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2011年10月30日 主日礼拝説教 「灯掲げて花婿を迎え」

2011年10月30日 主日礼拝説教 「灯掲げて花婿を迎え」

  説教者 山本 裕司 牧師
  マタイによる福音書 25:1~2



「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。」 (マタイによる福音書 25:1~2)


 教会暦は、これまで長く過ごしてきた聖霊降臨節が終わり、先週より9主日を数える「降誕前」となりました。アドヴェントに至るこの期節はクリスマスの準備をすると共に、再び来ると約束して下さった再臨のキリストを待ち望む時です。この時、続けて読んできたマタイ福音書も「再臨」を主題とする、特に今朝はその中の一つ「10人の乙女」の物語に差し掛かったことに、主の奇しき導きを感じます。

 当時、婚宴は夜開かれたようです。婚礼の客は、花婿が来るのを待ちます。花婿が到着すると、灯を明るく点して歓迎します。ここに登場します10人の乙女とは、その灯を掲げて、周囲を照らす役割をもっていたようです。その乙女たちが行進すると、闇の中を光がキラキラ移動していったに違いない。それは結婚式のクライマックスとも言える一際美しい場面だったと思います。しかし、何故か、この譬には花嫁は登場しません。それはこの乙女たちが花嫁の待つ心を代表しているからだと思います。

 今から20年以上前ですが、この季節になると、毎年、JR東海のX'mas ExpressのCMがテレビに流れました。それを昨夜、ユーチューブで全6作品(その中で一番お気に入りは、牧瀬里穂ちゃんの…)見ましたが、その僅か1分のCMに凝縮されるのも乙女の切ない待つ心です。遠距離恋愛の少女が、新幹線ホームでクリスマス・エクスプレスに乗ってくる(はずの)彼を待つ。その時流れ始めるのが山下達郎です。「雨は夜更け過ぎに雪へと変わるだろう Silent night ,Holy night, きっと君は来ない、ひとりきりのクリスマス・イブ、Silent night ,Holy night…」、携帯もメールもない時代でした。その時、待つというのは、それだけで戦いだったと思います。いえ、今もそうでしょう。待ち合わせの時間になっても彼が来ない。背伸びして見渡してみます。彼が向こうから走って来るような気がする。しかし目の錯覚。また時計を見ます。ふと目を上げて、似た人に思わず手を振りそうになる。しかしただ見知らぬ人が通り過ぎていくだけ。そうやってクリスマス・イブの夜は更ける。もう来ないんじゃないかと思い始める。人通りも絶えた道に、自分だけが立ち尽くす。その時、誰かが声をかけてくるのです。寂しそうにしている女の子を狙う男はどこにでもいる。物陰からじっと様子を窺っていたのです。そして頃合いを見計らって誘惑する。「ひとり?」と。既に私たちは学んできました。この終末の時は「偽メシア、偽預言者」が活躍する時だと。しかし、主イエスは断固して言われます。「偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとする…だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。」(マタイ24:24~26)

 待ち続ける「乙女」、この元のギリシャ語はっきり「処女」という言葉です。先に触れましたように、単なる付添人ではありません。主イエスのイメージは、この待つ乙女たちと純白の花嫁の心は一つです。だからよその男になびいてはならない。どんなに寂しくても。どんなに夜の闇が深くても。純潔を、最愛の、唯一の、そして必ず来ると約束して下さった気高い花婿に献げるために。その乙女たちとは私たち教会のことです。日が短くなったこの暗い季節、花婿イエスの来臨を花嫁である教会は一途に、待ち続けるのです。

 クリスマスが近づきますと、山下達郎だけでなく、ヘンデルの「メサイア」が演奏されます。メサイアは現在クリスマスの曲と考えられますが、むしろ最初の意図はレント(受難節)のための作品でした。ですから第2部は延々と主の御苦しみが歌われます。彼は侮られ、人に捨てられ、悲しみの人で病を知っていた、と。聞いていると心は打ち沈んでくる。しかしその闇の力は、あの第2部の終わりに控えているキリストの勝利の賛歌・ハレルヤコーラスの光の中に一気に飲み込まれてしまう。そして第3部の主題は明らかに「再臨」です。「後の日に彼は必ず地に立ち給わん」とアリアが歌う。そして、ついにトランペットが高く奏でられるのです。「最後のラッパが鳴り響く時、我々はたちまちにして瞬く間に変えられる。死人は朽ちないものに甦る。この朽ちるものは朽ちざるものを着、この死すものは、死せざるものを着る!」、この永遠の命の歓喜の歌に一切が流れ込んでいく。待つ切なさも、孤独も、涙も、罪もそして死も。全ては輝ける喜びに覆い包まれてしまう。これが私たちに待っている将来なのだと、歌われる。福音書は「花婿だ。迎えに出なさい」(25:6)とラッパの音の如く告げます。終わりに来るのは葬式ではない。婚礼の宴だと花婿イエスはこの物語を通して約束して下さる。クリスマス・エクスプレスの不安に耐える少女が、最後には(お約束の)彼が現れた時、その顔が美しく輝くように、花婿イエスは私たちに約束して下さる。「私は来る」と、その光の希望が、私たちに今、待つ勇気を与え続けているのです。

 福音書に戻りますと、賢い乙女たちは油を用意していました。ところが愚かな乙女たちは、油が足りなかった。その時、花婿到着の声が屋敷に響く。さあ、灯を掲げて花婿を迎えようとした時、愚かな乙女は油がないのに気付きます。分けて下さい。それは駄目です。買いに行きなさい。そして5人の愚かな乙女たちが買いに出ている内に、花婿と賢い乙女たちは、婚宴会場に入ってしまった。そして、戸が閉められた、と言うのです。どんなに、開けて下さいと叩いても、主人の声が響くばかりである。「はっきり言っておく。私はお前たちを知らない。」(25:12)ここで多くの人が問うのです。何故、賢い乙女たちは油を分けてあげなかったのだろう、と。それに関して、私は森本あんり先生の書きました「使徒信条」の神学黙想を読み大変啓発されました。今朝も先ほど唱えました使徒信条では「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と始まりますが、原文のラテン語では「クレドー」という言葉で始められます。「われ信ず」という意味です。ところが他の信条は共通に「われわれは信ず」(一人称複数)と宣言されます。使徒信条だけが一人称単数で告白されるのです。森本先生がその理由を説明しています。使徒信条とは、教会が余裕のある中で聖書の教えを纏めたようなものではない。信仰の奥義を知った少数者たちの「合い言葉」のようにして成立した。激しい迫害の嵐が吹き荒れている時代であった。誰もキリストの救いを理解していない時代でした。森本先生ははっきり書いています。使徒信条は躓きに満ちている、と。古代人にとっても現代人にとっても躓きそのものだ、と。その時、信仰告白をするとは「他の誰も信じなくてもかまわない、私は信じる」という告白とならざるを得ないと言うのです。信仰において人は神の前の「単独者」として立つ。親も信じることが出来ない相手なのです。友達も躓く花婿なのです。あんな人のどこがいいのと言われる男です。イエス様は、誰もが一目で気に入る花婿ではなかった。私にしか分からない。他の人にはその良さ、美しさは分からない。だから信仰告白とは愛の告白です。私は愛する、他の誰もあなたを愛さなくても。少女が、寒風のプラットホームで、プレゼントを抱きしめて、独りで、クリスマス・エクスプレスを待つように。だから一人称単数です。純愛の油を分けることは出来ない。信仰の世界とはそういう世界なのです。

 しかしそこで、私たちが思うのは、自分はいったいどちらの乙女の側なのかということです。終末の時、賢い乙女として婚礼の席につくのか。それとも愚かな乙女として閉め出されてしまうのか。目を覚まし(25:13)続ける乙女となることが自分に果たして出来るのだろうかと訝ります。しかし、同時に主は、花婿が遅れた時に、乙女たちは居眠りをしたとも物語っています。愚かな乙女だけではありません。賢い乙女も眠ってしまったのです(25:5)。その点でこの両者は違いはないのです。注解者は説明します。当時の信仰者は、直ぐにキリストが再臨して終末が来ると思っていた。ところが、何年しても来ないのです。マタイ福音書が成立したのが紀元70年以後だと言われますから、主が昇天されてから、もう40年が経っている。終末遅延の問題です。そこで教会は、緊張し過ぎたら持たないことが分かってくる。だからと言って弛んで生きるのでもない。じゃどこで生きるのかと言われた時、マタイはこの主の譬を思い起こしたに違いありません。興奮状態で眠らないのはむしろ病的です。肩に力が入り過ぎると暴投します。それでは、やがて燃え尽きてしまうことでしょう。だから再臨が遅れた時に必要なのは、一つも眠らないことではなく、いつその瞬間が来てもいいように、油を備える、ということです。準備があるからこそゆっくり休めるという気持ちを私たちは知っています。四国にいた時、大変運転が上手な牧師がいました。私はよく乗せてもらいました。そんなに長く運転して疲れないですか、と聞くと、リラックスしてるから大丈夫と言うのです。ところが何かことがあると、とっさに無意識で危険を避けることが出来る。だからいくらでも安全に長距離運転が出来るのだそうです。主は、死ぬまで全力疾走しろと、カルトの教祖のようなことは言われません。眠ってもいい。しかし、どこかの神経は起きています。いや神経じゃない。信仰です。信仰は起きているのです。

 しかしそこで、ではその名ドライバーに似た、名人のような生き方が自分に出来るのかと私たちは、またしても不安を覚える。しかし「メサイア」に戻りますと、受難の曲の後に救いの歌がくる。その構造は主の十字架の御苦しみなしに、私たちに復活の希望も、終わりの歓喜もないとの意味です。私たちが終末の日に、キリストの花嫁として祝宴へと迎えられるのは、私たちが清いからではない。私たちは罪に汚れているのです。しかし、主は、十字架の恵みによって私たちの罪を贖って下さり、その罪の赦しの純白のウエディングドレスで、私たちの汚れを包んで下さる。私たちは、それを晴れ着と覚えて婚礼へと進み行くことが出来る。そのために、主は今、この婚礼の物語を語りながら、大変逆説的ですが、十字架の死に向けて進んで行かれるのです。

 バニヤンの『天路歴程』の中にこういう物語があります。キリスト者が解説者という名の者に手を引かれて、ある場所に連れて行かれます。そこは壁と向かい合わせに火が燃えている場所でした。そこでは一人の者が側に立って、火を消すために絶えず多くの水をかけていました。しかし火は益々高く燃え上がったのです。これはどうしたことでしょうと尋ねると、解説者はこう答えました。「この火は人の胸の中に行われる恵みの業です。それを消してしまおうと水をかける者は悪魔です。しかしそれにもかかわらず、火が益々高く熱く燃え上がる理由を見せましょうと言って、基督者を、壁の後ろ側に回らせました。そこには油の入った器を手に持った人が見えましたが、彼は絶えず油を火に注いでいるのです。そして解説者はその意味をこう説明しました。「これはキリストです。このキリストによって、人の魂は絶えず恵みを受けています。例え悪魔がどんなことをなし得たとしても。」

 油は絶えない。何故か。それは私たちの名人芸がなすのではない。夜も眠らない超人的力によってではない。キリストが自らの命を注ぎ出して私たちに密かに油を与え続けおられるのです。この油を備え続けることも私たちが自力でなせる業ではありません。天から油を注ぎ与えようとされる主に「はい」と器を掲げること。それが信仰告白です。ここに自分を生かす唯一の油がある。いつもそれを受け、魂の器を満たして頂こう。終わりの日まで。長い間に例え、誰が器を引っ込めてしまっても、誰が礼拝に来なくなっても、教会に残る者が、私一人だけになったとしても、私だけは器を高く上げて、灯火を点す終わりの日、歓喜の日を待とう、われ信ず。クレドー。誰が何と言おうとも。そういう神の前の「単独者」が集まって、私たち西片町教会が誕生したのです。


 祈りましょう。 神よ、御子の十字架から流れ下る恵みの油を受け、それを終わの日の備えと覚え、この期節、一途に再臨の主を待つ私、私たち、とならせて下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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