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2010年11月14日 主日礼拝説教 「神の言葉を無にせず」

2010年11月14日 主日礼拝説教 「神の言葉を無にせず」

  説教者 山本 裕司
  マタイによる福音書 15:1~9 


 レントと「対」となる悔い改めの季節、典礼色を「紫」とするアドヴェントが近づいています。今朝、差し掛かりましたマタイ福音書15章で、主は預言者イザヤの痛烈な言葉を引用しました。「この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。」(マタイ15:8~9)主は7節で、イザヤのことを誉めています。この預言者は、こういうおかしな信仰者が現れることを言い当てた。「お見事」と言われた。こんな評価を預言者に与えなくてはならなかった、主イエスのお気持ちはどんなものだったでしょうか。むしろ、これだけは外れてもらいたいと主は、思っておられたに違いないのです。しかし、当たった。当たったから、6節に記されるように「神の言葉を無にする」紫の季節が始まるのです。

 1節に戻りますと、ファリサイ派の人々と律法学者は、御受難の舞台「エルサレムから来た」と書いてあります。ここに既に、この出来事が、今の季節の先取りがあることが暗示されている。彼らは、主イエスの弟子たちが食事をする前に、手を洗わなかったことを問うためにわざわざ都から来た。注解書には、エリコ経由で180㎞とありました。人は裁くためにはかくも熱心になるのです。確かに神は聖なる存在です。ですから礼拝者の身も清まっているべきだ。日常生活の中で汚れたものに接触したかもしれない。だから食前に、その汚れを払拭しなくてはいけない。それが食前の清めの儀式です。しかしそれが聖書に書いてあったわけではなく、それは「昔の人の言い伝え」(15:2)でした。聖書の掟を、具体的な生活の場に当てはめる聖書解釈のことです。

 こういうファリサイ派、律法学者の主張を簡単に否定出来ないと思います。これは神様の前に出る心構えの問題です。聖い神の前に出る。それは私たちの生活の中で、真に厳かな瞬間です。『大草原の小さな家』には、家族は、安息日を迎えるために、土曜日だけ、お風呂に入ると書かれてあります。そのように襟を正して礼拝に臨む姿勢を、それは形式主義だと言って否定することは出来ないと思います。しかし主イエスは、そのファリサイ派の問いを聞いた時に、あなたたちは何て立派な信仰者だとお褒めになられたのでない。逆です。明らかにイエス様は怒っておられます。そして突然取り上げられたのが「父と母を敬え」という十戒です。神の言葉はこうだと。ところがあなたたちの「言い伝え」はこう言い換えてしまっている。「父または母に向かって、『あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする』と言う者は、父を敬わなくてもよい、と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」(5~6)息子は、老いた父母の生活を助けなさいということが、この十戒の理解の一つです。ところが、ただ一つだけ、子が両親に援助をしなくて済む方法がある。それは、自分の富は「供え物です」と言えば良いのです。マルコ福音書は、そのことを「コルバン」というアラム語でそのまま記しました。マルコにとって、よほど印象深い言葉だったからだと思います。「これはコルバン!」殺し文句です。老いた父親がやってくる。「なあお前、金を援助してくれないか」そう願った時に「これはコルバン、神様への供え物です」と言えば、父母に財産を渡さなくてもいい。それは十戒違反にはならない。そういう聖書解釈です。この解釈も直ぐ悪いとは言えません。これは、財産を譲り渡そうとする時、神が先か、人が先かという信仰の話となるからです。

 ここまでのファリサイ派の「言い伝え」は、二つとも間違っていない。では何故イエス様はこれを否定されたのか。そこで、この箇所を注解する多くの人たちが思い出すのは、主の十戒解釈です。主イエスも掟をそのまま、言っておられただけではなく、解釈された。律法の中で、どの戒めが一番大切なのかという問いに対して、主はこう答えました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイ22:37~39)

 (ここで、私たちは、あのルカの語る「善いサマリア人の譬」(ルカ10:25~37)を思い出すべきでしょう。エリコ途上に旅人が倒れている。通りかかった祭司とレビ人はそれぞれ、道の向こう側を通って行きました。半死半生の者の汚れに触れたくなかったからです。そうやって彼等は、やはりゲネサレトまで、汚れを洗い流さなかった者を裁くために遠路旅をしたのでしょうか。そこには見当外れの熱心があるのです。律法の核心たる「隣人愛」の方には、彼等の心は少しも燃えないのです。)

 ここで、主の律法解釈と、ファリサイ派の律法解釈である「言い伝え」とがぶつかり合っているのです。ファリサイ派の言っていることは、確かに間違っていない。しかし、主のご覧になられるところ、ファリサイ派の語る戒めの中には、愛が少しも見えてこないのです。主が知っておられる十戒の本質が見えないのです。 次の「コルバン」も同じです。親を憎んでいる者が、父母に金をやりたくないので、「コルバン」と言って、神殿に財産を献げてしまうようなことがあったらしいのです。今でも、これは話が逆ですけれども、自分の子を嫌って、遺産の全てを福祉事業に寄付してしまう、そういう親がいるという話を聞きます。それに似たことが起こったのかもしれません。それを、ファリサイ派は、神への大きな献げ物として賞賛したかもしれない。しかし、それがどんなに一見信仰的に見えても、その裏側に見え隠れしているものは、愛じゃない。憎しみです。それは掟に反すると、主は言われるのです。愛なき世界は、神の言葉を無にします(15:6)。どんなに掟と規則を守っても、神の眼差しの中では、無になるのであります。やがて、人のこの思いとは、コルバン「神のために」と言いながら、その信仰の名において、愛そのものである御子を殺す紫の季節を生み出していくのです。

 三浦綾子さんの作品に『ひつじが丘』があります。この物語の舞台は札幌です。美しい女子高生奈緒実が最初に愛した男は同級生の兄であった。その奔放な性格が、若い奈緒実には魅力的に思えました。とうとう結婚したいと願うようになって、両親に紹介する。ところがいつもは物分かりが良い牧師の父は、いきなり反対した。奈緒実は理解できないまま、情熱にまかせて彼と結ばれてしまう。ところが、父の見立ての通りでした。彼はまともに働こうとしない。たしなめると暴力を奮う。酒を飲む。女を作る。とんでもない男であった。とうとう愛想をつかして奈緒実は実家に帰ります。夫が謝りにくる。しかし彼女は赦さない。しかしやがて彼は病気になって牧師館で生活をするようになり、少しずつ変わっていきます。酒もやめます。その頃から、彼は一つの絵を描き始める。奈緒実にクリスマス・プレゼントとするのだと言って熱心に描いている。しかしそれにも彼女は関心を示さない。クリスマス・イブの夜、夫は以前の女との関係を清算するために出て行きました。ところが帰らせまいとする女から睡眠薬を入れた酒を飲まされ、それでも振り切って外へ出た彼は、道で眠り込みます。札幌のイブの夜です。帰らない夫を思って、どうせ女のところに泊まったのだろうと思った奈緒実は嫌悪感を覚えるばかりであった。もう別れようと決心した。その瞬間、彼が死んだとの知らせが入ります。死体を見た時彼女は直感した。「私の冷えきった心が、彼を凍死させたのだ」と。そこには夫がクリスマス・プレゼントだと言った、布に包まれた一枚の絵がありました。そこに現れたのは、十字架につけられたキリストの受難の姿でした。キリストから血が滴り落ちている。その十字架の下にキリストの血を浴びて見上げている男の顔、それはまぎれもない夫の顔であった。その男に、キリストは十字架の上から、憐れみに満ちた眼差しを注いでいる。奈緒実は思います。「夫は赦しを求めていた。そしてイエスに赦しを乞い、そして赦されたことを信じて死んだ。でも私はあの人を赦さなかった。」夫を自分は裁いた。碌でなしと断じた。しかし彼はいつのまにか、自分よりずっと高い所に生きていたのだ。何故なら、自分が赦しなしには生きられない存在であることに気付いていたから。そういう物語です。

 私たちにとって、礼拝の身繕いとは何でしょうか。それは清めることです。手ではなく心を清めることです。しかし心を清めるということは、私たちの罪汚れが一かけらもなくなったと胸張ることではありません。むしろ逆です。自分が罪人だということを、思い出すことです。私がキリストを十字架につけた、イザヤの預言した「この民」だと認めることです。人を愛することの出来ない罪を、その御言葉をもって私たちは思い起こす。そのためにどうしても、主の十字架の血潮を頂かなくては、生きられないと思うことです。御前に立つ資格を得るということは、逆説的ですがむしろ私たちは神の前に出る清さはないと、知るところから始まると思う。だから三浦さんは、物語の中で、夫がただの一度も礼拝に出席しなかったことにしています。それと対照的に牧師の家族たちが毎週礼拝を守っている姿を置いた。「この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。」(8~9)そして、神の御前に出る資格はないと思った者をこそ、主は憐れみをもって受入れて下さり、御血潮をもって、その罪の汚れを洗って下さるのです。

 私たちは礼拝をしながら罪を犯すのです。礼拝の中で、息子が神殿に、全財産を献げてしまう。その心の背後に、厳しく律法を強制した父がいたのかもしれません。幼い頃から息子はその愛なき厳格さに苦しみ成長した。そして父が年老いて弱った時「お父上、お父上が教育して下さった通り、今こそしましょう。神を最優先しようではないですか。みな神殿に供えます、コルバン!びた一文、パン一かけら、あんたにはやらない!」そう言ってのけたかもしれない。その時、老いた父の目から涙が流れるのを、始めて息子は見たかもしれない。その時、息子の目にも何故か涙が溢れ、思わず、皺だらけの父の手を握ったかもしれない。父と子が自分の罪を思い、愛無き家を作ってしまったことを悔いて、泣いた時、初めてこの二人に、親子の愛の絆が生まれ始めるのではないでしょうか。主が求められる神の戒めに生きる世界とは、このようなものだったのです。


 祈りましょう。  主よ、あなたの御前に出るのに、あまりも汚れている者です。しかしあなたは、憐れみをもって私たちの汚れを拭い、礼拝の交わりをお許し下さいました恵みに、感謝します。
このあなたの愛に倣って、私たちも隣人を愛し、赦すことを学ぶことが出来ますように。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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