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2010年10月3日 主日礼拝説教 「毒麦が新種だったらどうする」

2010年10月3日 主日礼拝説教 「毒麦が新種だったらどうする」

  説教者 山本 裕司
  マタイによる福音書 13:23~43


 主イエスは天の国のたとえを多くお語り下さいました。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍…の実を結ぶのである。」(マタイ13:23)
「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(13:31~32)これらは、所謂並行記事と言って、マルコにもルカにも同様の言葉があり広く流布していたことが分かります。初代教会の人々が、これを喜んで何度も語り伝えてきたからに違いありません。その人たちは、このたとえを、自分たちの教会に当てはめて覚えたと思います。御言葉という種がこの地に落ちる。するとそれは、最初は小さなものだと思ったけれど、たちまち成長して、我々の教会のように大きくなるのだ、そう喜び誇る気持ちで読んだのかもしれません。

 この13:23と13:31以下の2つの天の国の爆発的成長について語るたとえの間に、今朝与えられた「毒麦のたとえ」が置かれました。これはマタイだけが知っていた御言葉です。ある学問的な注解書は、この毒麦のたとえを発見したマタイは、このたとえを福音書のどこに置くべきかと考えた時に、この天国の成長を語る箇所前後が最もふさわしいと考えたのではないかと分析しています。そうであるなら、それは明らかに、マタイ教会の深刻な悩みがそこに反映していると推測出来るのです。

 教会は、時に大きく成長します。ところが、ああ教会が大きくなったと思って見回した時、信者たちの中におかしな者がいることに気付くのです。その信者に足を引っ張られるようにして教会成長が止まる経験をする。あるいは成長は相変わらずかもしれませんが、その成長自体が歪んだものとなっている。毒麦のたとえとは、そういう教会の悩みを先取りして、イエス様がお語りに下さったという理解です。

 畑に神様が良い種を蒔く。ところが夜の間に悪魔がやってきて、同じ畑に毒麦の種を蒔いて立ち去る。僕はいつものように水をやり、肥料をやり、収穫を楽しみにして働きます。最初は気付きません。ところが、だんだんそれが異質なものであると分かるのです。何ということだと思って僕は主人に言います。「『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』」(13:27~28)と言いました。僕には強い憤りがあったことが原文の語調から分かると解説している人がいます。

 教会の内紛を経験しなかった教会はないと思います。争い始めると、相手を、教会に芽生えた毒麦であると考えることが多いと思います。相手は相手で、こちらを毒麦だと言うことでしょう。毒麦対決です。ついに互いに排除し合った結果の教会分裂が起こります。そして正しい者だけの理想的教会を立てようとする。マタイ教会がこのような危機に瀕していたのではないかと想像することが出来るのです。教会は、真理を追究する場です。信仰の正しさを守り抜く使命があります。それは正しい。使徒パウロが、ガラテヤの信徒への手紙の中で、どんなに異なる福音・異端と激しい戦いをしたかを忘れることは出来ません。しかしそれでも、衝突が起きた時、教会は深い悲しみ痛みを感じます。そこで、心ある人が祈り求めずにおれないのは主の言葉を聴きたいということであったと思います。解決がつかない。引き裂かれる苦痛です。その時、私たちは祈る。御心はどこにあるのですか、と。そのマタイの祈りが、この毒麦のたとえの発見によって叶えられたのかもしれません。「御言葉があったぞ!」教会の蔵の奥底に、何十年も眠っていたパピルスが見つかる。それを読んであっと驚く。今の我々に語りかけてくる御言葉であった。「さあ、皆で聴こうではないか。」そうやって、礼拝を始めたのかもしれない。新発見の御言葉が朗読が終わる頃、刺々しい心が和らいでくる。釣り上がった目が緩み涙が溢れる。優しい心が戻ってくる。その劇的な経験が、マタイ教会だけがこの御言葉を宝のように福音書に保存した理由だったのかもしれません。

 怒りまくって「毒麦を抜きましょう」と訴える僕に対して、主人は、つまり神は最後に言われます。「『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」(13:30)「刈り入れの時」まで、待ちなさい。その時には焼くこう。しかしそれをするのは、あなたたちではない。後に主は「刈り入れる者」とは天使だと解説して下さいます(13:39)。神御自身がするという意味です。どうして私たちは、毒麦除草に、乗り出してはいけないのでしょうか。繰り返し引用しますと、その理由は「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」(13:29)からだと言わるのです。つまり人には、誰が良い麦で、誰が毒麦か、結局分からないところがあるという意味です。主の御覧になられるところ、私たちは自分で自分を思うほど善悪に対して目利きでないということです。あいつこそ毒麦だと思って、引っこ抜いたら、それは少々生育が遅れているだけのことであって、収穫の日まで待っていたら、自分よりも見事な麦に成長するものだったのかもしれない。あるいはむしろその麦畑全体の将来を決する優れた「新種」だったのかもしれません。

 もう一つの解釈はこうです。正しい人間が、間違っている人を抜く。夢中になって抜く。そうしている内に、自分こそが抜かれねばならない存在に堕してしまう。つまり抜くこと(裁くこと)に夢中になっている内に、あなたの信仰自体が変質し毒麦にいつのまにかなってしまう。そういう解釈があります。これは私たちの人生の中で思い当たることではないでしょうか。自分こそ正しいと思って、誤った者を力尽くで排除している内に、心の中がだんだん荒れてくる。それこそ、夜「眠っている間に」(13:25)心の中に敵(悪魔)が毒麦の種を蒔いていくのです。それなのに、自分では益々良い麦が増えたと思っている。その高慢の中で、あいつも敵だ、こいつも敵だと思い始める。真理のための戦いをしている者の話を聞くと、最初は、対抗してくる敵にだけ反撃しているのですが、その内、おろおろしている弱い人たちを見て「あいつは傍観者の罪を犯している」などと言い始める。さらに、味方同士の中で、運動方針が違うと言って「奴こそ実は隠れた敵であった」などと裁く。そういう所で、実は自身の心の中に毒麦畑が無限に広がっていくのに気づかない。益々自分の麦畑は大きくなったと誇示する。主イエスはそのような義の追求の中で、最も罪深くなる私たちを憐れまれました。そしてたとえをこう解説されるのです。「刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。」(13:39~40)天使は良いことをして下さる神の使いです。その天使たちが終わりの日に、毒麦(罪人)を集めて火で焼かれる。その真の意味とは、私たち毒麦人間を滅ぼすことではなく、私たちの魂の中にはびこってしまった毒麦を、御子の十字架の炎をもって焼いて下さる、そして私たちを罪から贖なって救って下さるとの意味ではないでしょうか。

 主は、また、別のたとえをお話し下さいました。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」(13:33)これは少し不思議な言葉です。ユダヤの世界では、普通パン種は悪い意味に用いられるからです。奴隷のイスラエルが自由を求めてエジプトを脱出する時、時間が切迫していたため、練り粉にパン種を入れることが出来ませんでした。その後、これを記念して過越の祭と一つのこととして行われる除酵祭(種入れぬパンの祭)の間は家の中に酵母を置くことも禁止されました。これはイスラエルの純潔、純粋を守る決意のしるしでもあったのです。主イエスもパウロも、別の箇所で「パン種に注意せよ」と警告しています。

 ところが主イエスは、ここでだけは、パン種を良い意味に用いられました。それはこの毒麦のたとえと深い結び付きが暗示されているのではないでしょうか。イエス様と敵対した派「ファリサイ」の意味は「分離主義者」だそうです。私はあいつと違うと、いつも分離し、自分たちこそ純粋、純潔のイスラエルと誇りました。そうやって排除したのは、当時の罪人、徴税人でした。しかし主の周りには、そのような罪人、弱者が沢山集まってきました。主が異分子を受け入れて下さった時、そしてそこに思いがけない膨脹が起こるのだと言われている。古いユダヤ宗教に、イエスというパン種が入る、同時に、弱い者、罪人というパン種が入った時、教会が生まれました。主イエスは、罪人を天の国から排除するために来られたのではない。逆です。もうお前なんて、天国に行けるかと、ファリサイ派から言われた人たちを、主は探すように旅され「あなたも入れるよ、そのために私があなたの罪の毒麦を焼いてあげよう」と招いて下さいました。私たちは元々原罪をもつ毒麦です。しかしそれを十字架の炎をもって焼き滅ぼして下さる。その恵みを思う時に、私たちは、例え毒麦と一見思われる人が現れても、その人に対する態度は異なると思う。「私もあなたも、元々毒麦であったのに、等しく主の愛の炎で清めて頂いた存在ですね。だから受け入れ合って、互いに何が真の信仰か祈り求めていこう」と、分裂の危機にあったマタイ教会は、すんでの所で悔い改めることが出来たのではないでしょうか。

 そうやってパン種のような多様な人を受け入れた時、教会は本当に正しく膨らみ始めます。ユダヤの狭い枠を越えて異邦人世界に拡がり、あらゆる異質な文化を取り入れながら、やがて教会は世界を覆う。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」異質な者が入った方がよかったのです。これまで通りの純粋(と言われるもの)を保とうした時、それは結局、干からび薄っぺらな煎餅のような教会、もはや教会のミイラだけが残るだけだと、主は言われているではないでしょうか。


 祈りましょう。 主よ、あなたが異質な私たちを受け入れて下さった恵みを覚え、私たちも互いの違いを越えて共に教会を建てていくことが出来ますように。

  (暗澹たる思いで、第37回教団総会を終えた後、書き改めた。)




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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