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2011年 1月 2日 主日礼拝説教 「土台岩の上に築く2011年」

2011年1月2日 主日礼拝説教 「土台岩の上に築く2011年」 

  説教者 山本 裕司
  マタイによる福音書 16:13~20


 今朝、2011年最初の主日に与えられた御言葉において、主イエスは教会を設立する御意志を明らかにされました。そのために、主はここで教会の構造を御指摘されるのです。家を建てる時、どういう構造にしたら嵐や地震に耐えることが出来るかを誰もが考えると思います。そうであれば、なおさら、主イエスは、決して倒れることなき教会を立てたいと、ここで特別な設計図を思い描かれたに違いありません。特に普通の家以上に、教会に打ち付ける風雨は激しいということを主はよく承知していました。外からの迫害の嵐、内からの誘惑の動揺が襲ってくる、それに耐えるための設計です。

 勿論、教会とは建物のことではありません。教会とはその原文からしても「信仰者の群れ」のことです。私たち一人一人が、教会の一部です。屋根や柱や壁は家を風雨から守ります。教会の一部である私たちも、そのように、礼拝を守り、祈り、奉仕し、この2011年も、教会を世の波風から守る使命があるのです。しかしその私たち一人一人に例えられる屋根、柱、壁自体が空中に浮いているわけではありません。私たちを、下から支えるものが必要です。それこそ「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)との告白であり、主は「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(16:18)そう続けられて、この信仰告白こそ、教会の基礎、土台石となると教えて下さったのです。

 そう考えますと、私たちは随分重い責任を負っていると思います。この教会を支えているのは、私たちの信仰である、と言われるのです。土台というからには、相当しっかりしていなくてはいけないと思うのです。それはそうでしょう。礼拝に来ること自体が大きな信仰告白です。今朝(1月2日)、もし誰も教会に集まらなければ、2011年の内に西片町教会は倒れてしまうことでしょう。イエスのことを、せいぜい、洗礼者ヨハネだとか、預言者の一人だ(16:14)と呼ぶ世界の中、皆が神社に参る朝、その流れに逆らって礼拝に馳せ参ずることを可能とする「イエスはメシア」との信仰こそ、1年、私たちの愛する西片町教会を守る力であります。実際、正しく告白をなして、イエス様に喜ばれた弟子シモンは「あなたはペトロ(岩)だ、まさにペテロ(巌)だ」(16:18)と呼んで頂いたのです。巌さんと聞いて、どんな男を思い浮かべるでしょうか。岩は、揺るぎなきものを象徴します。そういう巌のごとき信仰をペトロはもつことが出来たのでしょうか。私たちは、いかに、ペトロの信仰が揺れ動くものであったかを知っています。カール・バルトは、今朝の箇所の説教において、ペトロに関わる新約聖書の箇所を次々に引用してみせました。ペトロは、自ら望んで海の上に主と共に立ったのに、強風を恐れて沈み助けを叫んだではないか。ペトロは、ゲツセマネの園で、主と共に目を覚ましていることが出来なかったではないか。彼は、大祭司の庭で、イエスを否認したではないか。教会設立後も、使徒パウロは、ペトロの福音の不徹底さを厳しく叱責しています。バルトは結論として「彼は、まさに岩のような、堅固な揺るがぬものを、彼の性格の中には全く持っていなかった」と書きました。では、その決して岩になり得なかった男の信仰告白が、教会の礎となるとは、いったいいかなる意味があるのでしょうか。
 
 そこで思い出すのは、佐藤敏夫先生の『高倉徳太郎とその時代』です。高倉徳太郎とは信濃町教会の牧師であり日本神学校の教頭であり、優れた神学者でもありました。しかし、彼は、その重責の最中自殺したのです。後に公になったこの事件は、キリスト教会に様々な波紋を投げかけました。これで高倉先生の信仰が間違っていたことが証明されと批判する者もあったのです。それらに反対して、佐藤先生ははっきり高倉はうつ病で死んだと書きます。「肉体の病気なら、それにもかかわらず精神はしっかりしているということが十分にありうる…肉体の病に対して精神は信仰的に十分立ちむかえるのである。しかし心の病はそうではない。心の病に対しては信仰が立ち向かうことは非常に困難となる。信仰があるのならば、うつ病にはかからないはずだというのは行きすぎた議論であろう。信仰があっても、ある状況におかれた場合、また素質がある場合、十分にうつ病にかかりうるのである。…うつ病にかかっても、心の病なのだから、信仰によっていやし得るはずだというのは極端な議論であろう。…もっとも、信仰が人間をうつ病にかかりにくくすることはあるであろう。また、信仰が人間のうつ病をいやしやすくするといこともあるであろう。しかし、これはあくまでも程度問題である。どういう信仰をもつにせよ、環境と素質によって、うつ病にかかる人はかかるのであって、信仰をもてば、絶対に安全とか、必ずいやされるとは限らないのである。」そう論じながら佐藤先生は「人間の救いには当人の自覚的信仰が絶対的に必要であるという考え方に疑義をいだくものである」とさえ言いながら、最後に語るのは、初期バルトのこの言葉です。「『信仰とは空洞である。』信仰とは教義的知識でも、宗教的体験でもなく、また深い敬虔でも、…高度の宗教性でもないのであって、『空洞』としか言いようのないものである。」

 「信仰とは空洞である」というバルトの言葉を理解するために、私たちは私たちの礼拝堂を見渡しても良いと思います。私たちの会堂はとても美しいものですが、しかし、この中に、ご神体もなければ、彫像もありません。やはり空しい空間です。しかし、空洞とは、そこに何かが満たされることを待っている姿でもあるのです。最初から、その中に何か「自前の宝」が詰まっていたら、外から、何かが入り込む余地はありません。クリスマスの物語の中に「宿屋には彼等の泊まる余地がなかったからである」(ルカ2:7)という言葉があります。立派な宿屋に御子イエスが宿るスペースはない。既に満員だったからです。私たちの会堂も「飼い葉桶」のようなものであって、外から何かが注ぎ込まれ、充満するのを期待して待っている場です。今、クリスマスの話をしましたが、実は、今朝の箇所は、聖霊降臨日に読む習慣があります。教会は、聖霊のお力なしに設立することはないからです。先ほどは、信仰告白が土台となって、教会は立ち上がると言いました。しかし、ここからさらに、私たちは、信仰告白という土台石の周りを掘っていかなくてはなりません。すると、私たちの信仰という土台石は、ほんの小石であることが分かるのです。それは、病気に英雄的に立ち向かい、病なんて吹き飛ばしてしまうような巨石ではない。それはとても小さい。それを見て、ああ何と頼りないと思いながら、さらにそこを掘っていくと、その小石は、実は文字通り「氷山の一角」であって、地面の下に、巨大な岩が控えている、そういう話となるのです。神の子イエスは言われました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(16:17)信仰告白が現われるのは、人間業じゃない。天の父、つまり神の力によると言われた。それは、全く同じ意味において、ペンテコステ以後、それは「聖霊」のお力と言われるのです。そこまで、教会の構造は掘り進んで、初めて完結する。聖霊が一番底から、巨岩の土台となって、私たちの信仰告白を支え、洗礼を導き、教会を建てていたのです。だから教会は揺るがないのです。

 そこに建てられた教会は「陰府の力もこれに対抗できない」(16:18)そう主は断言されました。陰府とは死者の国です。地の下は死が支配している。ある時、陰府の門が開いて地上を生きる人間を引きずり込む。それが陰府の勢力、死の力です。だから私たちの建てるどんな立派な家も、人生もまた不安定です。ある夜、高倉先生の足許にもその陰府の門が大きく口を広げたのだと思う。心の病だけでもないでしょう。肉体の痛み、苦しみがどれ程、私たちの人格を、信仰を圧倒するか、多くの人が経験しています。そうやってずるずる陰府に引きずり込まれ、尊厳ある信仰も保てなくなった時、つまり空洞となった信仰、飼い葉桶のような貧しい信仰、だからもう何もかも終わったと思う瞬間、かし、思いがけず、そこに神の子イエスが宿るのです。「あなたは…生ける神の子です」(16:16)、そういう神の子を信じるのが信仰告白です。同時に聖霊も吹き込まれる。何故なら、空洞にこそ御子は宿り聖霊は吸い込まれるからです。そこで、私たちの無に等しい信仰告白という小石が、いつの間にか巨石と一つとなる経験をすることが出来る。御子イエスと聖霊という巨岩に、私たちの小さな信仰告白が結びついてしまう。だから揺るがないのであります!

 どんなに体や心が病んでも霊的「命」は守られるのです。陰府の門が、その巨石たる土台石、復活者・キリスト・イエスによって、塞がれてしまうからであります。この事実を、私たちは告白するのが、私たちの信仰告白です。「あなたはメシア」(16:16)この告白は「私ではない、私の強靱な信仰によってでもない「メシア(キリスト)が私の救い主である」という意味です。これこそ私たちの人生と、教会の基礎なのです。

 私たちの虚無のただ中に、神の子イエスが宿って下さる。虚無が、聖霊によって満たされる。一方的な恩寵として、メシアの救いを頂戴することが出来る。病も死も罪も悪魔も、この教会を打ち倒すことは出来ない。誰にも、この土台石に立つ教会にしがみつく私たちの人生を倒すことは出来ない。それを知って始めるこの一年は、何と安心なことでしょう。


 祈りましょう。  主よ、この新年の朝、陰府の力に勝る場に集うことの出来た幸いを思います。この一年、何があるか分かりません。だからこそ、どのような時もこの2011年、喜びの日も、心挫ける時も、晴れの日も、雨の日も、変わることなく、教会への巡礼を続けることが出来るように私たちを導いて下さい。また、病の故に、老いのために、愛する者のお世話の故に、ここに来ることが出来ない者もまた、祈りにおいて、同じ土台石に常に連なることを覚えて、互いの信仰を励まし合う一年として下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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