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2011年 4月10日 主日礼拝説教 「私たちは平等に耐えられるか」

2011年4月10日 主日礼拝説教 「私たちは平等に耐えられるか」

  説教者 山本 裕司 牧師
  マタイによる福音書 20:12


「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」 (マタイによる福音書 20:12)


 このマタイ福音書の言葉を読んで思い出した昔の事件がありました。今から20年近く前ですが、当時「週間文春」が連載し、やがて新聞でも報道され、人々を驚かせたニュースがありました。日本共産党の話です。共産党名誉議長に野坂参三(1993年11月、101歳で死去)がいました。彼は学生時代に入党、爾来、共産革命のために世界を又にかける活躍をした華々しい経歴の持ち主です。ところが、ソビエト共産党が崩壊したために、古い共産党の極秘資料が明るみに出てきました。その中に、野坂参三が1939(S14)年に国際共産党に宛てた手紙があったのです。その全文が新聞に掲載されました。それを読んだ私は深い悲しみを感じました。そして思わず「人間とはこういうものだ…」と呟いたのを覚えています。それは当時、野坂と同じく共産党の有力指導者であった山本懸蔵が、日本政府かトロツキストのスパイであることを、巧妙に匂わせる手紙なのです。その疑いは数十年後、ソビエト共産党自身によって誤りであったことが認められていますから、山本は無実であったことは確かでしょう。しかし当時、その手紙は実に効果的に働いて、手紙が書かれた半月後に山本は銃殺されました。この事件の解説者は、当時はスターリンの大量粛清の時代で、自分がスパイでないということを証明するためには同志を売るということが、最も手っ取り早い方法だった、と書いています。野坂は裏切り者のユダのような立場に、100歳になっておかれたのです。

 野坂の本心は、もはや分かりません。しかしある人はこんな想像をしています。山本懸蔵は、日本共産党の歴史の中では伝説上の人物です。野坂自身が山本を刎頚(ふんけい)の友と呼んでいます。しかし同時に彼らはライバルの関係であった。野坂はだから、山本の卓越した能力を尊敬しながら、同時に憎しみがあったのではないか。勿論大量粛清の時代です。自分の生命を守るためであったということが本当でしょう。しかし野坂が、現実に、友を裏切ることが出来たのは、やはりどこかに許し難い感情があった。自分より勝れた能力をもっていたのかもしれません。自分より人々に愛されていたのかもしれない。出世競争で負けそうだったのかもしれない。事実、山本の妻は、野坂が何故夫を告発したのか、その理由は、夫の地位を欲していたからだと、証言しました。いつもそういうライバルの力を「至近距離」で見せ付けられていた。その妬みが裏切りの、最後の引き金になったのかもしれない、と。

 共産主義とは、平等・公平を主張します。ユートピアの思想があります。貧富、上下、主従のない世界、差別のない世界を造るというのが共産主義の目標でした。それにどれだけ多くの若者たちが献身したことでありましょう。しかし人間とは、そういう共産主義の理念が謳う、美しい理想、平等・公平に本当に耐えられるかということです。多く働いた者も、僅かしか働かなかった者も、同じ給料が支給される。能力がある者も、ない者も、同じ生活レベルで生きる。平等です。しかし優れた働きをした者たちはそれで満足したか。納得出来なかったのであります。だからマルクス・レーニンの謳い上げた人間の理想を元に築かれた国家は、歴史的にその理想と全く逆の方向を辿りました。平等どころの話しではない。貧富の差は益々激しくなり、指導者は神のように崇められるようになりました。

 この主イエスのたとえ話には、共産主義的な思想が見られると言われます。ある家の主人が、自分の葡萄園のために労働者を雇いました。早朝から働き始めた人もいます。その後、午前9時、正午、午後3時、そして5時から働き始めた労働者もいました。やがて日が沈み、報酬が出される時となった。最後に来た人から賃金が支払われました。最後に来た人は1時間しか働きませんでした(マタイ20:12)。しかし主人は1日分の給料である1デナリオンを与えた。その様子を、順番を待っている労働者たちは見ているのです。順番がだんだん回ってきて、早朝、日の出と共に働いた人が、最後に貰う番になった。しかしやはり1デナリオンだったのです。約束は約束なんです。平等です。しかし彼はこんな平等ってあるかと思った。自分の方が遥かに長く働いた。「まる一日、暑い中を辛抱し」(20:12)たのです。しかし報酬は、日が陰って涼しくなってから来た者と同じだった。その時、彼等は叫ぶように抗議したのです。「(この私と)この連中とを同じ扱いにするとは」(20:12)と。

 この物語の不思議なことは、先ず少ししか働かなかった者から給料が支払われることです。その人は、よその人の収入を知らないで帰ったに違いありません。ただ1デナリオン得たことに満足して帰ることが出来ました。ところが、長く働いた者は、前の者たちの報酬を「至近距離」で見なくてはならないのです。主イエスのお作りになられた物語のもおしろい所です。いったいこれは何を暗示しているのでしょうか。私たちも苦労します。一人の時はわりと耐えられるのです。しかしふと、顔を上げた時、他の人が自分より良い思いをしている。楽しているくせに、良い報いを得ている。それを見たとたんに、私たちはその労苦に耐えられなくなるのです。比較する時、満足していたはずの生活が色褪せてしまうということが私たちにはある。そして人と比較を始めるのは、多く汗水たらして労苦した者の方だと、きまってそうだと、だから多く働いた者たちが最後に報酬を貰うのだ、そういうことになっているのだと、イエス様は、この物語で言われているのです。

 「家の主人」(20:1)とは、これは父なる神を譬えています。主人は、自ら、早朝労働者を探しに広場に出かけます。早朝だけでない。何度でも出て行くのです。主人は、農園経営などどうでもいいように、ただひたすら、自分の葡萄園に人を集めようとするのです。それだけに集中している。午後5時に見付けた者が、多くの仕事が出来ないことは良く承知している。しかしそれでも主人はこの者を広場に探しに行くのです。それは、ルカ福音書15章に記される、失われた羊を荒野の探しに行く羊飼いの姿と重なると私は思います。それは、失われた放蕩息子を迎えようと、地平線の凝視し続ける父の姿と重なるのです。

 この譬の中で注目すべきは「何もしないで広場に立っている人々がいた」(20:3)、「何もしないで一日中ここに立っている」(20:6)との表現です。イエス様がこの言葉に込めているのは、主人のいない労働者は空しい、という確信です。主なる神のもとで、働くことこそ、私たち人間が最も充実する時なのだということです。この愛と憐れみの主人のもと、麗しい葡萄園(教会)で生き、奉仕することこそ、労働者の救いそのものだったのです。人はどんなに豊かであっても、愛なしに生きる時、空しく立ち尽くす他はない。そしてそこで求め始めることは、自分が人よりどれだけ上かということ、そのことだけが生き甲斐となる。自分の値打ち、それを他者との比較の中で、誇る以外に自分を支えるものが何もないのです。何故なら、愛の主を持たないからです。そこで人は、広場に立ち尽くすような心の虚無を払拭するために、金とか、身分とか、権力とか、そういう別の主人を持とうとし始める。しかしそこで起こったことは、人を妬み憎むことでしかない。恵みの神なしの人間の理想追求は、そういう形で破れていくのではないか、そう言われていると思う。

 広場に立ち尽くす者、それは私たちの姿でもあります。教会も平等を語りながら、そこで起こっていることは、やはり妬みであり、競争です。教会の中でも、「(この私と)この連中とを同じ扱いにするとは」(20:12)との声がいろいろな所から聞こえてきます。そして、ふと気付くと、自分の人生は結局、一段でも上を目指し、妬み、争い、結局、相手が死んでくれることを願うような人生でしかなかったのでないか、と思う。そしてもう午後5時だと主イエスは言われるのです。人生の黄昏時です。もう間に合わない。野坂は100歳で、名誉も栄光も全て失いました。私たちも年を取り、もう何もかも遅いと、もうやり直せない、そう空しさの中で、今にも沈みそうな西日を見ているかもしれない。しかし、その光のただ中から、歩いて近寄ってくるお方がおられるのです。「お前も来るのだ」という声が、その光の中から聞こえる。やり直せるよ。どんな黄昏時でも、人はやり直せる。遅すぎるということはない。死ぬ寸前でも私を「我が主、我が神よ」と呼べば報いが与えられる。一生を神に捧げた聖人と同じ報酬です。いや、報酬ではない、それは元々、恵みです。恩寵としての永遠の生命が「気前よく」(20:15)与えられる。臨終直前の「病床洗礼」の大いなる意味がここに生じる。

 改革者ルターは言いました。「行いではない、信仰のみによって」と。全ては恵みなのです。どんなに長く働いても、それが私たちを救う功績となるわけではありません。主の愛からほとばしり出て葡萄園にいる全ての者に平等に与えられる「恵み」(1デナリオン)によって、私たちは生きるのです。主イエスと兄弟姉妹と共に、この葡萄園(教会)で働くことが出来た、その充実こそが、私たちの人生最大の報酬です。誰が得したとか損したとか、地上の報いはそこでは関係ありません。


 祈りましょう。  主よ、もう手後れだと思われるほど自分勝手に生きてしまった私たちです。しかしそのような者をも招いて下さる、あなたの愛に応え、麗しき葡萄園へ馳せ参じ、そこで、日が沈むまで出来る限り働き、等しく「永遠の命」という1デナリオンを得る者とならせて下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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