません。

 思い返せば、私たちは、マタイ24章から始まる「終末」についての御言葉を何度もここで読んできました。それを思い出しても、終わりの日に来る救いを、せっかちに求めてはならないというメッセージが随所にあります。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(24.:13)とか、あるいは、おそらく性急な救いを約束するのでしょう、偽メシア、偽預言者の所に行ってはならない(24:26)と戒められます。譬えでも、主人の帰りが遅い(24:48)、「花婿が来るのが遅れた」(25:5)と、歓喜の日が来るまで長くかかっても「目を覚まし」(24:42)、忍耐して待つことが求められています。ユダはそうでなく、今、直ぐ、解決が欲しかったのです。

 こういう気の短さは現在でも共産主義の過激派やカルトによく見られます。カルト問題に取り組んでこられた元東北学院大学の浅見定雄先生は、現在の日本人、特に若者たちはどうしてカルトに弱いのか、との問いにこう答えられました。この世は問題に満ちている。大学に入っても直ぐに役に立ちそうもない授業ばかりで虚しい。就職しても職場は矛盾だらけだ。その上、自分が好きになれない。それで性格を良くしよと努力しても、直ぐに変われるものではなりません。天災や環境問題、際限なき犯罪や不正、紛争や飢え…世界はどうなるだろうと、真面目な青年ほど悩むのです。しかしそこで、あと数年で新天新地が到来するなどと訴えるカルトにつけ込まれる弱さとどこから来るのかと言うと、浅見先生はこう分析されます。
「①そういう問題のある自分や世界に『耐える』力が弱い。
②自分や世界を肯定出来るようにするために、今すぐ問題の全面的解決を見たいという衝動にかられている。」
この二つの気短さが問題だと言われ、先生は続けられます。「歴史の途上にあるこの世界を、その問題性にもかかわらず敢えて肯定する。その『肯定』の上に立って、問題の最終的解決を将来に待ちながら、今を精一杯に生きることが求められている。」(『新宗教と日本人』)

 直ちに解決したいという性急さは、私たちにも身に覚えがあります。私たちにとって主を裏切ることの一つの姿は、理由なく教会を止めることです。その理由は多くの場合、私たちの短気にあります。教会もまた様々な問題を持っています。何故、この教会は理想とかけ離れているのか、と悩むのです。教会に少し長く来ていると最初の頃は見えなかった欠点が見えてくる。そして正義感(自前の信仰)から、これは許すことが出来ないという思いにかられる。その時、耐える力、待つ力がないと私たちは何もかも投げ出してしまったり、破壊的なことをするのです。

 そのような時、私たちは先達から学ばねばなりません。今、教会は高齢化していると、時々、マイナスのように言われます。しかし私は、若い時に洗礼を受けて以来、数十年間、(その間、いろいろと嫌なこともあったろうと拝察しますが)、力尽きるまで、毎週礼拝に来られる兄姉のお姿を見て、あるいは足が弱り、礼拝に来ることが出来なくなっても、なお教会を愛し、慕い続けおられる姉妹方を見て、これこそ西片町教会会員だと誇ります。ICUの森本あんり先生は、まともな宗教の見分け方として「その集団の中に、長い間その信仰を持ち続けたお年寄りがいるかどうか」を目印としたら、と書いています。カルト的な極端な信仰を何十年ともち続けていくことは困難です。その信仰や教えが、長年の風雪に耐える力を提供出来るかどうか、人生の危機に際してばかりでなく、落ち着いた平時の指針となるかどうか、それを判断の基準とするのです。「そういうお年寄りが多ければ安心です。逆に、若い人たちばかりが集まっている場合は注意した方がいい」そう言うのです。そうであれば、教会の高齢化こそ、教会がカルトではない証拠であって、それを残念がる理由はなく、若い人たちにとってもその集会は安心なのです。

 ユダが、主イエスと引き替えに得た金は「銀貨30枚」(26:15)でした。この価値が約4,500円との解説がありました。これはいったいどういうことでしょうか。これが主イエスの値打ちだと言うのでしょうか。もう一つ、主イエスの値打ちを現した人がいます。これが先ほども言いました、高価の香油を主にみな注ぎかけてしまった女です。この香油の値段は他の福音書では300デナリオンと記されています。注解には1,000万円くらいと書いてありました。勿論この値段もものの例えであって、この女にとって主イエスは無限の価値を持っているということです。それを見て弟子たちは「無駄使い」(26:8)と憤慨した。その弟子たちの思いを、まさに代表する仕方で、今度は女に代わって、ユダが主イエスに値段をつけたのです。それは4,500円だったと言うのです。

 昨夜再び、バッハの「マタイ受難曲」を聴きました。主イエスの御言葉はバスで歌われます。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」(26:21)それを受けて、弟子たちの合唱が始まります。それは「主よ、私ですか」(26:22)という問いです。その言葉が何重にも重なり合いながら繰り返される。それは男声が11回、女声が11回です。裏切り者が自分であることを知っているユダを除いて、残りの11人が問うのです。その意味は「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切る」(26:21)と預言された時、弟子たちの心の中に例外なく不安が広がったのです。「私は裏切らない」と断言出来た者は一人もいなかった。つまりバッハは、裏切ったのはユダだけじゃないと言うのです。だから「主よ、私ですか」との問いの直後「それは私です」と答えるパウル・ゲルハルトのコラール(讃美歌21-295)を置きます。ユダだけでない。私たちが例外なく、主の値打ちを軽んじる涜神の罪を犯したのだと、歌われるのです。

 どうしてそんなことをしたのか。神が目に見えないからでしょうか。だから、金に代表される目に見える力を求める、その自分の本音を知る時、私たちは自分で自分の信仰に絶望するのです。世の中の矛盾に我慢出来ても、隣人の愚かさに耐えることが出来ても、自分が主を裏切ったことは私たちにはどうしても許すことは出来ないのではないでしょうか。ユダはこの裏切りの後、自殺しました(27:5)。理想主義の彼は、世の中だけじゃない、主を金に替えた自分の醜さをどうしても許すことが出来なかった。そして私は思います。ユダの本当の取り返しのつかない罪とは、主イエスを裏切った性急さにあったのではない。そうではなくて、自殺という第2の性急さの罪を犯したことだと思います。自殺を特別の罪と考えるのは間違っています。鬱病など心の病による自死は罪ではありません。その他の自殺も、私たちが日々犯す罪と同じ一つの罪に過ぎません。それは性急さの罪です。性急に自分に絶望することです。自分の命の値打ちを忘れたのです。4,500円くらいに思ったのでしょうか。「明日、運動会をするなら自殺する」と学校に電話した中学生がいました。何ということでしょうか。自分の命の値高きことを知らないからそんなことが言える。

 人ごとではない。私は深い迷いの中にあった若い頃、どれほど短気であったか(今もそうかもしれません…、かように人は変わりません)、遅々として進歩しない世の中にも自分にも嫌気がさして「もうどうにでもなれ」と思い、それこそ自殺の誘惑にかられた時、それでも礼拝に行って聴いた説教を今でも覚えています。牧師はこう言われた。「私たちは、主イエス・キリストが命をもって贖われるほどの値打ちをもつ」と。主イエスがご自身の命の代価を払って買い戻して下さったのが私たちの命、主はそれほど私たちの命を値高きものと量って下さった。そこことを知る時、私たちは、問題に満ちた自分であることを承知の上で、それに耐える根拠を得るのではないか。主はその愛の思いの中で、私たちの十字架について、罪を赦して下さった。だから私たちも自分を赦すことが出来る。主の恵みは、どんな人間の罪にも負けない。その勝利をユダはもう少し待ってばよかった。たった3日です。そうすれば、主イエスが罪と死に勝利される復活の朝をユダは迎えることが出来た。ペトロもイエス様を否認するやはり同じ裏切りの罪を犯しているのです。しかしペトロがユダと違ったのは、ペトロは、その計り知れない自己嫌悪に耐えて、復活の朝を待つことが出来たことです。ユダはその前に自分を諦めてしまった。そこが違うだけです。

 今、この世を嫌悪し、宗教を嫌悪し、隣人を嫌悪し、自分を嫌悪し、もう我慢がならないと、破壊衝動に身を震わせている方もここにおられるかもしれません。しかし、救い主は御来臨下さいます。主がそう約束して下さったのです。その希望の故に、その日を諦めずに待ち望みつつ、今を共に耐え忍ぼうではありませんか。


 祈りましょう。 主よ、直ぐ、御子の値打ちがよく分からなくなる本当に愚かな者です。そこから生じる気短な思いが、御子を十字架につけた最大の理由だということを思い、悔い改め、諦めず、救い主を待ち望む、アドヴェントの一月として下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988



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