日本基督教団 西片町(にしかたまち)教会へようこそ!バリアフリーの教会です。 どなたでもいらしてください。

2011年 2月 6日 主日礼拝説教 「「背伸びからの解放」

2011年2月6日 主日礼拝説教 「背伸びからの解放」

  説教者 山本 裕司 牧師
  マタイによる福音書 18:1~5


 今朝のマタイ福音書の言葉は、弟子たちのこういう問いから始まりました。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」(マタイ18:1)。この問いは何気ないものではなかったと思います。彼等にとってどうしても聞いておきたかった問いだと思います。12人の弟子たちは、主イエスによって選ばれ、もう数年間、伝道生活をしてきました。最初は、主に見い出された喜びと、目的を一つとする仲間が与えられ、それこそ子どものように毎日が満ち足りていたと思います。ところが歳月が流れる。男ばかりの生活です。その男たちの生活の中で、悲しい経験をするようになっていったのではないでしょうか。もう前のように、輝ける日々でない。むしろ不満が一杯なのです。

 数週間前読みました、17章の最初に「イエスの変貌」と呼ばれる出来事がありました。高い山に導かれて、イエス様の光輝く姿を見せて頂いたのは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけでした。この報告を3人が山から降りてきた後に、残された弟子たちは聞いたのです。その時、弟子たちはどう思ったでしょうか。ああ、山の上では何て素晴らしいことがあったのだろう。そう喜びながら、しかし同時に、何でイエス様は自分を連れて行っては下さらなかったのだろうかと思ったかもしれません。それは、ペトロのような一途さは足りないかもしれない。ヤコブのような強さ、ヨハネのような主への熱愛はないかもしれない。しかし自分は自分なりに一所懸命やってきた。まだ認めて頂けないのか。いや、そんなことを思ってはいけない。ただ、イエス様と一緒に旅をするだけで、喜びが胸に溢れた時があったのだ。初心に戻らなくてはいけない。そう戒めた時に、魚釣りから帰ってくるペトロに会う。この出来事は先週読みました。嫉妬を腹の内に隠し「何だ、今頃釣りかい」と笑いかけたら「いや先生がやってみろと言われたんだ。見て御覧。また奇跡が起こった。銀貨だ、先生が言った通りになった、これで、先生の分だけじゃない。私の分まで献金出来るのだ。」そう目を輝かせるペトロを前にした時、一緒に感動しようと思うのですが、顔は引きつる。もう子どものように一緒に喜ぶことが出来ないのです。どうして先生は、ペトロばかりに奇跡を見せられるのですか。どうして、私はいつもその報告を聞くだけなのですか。これから先生は何かされるらしい。そうしたら、時代はすっかり代わってしまうらしい。天国がこの地に突入してくると、いつか先生も言われた。その天の国では、私が大臣になってもおかしくはないではないか。聞いてみよう。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」(18:1)。

 このマタイ福音書が、今私たちが見ているような形で完成したのは、紀元70年以後だと言われます。イエス様が十字架につかれたのが35年頃だとしますと、この18章の問答があって、既に30~40年の時が経過していました。この福音書を生み出したのは、徴税人マタイ自身か、マタイの影響を受けて成立したマタイ教団だと説明されます。マタイ教会の創立40周年記念事業だったかもしれません。その頃イエス様の言われたこと、なされたことの編纂が行われたのです。それがこの福音書になりました。その作業の中でマタイは思い出したと思います。40年前、ペトロを妬んだ自分。それが今は教会の指導者となった。そこで思い出すのは、自分の卑しさです。そして、まるで、かつての自分を鏡に写すかのようにマタイ教団の中に、権力争いが起こっていたのかもしれません。既に老年となったマタイの後継者問題だったのかもしれない。教会を二分する争いが起こっていたかもしれない。それを、老いたマタイは戒めるために、この18章の出来事を記したのかもしれません。イエス様はこう言われたのだ。愛する兄弟たち、よく聴きなさい。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」(18:3~4)

 この「子供」ですが、それは天使のような美しい心をもちなさい。そうすれば天国で一番偉いと主は言われたのでしょうか。私はそうは思いません。もしそうであれば、この教会の中で、今度は誰が一番子どもらしいかという、新たな競争が起こると思うからです。確かに私たちは競争社会の中で苦しんでいます。「男は外に出ると7人の敵がいる。そして、そしてその内の6人までが同僚だ。自分の会社が傾いてもいいから、同僚が失敗してくれる方が嬉しい」そう言われる世界です。そんな競争にほとほと嫌気がさして、宗教の世界に入る者もいるかもしれない。しかし、そこでまた、誰が一番子どものように純真無垢になれるかの競争が待っているとしたら、いやそれどころか、会社と同じように教会成長の競争をするのなら、そこでは何も変わっていないのです。オウム真理教の中でも、幹部たちの間に激しいライバル意識と出世競争があって、活動の過激さがエスカレートし、ついにサリンを撒くに至ったと書いてありました。

 文豪トルストイに『神父セールギー』という作品があります。セールギーという青年は、大変優れた男でした。家柄は公爵で、何もかも同年配の仲間たちから抜きん出ていた。しかし彼は結婚で躓きます。彼のフィアンセの絶世の美女は、実は皇帝ニコライの妾であった。彼はそれを知った時に一切を捨てます。そして修道院に入って神父になる。何故でしょうか。作品はこう書きます。世俗の世界の全てを侮蔑して「以前には羨しく思った人々を、上から見下だすことのできるような、新しい高みに上りたかったからだ」と。自分がどんなに頑張っても皇帝を負かすことは出来ないと悟った時、彼は聖なる世界へ転進し、皇帝の属す世俗的な世界を見下す生き方を選んだのです。つまり彼は回心したように見えますが、実は以前と同じ道を歩いているのに過ぎないのです。地上で一番になることは諦めましたが「天国で一番偉くなる道」(18:1)を求めた。元々賢い人ですから、直ぐ僧侶としての謙遜を誰よりも上手に身につけました。しかしその隠された目的は、皆を自分の前に跪かせることでした。そこでの謙遜とは、この世に自分をアッピールするための、上手に覆われた自己主張の知恵に過ぎなかったのです。

 主が言われた「子供のように」とは、そうではなく文字通り「低い」(18:4)ということです。美徳としての謙遜ではない。これは主の十字架の低さに用いられた言葉です。全てを失う低さです。卑しめられる低さです。子どもには地位も名誉もありません。持っているのは低さ小ささだけです。しかしそういう低さというものを、子どもは受入れるのです。無理な背伸びをしない。それでも生きていけると知っている。どうしてでしょうか。それは父母に頼ることを知っているからです。画家ルオーは、その作品の中に子どもをよく描きます。どんなに暗い世界が主題になっていても、その中に描かれる子どもの姿は、どれも無邪気で背筋が伸びています。ルオーは、しかしその時必ず傍らに父母を描く。子どもは、お父さんがいれば、安心してどこにでも旅をします。何故なら、父が、みな先立って用意していることを知っているからです。そういう信頼です。そこで背伸びをする必要はない。そういう「低さ」です。天の国とは、子どもだけがいる世界ではない。天国におられるのは誰よりも父なる神です。そしてルオーが描いたように、その父とは度々、大きな重荷を背負い腰がすっかり曲がってしまった存在です。それは主イエスが十字架を負って歩く姿を思い出させるのです。子は、この父の曲がった腰と引き替えのように、背筋が伸びるのです。天国で、一番偉い人とは、父なる神といつも離れない人のことです。父なる神なしに、自分は生きていけないと知る人のことです。自分を誇ることをしない人です。誇るなら父なる神を誇る。そういう低さに生きる人こそ、天の国の住民と、御子イエスは教えて下さいました。

 創世記3章を開くと、最初の人間アダムとエバは裸で暮らしていた、とあります。真に無邪気でした。失敗も間違いもあったに違いない。しかし天真爛漫、神様の前に裸身を晒すことができた。ところが、誘惑に合って堕落します。その時彼等の身にどんな変化があったかと言うと、裸を隠すことです。いちじくの葉を腰にまいて隠したのです。そうやって、自分の弱さや醜さを覆った。堕落というのは、神なしに生きられるほど、人間が強くなりたいという欲望から起こったことです。神様に頼って生きることが、つまらなく思えた。自分の力で世の中を渡って行こうと思った。しかしその時、私たちがすることとは、自分の正体を隠すということです。弱い者は、能力のなさを隠すのです。逆にエリートほど、謙遜に振る舞う。そうやって魅力的な人間に見せる。能ある鷹は爪を隠すのです。でも本心は尖った爪です。そうやって大人たちは、弱い者も強い者も等しく隠すことによって、世の中を渡っていこうとする。しかしそれで本当に隠せたのかのでしょうか。いちちじくの葉は、五つに大きく裂けている。何故ここで創世記は、その葉を「いちじく」だと書いたのか。何故裂け目のない葉が選ばれないのか。それは、隠すことは出来ない。それは守ったつもりになってるいるだけで、一番肝心な急所は守れない。急所、それは魂です。魂は、そういう背伸びの中で疲れ果てしまう。そう聖書は暗示しているのではないでしょうか。正体がふと見えてくる。自分の小ささ、醜さ、それがふと出てくる。そして全てが壊れていく。いちじくでは覆えない。隠せない。その時神は「皮の衣を作って着せられた」(創世記3:21)、そう物語は続くのです。注解者はここで改革者カルヴァンの解説を引用します。この「皮の着物」とは「キリストの義」だと。キリストの義が私たちの裸の心を覆う。そして私たちは自分の醜さから初めて解放される。神様の前に堂々と立つことが出来る。このキリストの義を受入れるのだ。幼子が父の保護を喜んで受け入れるように、私たちもそのキリストの義と恵みに包まれることを、唯一の願いとするのだ。子どもになるとは、そういうことです。信仰をもつとは、こういうことです。もう背伸びはいらない。隠す必要はない。あるがままで赦されているからです。主が裸の私たちを覆い守って下さる。主が私たちの罪の重荷を担って下さる。そのような私たちの人生の旅は何と安心なことでしょう。


 祈りましょう。  父よ、御子の贖いの故に、私たちをもあなたの子として下さった恵みを感謝します。にもかかわらず、私たちは、時に、保護者なき子のように不安に脅えます。どうか、いかなる時も、私たちには、愛の父が、兄イエスがおられるということを信じ、明るく旅を続ける者とならせて下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




a:921 t:1 y:2

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional