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2011年 1月30日 主日礼拝説教 「献金の心」

2011年1月30日 主日礼拝説教 「献金の心」

  説教者 山本 裕司 牧師
  マタイによる福音書 17:22~27


 今朝与えられていますマタイ福音書の中に「神殿税」という言葉があります。ユダヤの神様は、勿論私たちが信じている父なる神と同じお方ですが、その神様を礼拝する神殿に献げられる税、それが「神殿税」です。私たちで言えば「献金」のことです。この税は律法によって定められており、イスラエルの民は一年に一度、半シェケル(私たちの感覚では1~2万円)を献げなくてはなりません。これは多いでしょうか。少ないでしょうか。私たちの金銭感覚というのは、不思議なものです。1万円という金額は、ある時はとても大きな額に思えますし、ある時は、何でもない金額になる。お金の使い方に、その人の価値観が明瞭に表れるのです。自分の人生の中でいったい何を喜び、支えとしているのか。それが目にみえて表れてくるのが、その人のお金の使い方です。

 税金徴収者が、ペトロに「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」(17:24)と問いました。それに対して主は言われました。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」答えは国民から徴収するということです。しかしその国で、税金が免除される者がいる。それは王の子ども・王子だと言われるのです。古代における納税とは、国家運営のための資金を得るということ以上に、国民に「自分の支配者はあなた様です」と、承服させる意味があると指摘されます。納税と服従とは一体でした。主イエスは神の子です。支配者の側のお方です。だから神殿献金の義務は元々ないと言っておられるのです。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ」(17:26b)と。

 顧みますと、私たちは今、連続して、イエスが神の子であるという信仰を、この礼拝で聞いてきました。ペトロの信仰告白が直前に記されています。「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)。そして、直近の「主の御変貌」とは、このペトロの告白に応えて、イエス様が、神の子の太陽のような輝きを見せて下さった出来事でした。これらを踏まえた上で、御子は、自分は献金する立場でないと言われたのです。そして、私たちはその言葉に対して、心から「アーメン」と答えずにおれないのです。そして私たちの方は神の僕です。神への服従のしるしとしての献金をすることは、私たちの務めです。献げて当然です。しかし、そう言われた時、何故か、人は嫌な気持ちがした。まるで、不当な税金を払う時のような、不快感をもった人がいたのです。そこから、神への奉献にまつわる、真にけち臭い話が随所に表れてまいりました。

 初代教会当時は原始共産制のようであったので、自分の土地を売って代金を教会に献げた者たちがいたようです。しかし、アナニアとサフィラは、土地は売ったのですが、その代金をみな献げるのが惜しくなったのでしょう。これが全部ですと嘘をついて一部分だけ教会に持ってきた。初めから、出来る範囲で献げればよかったのですが、全部献げているふりをして、神を欺いたと、ペトロに大変叱られることなります(使徒言行録5:1~6)。あるいは「信徒の友」2月号の特集は丁度「献金」です。そこにも悲しい話が書いてありました。「ある人が献金をストップした。それは教会の方針に賛成出来なかったからだ。」これは良いことではないことは誰でも分かると思います。ところが、私たちの中にもこういう気持ちがどこかにあるのではないでしょうか。今、東京教区は各教会から集めた教区活動連帯金を2年間に渡って拠出留保しています。その理由は、東京教区の意に反する他教区があるからだと言うのです。そのため、田舎で伝道している教会がとても困っています。そうなると、そのような教区に対しては、自分たちの負担金支出を止めよう、と言う教会も出てくるかもしれません。献金に躓いてしまうのです。

 御子イエスも「つまずき」(17:27)を指摘します。献金をしない者がいると、多くを献げている者たちは、何故「あなたたち…は神殿税を納めないのか」(17:24)とどうしても問いたくなる。献金しない者のことが気になってしょうがない。おそらく、ここで、ペトロの所にやって来た人たちも、金に対する拘りを持っていたに違いない。皆、嫌々でも、躓きでも、とにかく献げているのだ。イエス先生からも何としても取らなくてはならないという思いがあった。そこで主は言われました。「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」(17:27)主はここで、もう沢山だと思ったのでしょう。人々を金のことで、これ以上、躓かせたくない。そう言われて、主がペトロに促したことが思いがけないことに、魚釣りでした。ペトロが最初に釣った魚の口を開けてみますと、銀貨が一枚入っていた。それを取って、主は神殿税を納められたのです。

 「イエス・キリスト、神の子、救い主」というギリシャ語の頭文字を取ると「魚」という言葉になります。そのため古代教会において、魚は御子イエスを象徴しました。ペトロに釣り上げられた魚は、どうなったのでしょうか。死んだのです。その命と引き替えに一枚の銀貨が献げられる。この物語は、私は明らかに主の十字架の姿を譬えていると思いました。主は、神の子の宣言をなさった時、自分は王子だと、だから私に献げろと、力を奮って人々を支配したのではありません。あるいは自分は王子なのだから、父なる神に、何の捧げ物もする必要のないのだと言われ、ふんぞり返っていたわけではありません。それどころではない。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺される…」(17:22~23)。1万円どころではない。殺されるとは、いわば、父なる神から御子への納税の要求です。命を献げるのです。献金する必要がない王子が、むしろ誰もがしなかった莫大な献身を献げるのです。何故か。それは、もう一度引用致します。「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう」(11:27)。献金の話の中で、直ぐ躓き始める私たちのためにです。イエス様が自らの御子としての特権と命を、かなぐり捨てて献げられた姿を見た時、私たちは、献金にまつわるみみっちさと躓きからこの歌のようについに解放される時を迎えるのではないでしょうか。

 「主は命を惜しまず捨て その身を裂き 血を流した。
 この犠牲こそが 人を生かす。その主に私はどう応えよう。
 主は父なる神を離れ、暗くさびしい世に来られた。
 栄えも位もすべて捨てた 主のため私は何を捨てよう。」
 (讃美歌21-513番1~2節)

 さらに、主の献金が、私たちを躓きから立ち直らせる理由をもう一つ申します。納税のための銀貨一枚は魚の奇跡によって与えられました。注解書に、この奇跡と似ている神話が紹介されていました。嵐の中で翻弄されていた船乗りが、海の神々をなだめるために、指輪を海に投げ込みます。ところが、その指輪は、その船乗りが後に釣った魚の中に入っていた。そして指輪を取り戻すことが出来た、というのです。私はその物語を聞いて思いました。私たちの献金も、それに似て、一度、魚=御子イエスを通さなければ、本当に神に喜ばれる献身にならないのではないか、と。かつて私が属していた教会で、ある長老は献金感謝祈祷の時必ずこう祈られました。「私たちの欲の塊であるこの金を献げます」と。今もその会堂一杯に響く朗々たる祈り声を忘れることが出来ません。私は、それを何度聞いてもよく分からなかった。若い私は批判的でした。欲のかたまりである金を献げて神様が喜んでくれるのだろうか。もっと自分の心を清めて、純粋な金を献げるべきなのではないか。そう思って、私は献金のために、未だ欲で汚れていないと思われた新札を用いることにしました。しかし今長老の心がよく分かります。どんなに染みも皺もない新札を献げても、心の内の欲が献金を汚すのです。それを否定出来ません。千円札1枚を献げる時でも、何かしら不自由な思いを抱え込むようなところがあるのです。そういう本当に情けない心の持ち主である私たちのために、主は献身して下さったのです。魚の口から出た銀貨はペテロの分にもなりました(17:28)。私たちの欲の塊が、主の十字架の献身によって、奇跡的に捧げ物になるのです。私たちの裸の心だけで献金は出来ないのです。いつも金のことで躓くのです。私たちが罪人だということは、そういうところに現れるのです。しかし、主がその罪を贖い、その金にこびりついた欲を御血潮をもって洗い流して下さいました。

 そうであれば、献金が出来るということが、そもそも恩寵そのものだったのです。恵みがなければ、私たちの献金という礼拝行為もまた成り立たないのです。自分の手元に置いておいたら、つまらない欲の塊が、そこで変えられる。真珠貝の中に入ったゴミのかけらが、しばらく後に取り出される時、美しい真珠になっているように。私たちの献金は、必ず、聖餐卓に一度置かれます。それは一度魚の腹に入る銀貨を連想させます。聖餐卓という主の御献身の上に置かれた時、私たちの欲の塊もまた美しく変わる。父なる神が喜んで御自身への捧げ物として受け入れて下さる。その事実を知る時、初めて私たちは金の躓きから解き放たれる。欲の支配から解放される。それをキリストの十字架の献身は可能として下さったのです。本当に素晴らしいことです。

 祈りましょう。  主よ、ただ今から献金を致します。この献金を可能にして下さる、主の贖いの恵みを感謝します。それでいて、なお損得勘定から自由になれません。どうか、主が気前よく命を献げられた御献身をさらに覚え、私たちのみみっちい心を悔い改めることが出来ますように。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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