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2010年 9月12日 第17回日韓合同修養会

2010年9月12日 第17回日韓合同修養会 ソウルチェイル教会主日礼拝説教    「勇ましい高尚なる生涯」 

  説教者 山本 裕司
  ヨハネによる福音書 12:24~25

 今から60年前、千葉県検見川(けみがわ)で、古代人の使用した丸木舟1隻と、オール6本が発掘されました。その地は「縄文時代の船だまり」と推測されました。続いて、植物学者・大賀一郎(1883-1964)は、地下約6㍍の泥炭層からハスの実3個を発掘しました。それが弥生時代(約2000年前)のものであることが判明してニュースとなりました。大賀は発芽を試み1粒の発芽に成功しました。やがて、そこにピンク色の見事な古代ハスの花が咲き「世界最古の花」として有名になりました。

 この大賀先生は、青年時代、岡山基督教会で受洗し、その後一高に進学すると直ぐ、内村鑑三の聖書講義を受講したキリスト者でした。それは上京前に既に内村の『後世への最大遺物』を読み感銘を受けていたからでした。『後世への最大遺物』とは、内村が1894(M27)年、キリスト教青年会夏期学校でなした大変楽しい講演です。そこで内村は人が後世に残せる遺物として、第一に金を、第二に事業、第三に思想をあげています。しかしそれらに勝る「後世への最大遺物」を、内村は「勇ましい高尚なる生涯」と呼びました。彼はそこで、マウント・ホリヨーク・セミナリーという世界を感化する力を持った女学校を紹介します。その力は、メリー・ライオンという教師が「勇ましい高尚なる」生き方を、以下のように、女学生に教えたからだと言うのです。

 「他の人の行くことを嫌うところへ行け 他の人の嫌がる事をしろ」

 これを読んだ大賀先生が発見した一粒の種と同時代人・イエス様はこう言われました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)まさにこの主イエスこそ、後世への最大遺物であられ、他の人の行くことを嫌うゴルゴタに行かれ、他の人の嫌がる十字架につく事をされました。そうやって自分の命を憎まれたからこそ、後世に多くの実が結んだのです。そこに内村鑑三が、さらに大賀一郎が結実する。また後に申しますが、朱基徹(チュ・キチョル)牧師など、世界中に自己犠牲を厭わない「勇ましい高尚なる」魂が芽吹きました。古代ハスが2000年の眠りから覚めて、今、日本のみならず、世界中に株分けされ、命漲らせ、美しい花を咲かせているのは、その象徴のように思えます。

 今回の日韓合同修養会の課題の一つは、韓国併合の暗黒時代に、朝鮮の民と連帯した日本人キリスト者を紹介することでした。しかし「韓国キリスト教界の中で、日本人牧師の態度が、称讃され記録に残っているものは、皆無に等しい」(澤正彦『南北朝鮮キリスト教史論』)と行き成り言及され、これは困難な課題であることが分かりました。また最近、日本では、神学者古屋安雄の『なぜ日本にキリスト教は広まらないのか』がよく読まれていますが、そこにはこうあります。「日本の主流的なプロテスタント教会は殉教者の出ない教会である。ホーリネス教会などに殉教した牧師たちが数人いたが、主流教会には一人もいない。宣教師にも牧師にも、信徒にもただの一人もいない。これが韓国の教会との違いである。」つまり日本の教会は主の言われる「自分の命を愛する者」(12:25)でした。一方、韓国の教会は「この世で自分の命を憎む人」でした。これが典型的に現れたのが神社参拝問題です。1938年6月末、日本基督教会大会議長であった富田満が、神社参拝拒否の長老教会を説得するために平壌を訪れました。警官護衛のもと富田は「神社は宗教でなく、国民儀礼であって罪ではない」と講演したのに憤激したのが朱基徹牧師でした。彼は「神社参拝は第一戒を破っているのに、どうして罪にならないのか」と富田と論戦し、爾来、反対運動に生命を賭すことになります。同年、第27回朝鮮耶蘇教長老会大会で神社参拝は強行採決されました。なお反対を貫いた2000名が投獄され、200以上の教会が閉鎖され、朱牧師以下50余名の牧師等が殉教の死を遂げました。朱牧師は、電気ショックを受け、木刀で殴られ、生爪をはがされ、尿道にアルコールランプの芯を差し込まれました。拷問の様子は家族に見せつけられました。しかし呉貞模(オ・チョンモ)牧師夫人は、朱牧師に「韓国教会の一粒の麦になって、この教会に多くの実を結ばせるようにして下さい」と励ましたのです。牧師は拷問中も「人間はすべて同じ、天皇も、神を信じず過ちを犯せば地獄に落ちる」と断言しました。彼は、1944年4月21日、49歳の若さで平壌刑務所で殉教します。拷問で爪はすべてはがされ、遺体は骨と皮だけになっていました。一方、富田は、1941年6月24日、日本基督教団初代統理者に就任し、直後、自ら進んで伊勢神宮を参拝しました。戦後も自らの戦争責任を否定し、キリスト教界の要職を歴任して78歳の天寿を全うしました。

 現在、私たち日本基督教団は教勢低迷に呻吟しています。それに対して、韓国はキリスト教大国となりました。その理由を、歴史学者金田隆一氏はこう指摘しました。「朝鮮キリスト者の神社参拝に対する抵抗と殉教こそ、独立後特に韓国における教会の隆盛の最大の要因であり、70年代の韓国民主化闘争の担い手となったのである。」教団が伝道停滞に悩むなら、この言葉こそ、大きな示唆を与えるのではないでしょうか。かくして、主イエスの御言葉がまさに真実であったことが、2000年後の東アジアで明らかになったのです。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」

 最後に、韓国併合時に、内村の言う「勇ましい高尚なる生涯」を、自らの限界の中で、何とか果たそうとした3人の日本人キリスト者を紹介して、私の責任を果たしたいと思います。先ず、この内村鑑三こそ、日本の朝鮮侵略に対して批判的であり、朝鮮を尊重しました。「朝鮮は政治的自由と独立を失ったが、心霊的自由と独立を獲得しようとしている。神は、朝鮮に軍隊を賜らなかったが、聖霊を下された。昔ユダヤが政治的自由を失ったが、宗教によって西洋を教化したように、朝鮮は新たに福音に接して、東洋の中心となり、東洋を教化するように、自分は期待する。」(1907年)これに対して日本は、地上に多くの植民地を得たので、霊において多くのものを失った。そこに、士気の衰退、道徳の堕落、社会の崩壊が起こっただけではいかと酷評し、内村は今朝の御言葉に近似のマタイ16:26を引用するのです。たとえ日本の領土が膨脹して「全世界を手に入れても、自分の命〈霊魂〉を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(1910年)と。

 次ぎは、私の前任地、四国の大洲の隣町・新谷出身の鈴木高志牧師を紹介します。彼は、1915年、郡山(クンサン)日本基督教会、1918年以後、釜山(プサン)日本基督教会を歴任しましたが、朝鮮に対して大変同情的でした。彼は、1919年に「福音新報」で三・一独立運動について、正確な報道、論評をなしました。「大体は朝鮮人の方は至って平和手段、騒動したのは日本人という実情でありました。…真に戦慄に価する悲惨事で、私共は同胞(日本)の大いなる罪悪の為め衣を割いて嘆くのであります。」また「暴動は鎮圧出来ても、鎮圧のできぬは朝鮮人の精神であります。彼等の排日思想であります」と語り、排日思想の最大の要因として「日本の主我的帝国主義」を指摘しました。「所謂排日思想なるものは日本の主我的帝国主義の影なのです。影を憎む前に先ず自身を省みる必要がありましょう。『国威を海外に輝かす』とか『大に版図を弘める』とか『世界を統一する』とかいうようなことを日本の理想として進んでいった結果が隣り近所、皆排日となって今日の八方塞がりを招いたのであります。」

 彼はこの記事を書いた直後の釜山におい」て、スペイン風邪によって、2児を同時に失うという悲劇に遭遇します。しかし、それによって肉の思いを砕かれ、主イエスを目の当たりに見るという経験をしました。そして、一切のものを打ち捨て釜山で福音伝道に粉骨砕身邁進しました。やがて、その厳しい生活に疲労困憊し療養先の松山で死去した時、辞世の歌を残しました。「一すじぞ、ただ一すじぞ 大いなる 神に仕うる 一すじの道」と。この鈴木家の歴史を調べますと、長兄・高志だけでなく他の弟妹も、皆キリストに献身し、殉教に匹敵する生涯の終わりを迎えた者たちです。この家族の子孫は、現在、北支区内の信濃町教会の長老として大変良い働きをしています。一粒の種として、この兄弟は皆死にましたが、それが故に、主の約束の通り信仰の命が受け継がれて今も新たなる花を咲かせているのです。

 3人目は、乗松雅休(のりまつ・まさやす)を取り上げます。彼は朝鮮でキリスト教が弾圧され悲惨な状態にあることを知ると、朝鮮伝道を決意しました。1896年末、ソウルに渡り、やがて水原(スーウォン)に移り、苦しい伝道活動を始めました。彼はただ福音のみを単純に語りました。しかし彼の生き方そのものが福音を証しする「勇ましい高尚なる」ものでした。彼は、日本人に対する不信と憎悪に満ちる朝鮮人の中に入り、同じ言語、同じ衣食で、生活を共にしました。一家は極度の貧しさと飢えに苦しみました。そのため、妻常子は、1908年、病のために33歳の若さで死去しました。彼女は生前、自分の黒髪を切って売り、頬かぶりをして歩いたのです。乗松が、病を得て帰国する時、20里30里の遠方から人々が集まってきました。そして涙を流して別れを惜しんだのです。当時、朝鮮人は、日本人が引き上げると言えば、悪魔を払うような心持ちで、別れを惜しむどころではなかったにもかかわらず。彼が養生していた時、三・一独立運動が起きました。彼は朝鮮同胞を心配し、病をおして水原に赴きました。しかし自重を奨めたため民衆から批判も受けましたが、危険を冒して訪れた彼を歓迎する信徒も多かったのです。1921年の乗松の葬儀の時、朝鮮より駆けつけた伝道者の言葉が残されています。「世の中に英国人になりたい人は沢山あります。米国人になりたい人は沢山あります。けれども乗松兄は朝鮮の人になりました。」彼の遺言により、遺骨は夫人常子が眠る水原の地に埋葬されました。当時、朝鮮在住日本人は、自分が死んだら遺骨を必ず日本の地に埋めて欲しいと願ったにもかかわらず。1922年、「朝鮮弟妹一同」によって、乗松牧師を称える祈念碑が立てられました。この碑は現在も、日本の官憲が、最も残酷な殺戮を行った堤岩里(チェアムニ)のある水原の地に立っているそうです。解放後の韓国で、日本人の記念建築物が、神社を始め全て破壊されたにもかかわらず。

 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」

 この主イエスの御言葉が真実であったことが、日韓の不幸な歴史の中でも明らかになったことを覚え、神の栄光を褒め称えましょう。


 祈りましょう。  主よ、御子の御言葉を疑い、自分の命をいたずらに愛し、死ぬことを恐れる私たちに、日韓の歴史を通して、御言葉の真実を教えて下さった恵みに感謝を致します。どうか私たち日韓両教会が、この歴史を知った者として、自分の命を憎み、永遠の命の花を咲かせる「勇ましい高尚なる生涯」を歩むことが出来ますように聖霊を注いで下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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