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2011年 7月 3日 主日礼拝説教 「哀しみと愛の葡萄園」

2011年7月3日 主日礼拝説教 「哀しみと愛の葡萄園」

  説教者 山本 裕司 牧師
  マタイによる福音書 21:28~39



「農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。」
(マタイによる福音書 21:28~39)


 人の話を聞くということは、時にとても退屈なことです。学校で先生が意味不明の講義をする。牧師が礼拝で難しい説教を始める。何気なく聞き始めるのです。そして、直ぐ飽きてしまって、頭がぼーっとしてくる。ウトウトし始めます。寝なくても、気持ちは、どこか遠くに飛んでいってしまう。しかしどんなに退屈な話であっても、人が突然耳をそばだてて聞き始める時があります。それは何気なく聞いていた話が、自分のことを指している、しかも鋭い批判であると気づいた時です。他の聴衆は相変わらず退屈だと思っているかもしれない。しかし言われてる本人は気付く。思い当たる。ああ、あの批判だ、と直感した時、その席で、もううかうかしていられなくなるのです。

 ある人が言っていました。教会の中に争いが起こった。それ以後牧師の礼拝説教がまるで自分を目指して語られているように聞こえ始めた。自分の悪口、皮肉を言っているように聞こえる。その時人は礼拝中居眠りすることは出来ない。牧師が個人攻撃を説教の名を借りてすることは許されません。しかし聖書を正しく読み説教を作った時、それが厳しい言葉になるということはあります。何故なら聖書そのものが、元々厳しいからです。それを水増しするわけにいかない。そして私たちが常に罪人であると言うならば、その罪を問う神の言葉が、毎回、自分に迫ってくるのは、説教においてむしろ当然のことと言わねばなりません。 今朝、私たちに与えられている主イエスの譬えは、まさにそういう聞く者が決して眠ることの出来ない説教であったのです。実際「祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき」(マタイ21:45)と書いてあります。そのように、自分の罪が指摘されていると悟った時、聴衆の心に湧き起こったものは何だったのか。「イエスを捕らえようとした」(21:46a)。そして殺すのです。そこに説教者への殺意が湧き起こったのです。そうであれば、説教者とは、人から喜ばれる存在である前に、憎まれる存在であるという面を、本来的にもっていると言わなければならない。

 その憎しみを呼び覚ます物語とはこういうものでした。主人から、葡萄園を預かっている農夫たちがいる。この主人とは神のことです。そしてこの農夫こそあなたたちのことだと、主イエスはお語りになっておられる。それは名指しされた、祭司長、ファリサイ派だけでないと思います。教会に争いがあろうがなかろうと、そんなこと関係なく、実はここに登場する農夫たちは、私たち一人一人のことだと思います。そのことが分かるなら、今朝の説教で眠る者は一人もいないはずです。 主人は行き届いた深い配慮をもって、自分の葡萄園を造りました。「…垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て…」(21:33)。この葡萄園とは、何を例えているのでしょう。主イエスがここで直接考えておられるのは、神の都エルサレムであると思います。エルサレムもまた堅固な城壁に囲まれていました。そして櫓に似て民を守る神殿が聳えています。しかしこの農夫を私たちのことと考えるなら、これを私たちの世界、私たちの人生と考えることも出来ます。教会と考えることも出来る。そういう神の園を主なる神は深い愛情を注いで造って下さった。そして出来上がると農夫を雇って主人は旅に出る。雇われた人たちは一所懸命働きました。最初は小粒の実しかならなかったかもしれない。皆で耕し毎日は働いたと思います。その努力が文字通り実る時を迎えた。とうとう大粒の葡萄がたわわに実った秋、農夫たちはその紫色に染め上げた葡萄園を眺めて胸を張ったと思う。その時こういうことが起こりました。主人は「収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。」(21:34)これは主人のものですから当然です。ところが「農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。」(21:35)主人に、ただの一粒をも返すことを拒絶した。つまり農夫たちは預かったものを私物化した。これは俺たちが何年もかかって築き上げた葡萄園。あの時はこんな苦労したあんな苦労した。あの春、畑に大きな「石」があって、あれを動かすのに「一週間」もかかった。そうやって耕した俺たちの農園、これは皆俺たちの物、と皆で話し合ったのかもしれない。しかしそこで忘れているのは、主人がこの葡萄園をどんなに深い思いをもって造ったかということです。しかし彼等は、いつの間にか、旅をしている主人の存在を忘れた。これは私の世界ってことです。誰も入れさせはしない。神様だって、イエス様だって入れさせはしない、私の世界があると言うのであります。

 主人は再び、前よりも多い数の僕たちを送ります(21:36)。しかし前と同じように扱われました。この次々に痛めつけられた僕とは、具体的には旧約の預言者たちと考えられます。そして遂に主人は思います。僕たちでは役不足だったのだろう。私の息子を送ろう。そうすればいくら何でも敬ってくれるに違いない(21:37)。しかしその時この農夫たちは、息子を殺してしまえば全部自分たちのものになると考えたと言うのです。そして息子を「ぶとう園の外にほうり出し」(21:39)ました。まさに御子イエスは、都エルサレムの城壁の「外」ゴルゴタの丘に放り出されて殺されました。人は神を自分の世界の外へ押し出しておいて、殺したと言われる。自分の園にこんな大石があっては、世界は自分のものにはならないではないかと、こんな「石」迷惑極まりないと「一週間」(受難週)かけて園(エルサレム)から投げ捨てたのであります。

 その瞬間、堪忍袋の緒が切れたかのように主人の怒りが彼らの口を通して語られる。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」私のものは私のもの、私のこの身も心も、時間も能力も財産も、一切は私のもの。誰に渡してたまるか。入り込もうとする者は、神でも石でも敷居の外に放り出そう。そうやって自分は、ついに自由となると思うかもしれない。しかしそうじゃないと、ここで御子は断言される。それは滅びだと言ったのです。どんなに収穫を一人占めして、当座は喜ばしくても、その終極は破滅だと、言われているのです。

 ところで、この物語は「殺す」という言葉がいくつか出てくるところに一つの特徴があると思います。そこを原文のギリシャ語で読んでみますと、農夫たちが次々に僕や息子を殺していきます。その時用いられるギリシャ語の「殺す」は、ほぼみな共通しています。ところが、41節に用いられる、農夫の方が殺される、そこで用いられた「殺す」という言葉、ここだけ違うギリシャ語が用いられている。これはとても不思議なことだと思います。この41節で農夫たちについて使われている言葉は、いろいろな訳が出来るのです。「殺す」の他に「無くなる」「失われる」とも訳せる。農夫たちは失われたと訳することも出来る。どこから失われたのか、神の眼差しの中からです。神抜きで自由に生きようとした時に、御前から彼らは失われてしまった。 神の言葉は、厳しいと最初言いました。しかし、私たちが、それでもこうして教会に通うのは、その厳しさの裏側に計り知れない慰めの言葉が隠されているからです。しかし今朝の言葉のどこに憐れみの言葉があるのか、一見どこにも見当たらないのです。主イエスは優しいお方だと、そう思っていたところが、聖書を読んでみると、どんな牧師が語る厳しさにも及ばない、断固たる裁きが語られていると思われないでしょうか。しかし実はここにも 主の憐れみの言葉が暗号のように隠されているのです。それが「ひどい目に遭わせて殺す」(21:41)という、私たちを脅かさせる以外のものでないと思われる言葉に秘められている。それを発見した時の深い感動は私は忘れることはありません。

 この「殺す」という言葉は、ギリシャ語では「アポルリューミ」という言葉です。これは、ルカ福音書に出てくるのです。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば…」(15:4)、この「見失った」がアポルリューミです。それだけじゃない。「一枚を無くした」(15:8)、「無くした銀貨」(15:9)、「いなくなっていたのに」(15:24、32)、ここに何度も何度もアポルリューミと語られていく。そしてこれはいなくなって、それっきりに終わったっていう物語ではない。滅んで終わったという物語でない。それは見出された物語。発見された物語。失われた一匹の羊、一枚の銀貨、放蕩息子が、羊飼いに、女に、父に見出される、その歓喜の物語。そして私たちが今朝読みました譬え、それは厳しい物語、哀しい物語だと語りました。でも農夫が、ついに主人の怒りに触れて、殺される、失われる物語は、そこで終わりというのではなかった。まだ話しは続く。このルカ15章の喜びの叫びにも似た譬えと結び付く。「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」(15:32)

 悪い農夫のように、神からの使者を次々に排除したのは、私たちのことと言いました。そうやって、私たちは滅びを自らの手で招いている。しかし、主イエスは、これは、あなたの物語と言われた時、その裏側に隠しておられる物語とは、罪を重ねて死ぬ他はない私たちが、牧者イエスによって見出され救われる物語です。これがあなたの物語。ここにあなたの本当の終極の姿がある。主イエスの説教は、そこまで語ってようやく終わる。

 説教が自分を指して語られる。その時私たちは眠るわけにいかないと初めに言いました。その眠れない中で起こることは、そこで自分が糾弾されたといきり立つ祭司長たちのように、説教者をどうやったら教会から放り出せるかと考える、そんなことじゃない。私のことが説教で語られる。それはこの上ない慰めです。御子を捨てたこの罪人の私が、しかしなおその同じ御子の憐れみの中に捕らえられ、その罪が赦されているということ。御子の命と引き替えに、私たちが生きることが出来るようになったということ。この「石」は邪魔だと園の外に投げ捨てた石、しかしその石を指して御子は聖書を引用される。「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。」(マタイ21:42)その石(御子イエス)が、全く思いがけないことに、私たちの世界と人生の親石となる。つまり、自分が罪の末に、もう滅びの穴にもう落ちる、と思った瞬間、その親石が御手を大きく広げるようにして、その墜落を止める。世界の崩壊を防ぐ。そのことを私たちが知る時、これはあなたの物語と説教された時、そこに生まれるのは、憎しみでない。逆です。喜びです。神を棄てた私がなお神に愛されている。その時溢れる感謝の中で、私たちはやはり説教中眠りこけることは出来ない。空想にふける暇はない。どうしても聴かずにおれない。深い感動の故に。真の説教とはそういうものであります。



 祈りましょう。  主よ、真に厳しいと思われる御言葉の中にも、それがあなたの言葉であるが故に、秘められる真の慰めの言葉を聞きとるが許され、心より感謝を致します。御子に献げることは、無念なことではなく、この上ない私たちの喜びであるという真実を心に刻みつけ、神の葡萄園・西片町教会が産み出す収穫の全てを、あなたに喜んでお返しすることが出来ますように。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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