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2011年 5月1日 主日礼拝説教 「神の憐れみを見る」

2011年5月1日 主日礼拝説教 「神の憐れみを見る」

  説教者 山本 裕司 牧師
  マタイによる福音書 20:33~34



二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。 (マタイによる福音書 20:33~34)


 以前、若い方からこんな質問を受けたことがありました。聖書に記される奇跡についてどう理解したらよいのかという問いです。聖書の教えは分かる。しかし奇跡は信じられない。自分の友人もそういう問いをもっていたと言われました。その時、私が思いましたのは、そういう聖書に表れる奇跡を否定する人が、どこまで科学的な精神を本当にもっているかということです。キリスト教主義学校の生徒は、特にこういう疑問をもち易いかもしれません。聖書科の時間に、教師が、例えば今朝読みました、盲人の目が開かれる奇跡について講義する。「そんなことあるはずないわよね。この宇宙にロケットを飛ばす時代に、そんな奇跡なんて信じることなんて出来ないよ」そう友だちと休み時間にキャッキャと笑い合う。しかし放課後になる。もう夕方です。今まで教室で冗談を言い、先生の悪口を言っておもしろがり、部活に熱中したりしていた。しかしそれがみな終わって、さよなら、バイバイと、一人また一人と別れます。私も経験があります。友だちとつるんでいる時は、随分気が大きくなっているものです。人を決めつけたり、正義の味方を気取ったり、聖書の矛盾をついたり、自分が何でも分かっているような口ぶりになる。しかし一人になって、暗くなりかけた道をとぼとぼ歩いていく。そういう中で、人は我を取り戻していくのです。昼の間は隠されていた不可解な感情が滲み出てくる。それは言葉にならない不安ということ。恐れ。迷い。いえ、もっと何かしら深いもの、寂しさということ。ただ無性に寂しいということ。そういう時、その子は、ふと週刊誌を開いて運勢の頁を開くかもしれない。街角で手相を占ってもらうかもしれない。科学時代だから奇跡なんて「信じられない」と言っている本人が、少しも科学的じゃない。人生の不合理的をもう知っている。得体の知れない力が働いて自分を振り回している、孤独にしていく、壊していく。そういう感覚にいつも脅えている。

 ここに2人の盲人がいました。エリコの道端に座っていたありますから
物乞であったのかもしれません。古代社会における身体の不自由な人は可哀想ですなあ。イエス様はそれで癒して下さったのだ。そんなふうにここを読んでも、本当に聖書を読んだことにはなりません。注解者が書いています。この物語は、マルコ福音書に同じ話がある。しかしそこにはちゃんと盲人に名前がついている。「ティマイの子、バルティマイ」と。ところがマタイは同じ物語を自分の福音書に描く時、その名を削除しました。どうしてか。それはここで個人名をあげることによって、バルティマイだけの話になってしまうことを、マタイは防ごうとしているのではないか、と。この盲人とは、今、マタイ福音書を読む私たち一人一人の姿なのだ、と。私たちは肉眼は開いているかもしれません。しかし人間のもっている闇とは、肉眼が閉ざされていることではないのです。これは心の闇の問題です。中高校生が教室で友だちとじゃれ合っている時には忘れている、しかし一人になるとふと顔をもたげてくる、そこで科学など何の力にもならない、心の闇であります。以前「こころの友」に、林あまりさんという歌人が「闇を抱えて」とういエッセーを書きました。

 「誰にも会いたくない、口をききたくない、ボーッとしているほかはない、とにかく不安で心細い。小さな子どもに戻ってしまい、しかもひとりぼっちで放り出されたような気分。-こういう状態は大変つらい。しかもそれが何日も続いたとしたら… 私にとって慣れることの出来ないこの状態が、他の人にもやってくるのだと初めて知ったのは、開高健の小説を読んだときだった。『…手と足がしびれたようになり、身うごきならなくなる。冷たい汗のようなものがにぢむこともある。ベッドも壁も消え、足もとのほうに広い闇がたちあがって際限なくひろがっている。恐怖でこわばったまま私はその荒寥と静寂を瞶(みつ)める。…この虚無には凍りつくような広大さがあるばかりで、私は子供のようにふるえあがる。』(『夏の闇』)開高健はこの状態を『人格剥離』と呼んだ。何もかもをはぎ取られ、自分が誰であるかもわからなくなる。ただ恐怖を感じる心臓だけが残っているような状態を、うまく言い表している。思い返してみると私は、この『人格剥離』に小学生の頃から脅かされてきた。これは不意にやってくるので防ぎようがなく、ある瞬間(あ、入っちゃう、入っちゃう…)と思ってからはもう沼に落ち込んでいくようにずぶずぶと闇の中に入っていくしかないのである。そしてこの状態は最低二日は続く。原因は何か…それは『満たされない』ということだ。赤ん坊はただそこにいるだけで母親にとっては唯一の存在である。何のとりえもなくても、可愛がられ、甘やかされ、すべてをゆるされる。よしよし、と頭を撫でてもらえる。けれども人間は誰しも、いつまでもその状態にはいられない。そればかりか赤ん坊時代でさえ、完璧な母親などいるわけはなく、完全に満たされているとは言い難い。そんな『満たされない』気持ちが、何かの拍子にひょっこり顔を出すのではないだろうか。『満たされない』まま、闇を抱えて生きるほかない私は、神に『ゆるして欲しい、頭を撫でて欲しい』と心の中で繰り返している。」

 開高には、ベトナム戦場体験とその後の虚無を書いたと言われる「闇三部作」と呼ばれる作品群があります。『輝ける闇』『夏の闇』、そして未完に終わった『花終わる闇』です。開高さんは豪快な人だと思っていましたが、一方、「人格剥離」という、心の闇に苦しみ抜いた人でした。 林さんもそうです。そういう時、開高も、林も高名な文学者であるという名誉はすっかりはぎ取られてしまう。闇の中をさ迷う。その人格剥離のただ中で、この歌人が出来たことは一つです。神様に「赦して欲しい、頭を撫でて欲しい」と祈るだけだと言うのです。 「そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、『主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』と叫んだ」(マタイ20:30)。同じことであろうかと思います。「主よ憐れんでください。」しかしそう主にすがりついた時に奇跡が起こる。眼が開かれる。その瞬間、このかつての盲人が先ず見たのは、主イエスの憐れみに満ちた眼差しであったに違いない。主の憐れみを見る。主の愛への開眼、これがこの福音書の語ろうとしていることです!

 この盲人の人数は「2人」とあります。その理由を、ある人は、この直前の物語、20:20以下の物語に対応しているからだと指摘します。主イエスはゼベダイの2人の息子に「何が望みか」(20:21)とお問いになっておられる。それは2人の盲人に「何をしてほしいのか」(20:32)と言われた、この言葉と向き合ってると注解されます。「2人の弟子」に対して「2人の盲人」という対称です。何をして欲しいのかという願いに、2人の息子(弟子)の思いを代弁して母はこう言います。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」(20:21)その願いは主から拒絶される。それに対して「主よ、目を開けていただきたいのです」(20:33)と願いました2人の盲人の願いは叶えられたのです。一方は、12弟子の中でも指導者といってもよい2人でした。その者たちが、むしろ眼塞がれたように、主の憐れみを見ることが出来なかった。対照的に道に座る物乞の2人が、正しい願いを申し上げ、開眼祈願を成就することが出来た。どうしてそんなことになってしまったのかと、これを聞いた多くの信仰者は思ったことでしょう。そしてやはり「何が望みですか」と問われる主に、自分自身はどんな祈願を申し上げたらよいのかと、自問自答してきたのではないでしょうか。

 主イエスはある時「今あなたが『見える』と言い張るところに、あなたの 罪がある」(ヨハネ9:41)と言われました。2人の弟子は、信仰の洞察力というのでしょうか、そういう目の良さをもっていると誇っていたに違いありません。それにふさわしい地位を祈り願ったのかもしれない。しかしそのような中で、彼らが見えなくなっていたものがある。自分の心の闇です。私は何でも知っているんだよ、皆は馬鹿ばっかりだ、そう友だちの前で高ぶっていると、我を忘れてしまう。主の憐れみなんて、そこではもう目に入らない。そんなものいらなくなっちゃう。見える、と自惚れたからです。しかし、はっと気付くと、周りには誰もいない、ただ一人、夕闇の中、手探りで彷徨っているだけの自分です。そうやって、人は一度、夢から覚めなくてはいけない。夢から覚めて暗いまま一生終われって言うのではない。真の光を見いだすためにであります。

 開高さんは「漂(ただよ)えど沈まず」と言いました。これは、彼が作った言葉ではなくパリの町のスローガンだそうです。それを作家は「人生の本質」と呼びました。そして、あの「闇3部作」を完成させたら、この3作品を総称し《漂えど沈まず》という一巻本にしたいと願っていたようです。では、闇を書き尽くして、なお、沈まない希望はどこから生まれるのでしょうか。私は思う。キリストの愛を見る他はない、と。一番最初に言いました。奇跡を信じない人が、しかし占いは気にする、と。しかし主の憐れみを見ることが出来た者は、占いとかオカルトの世界から解放されるのです。世界を支配しているのは、そんな得体の知れない霊ではない。暗い運命とか星座が、人生を振り回しているのではない。私たちの世界を支配しているのは、最後には、そのような闇の力じゃない。主の愛です。漂うような人生に翻弄される時もありますが、そこで私たちが沈むことのないように、底から支えて下さる、主の憐れみの御手が見える。

 十字架とは、人間の闇が最も濃くなる場です。そこに主は向かって行かれます。死の闇の中に沈み込もうとする私たちに、御自身の復活の光を与えて下さるためです。その光が、私たちの闇の心を照らす。そこで支えられる。私たちの人生は漂っても沈まない。この主の愛を今朝も見ることが出来た私たちの幸いを思う。



 祈りましょう。  主よ、どんな嵐の夜も「それでも、我らは沈まず、主の御手の支えの故に」と告白しつつ、御子の憐れみの光を見る者とならせて下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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