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2010年 7月25日 主日礼拝説教 「恩寵の光が見えるか」

2010年7月25日 主日礼拝説教 「恩寵の光が見えるか」

  説教者 山本 裕司
  列王記下6:15~17  
  マタイによる福音書 12:22~30


 今朝の聖霊降臨節第10主日の礼拝において与えられましたマタイ福音書の御言葉の中には、聖霊とは反対の悪霊という言葉が何度も出てきます。悪霊とは何でしょうか。それを知りたい時、私たちは悪霊と対極にある聖霊と比較するとよく分かると思います。悪霊とは「目を見えなくし、口を利けなくする力」(12:22)とあります。先ずこの後者について言えば、聖霊は逆に口を開かせる力です。使徒言行録によると聖霊降臨時、互いに口を利くことが出来なかった諸外国からの巡礼者の所に聖霊が降ります。すると言葉が通じるようになる。口が開くのです。使徒パウロも言いました。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(コリント一12:2)。聖霊こそ、信仰告白をする口を開かせる力なのです。使徒言行録によると、聖霊は激しい風が吹いてくるような音と共にやってきました。風は目に見えません。でも聖霊が入って来られると、何かが変わるのです。これまで閉じられていた求道者の口が信仰を告白するために、開く時を迎えたとしたら、それは聖霊のお働きです。暑い夏の夜、風鈴が爽やかな音を響かせ始める時、私たちはその音を聞いて、風が吹いてきたことを知るように。 主イエスは信仰告白に代表される良き言葉を私たちから奪う悪霊を追い払って下さるお方です。ところが、ファリサイ派の人々は、主イエスの奇跡を中傷するために、イエスは「悪霊の頭ベルゼブルの力で、悪霊を追い出している」(12:24)と非難しました。主は答えられました。そんな馬鹿なことはない。悪霊を追い出すのに、他の悪霊を用いるのでは、内輪もめだ、と。つまりそれは、紛争解決のために新たなる戦争を仕掛けるようなものです。それは一時平和になったように見えても、もっと大きな戦争を準備しただけのことでしょう。キング牧師の言葉はここでも有効です。「暗黒は暗黒を駆逐することができず、ただ光だけができる。憎しみは憎しみを駆逐することは出来ず、ただ愛だけが出来る。」それでいて、私たちは時に、暗黒を暗黒をもって駆逐したくなります。次々に起こる無差別殺傷事件はまさに、悪霊を悪霊をもって追い払おうとした出来事ではないでしょうか。

 ある地方で高校生が見ず知らずの高齢女性を刺し殺すという事件が起きました。被害者は40数カ所もの刺し傷がありました。何でこんなことをしたのか。この少年は同級生から虐められ金を持って来いと脅されていました。ある人はこの少年は事件を起こすことによって、この虐めを、白日のもとに晒したかっただけかもしれない、そう推測しています。あるいは、以前、バスジャックをして人を殺した少年の場合も、虐めに合って大怪我をしてからは、閉じ籠もって家族に暴力を奮うようになったと言われます。そのあげくの犯行でした。少年少女の非行や犯罪の源を辿ると、多くは虐めなどの精神的ショックにまで遡ると言われます。そのような子どもたちは、先生や友だち、家族の前で、口を利くことが出来なくなったのだと思います。クラスの中で、自分が異邦人のようになってしまう。言葉が通じない悲しみの中で、ずっと教室の隅に座っていたかもしれません。そうであれば、その犯罪は、その閉塞状態から自分を解放しようとする自己救済の業であったと言わなくてはならないと思います。その犯罪という仕方で、もう一度、口を利くことの出来る存在、つまり自分を無視し続けた世間に、発信出来る口をもった人間になろうとする試みであったと思います。

 (この説教をした数日後、2008年6月の秋葉原事件の加藤被告の公判が報道されました。そこで明らかになったことは、中学1年の時、母親を殴って以来、彼女と口を利かなくなることに始まる、やはり言葉を失った孤独な青年の姿です。成長した彼は職場で作業の省力化を提案しましたが、正社員から「派遣は黙って言われたことをやってろ」と怒鳴られたため、無言の抗議を込めて退職したと言っています。2005年頃からネット掲示板に書き込みをするようになり、ネット上の人間関係が家族同然となり、返信があると友人が自分の部屋におしゃべりに来てくれたような嬉しい気持ちとなり、一人じゃないと感じました。自分の寂しい境遇を自虐的に書き込む彼は「かまってちゃん」とも呼ばれていました。しかしやがて、ネット掲示板で「なりすまし」が登場するなど、自分の場がひどく荒らされた時、彼は事件を起こしてその嫌がらせを止めさせようとしたと、言うのです。そうやってもう一度、彼が自由に口を利くことが出来る唯一の世界を取り戻そうとするために起こしたのが、秋葉原無差別殺傷事件だったと言うのです。まさに少年たちと同じ行動パターンでした。)

 しかし、この自己救済は、まさに「悪霊を悪霊を以て追い出そう」とする業であり、彼等は滅びるばかりです。そして悪霊の高笑いが聞こえてくる。勝ったのは彼らではない、悪霊であった。主の言われる通りです。

 「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。」(12:25~26)

 思い起こせば、私たちもまた、少年と似たような歩みを、これまでしてきたのではないかと思います。「毒を以て毒を制する」という諺があるのです。私たちはその程度の諺をあたかも人生の知恵であるかのように得意にしてきたのではないか。悪意に対して、私たちも悪意をもって報復をし勝利を得ようとする、そういうことを延々と行ってきたのではないか。そうやって人生の危機を乗り越えてきたのです。うまくやったと思ってきた。しかしその歩みの末に、主の言われる通り、私たちの心も社会も「荒れ果て」砂漠のようになってしまったのではないでしょうか。私たちの口を開かせ神の国へ導くのは、決して悪しき力の発動によってではなく、聖霊によると、主は教えられました。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(12:28)

 戻りまして22節に記される、もう一つの悪霊の働きは、目を見えなくすることです。やはり聖霊の力の充満を語る使徒言行録を思い出すと、サウルの回心の物語があります。ファリサイ派・サウルはやはり、悪霊の力を用いて、この世を正そうと思ったのでしょう。教会を迫害し弟子たちを殺そうと意気込んで進んで行きました。しかしダマスコ途上で、地に打ち倒されて、主イエスから声をかけられる。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」(使徒言行録26:14)、まさに主は、ここで暴力の力、悪霊の力に依り頼む時、それはあなた自身がとげの付いた棒を蹴るようなもので、あなたが大怪我をするのだと、言っておられるのです。そしてサウルは目が見えなくなりました。しかしこれは、神が裁いたと言うより、彼の霊的な目が、教会に対する悪魔的な憎しみによって、閉ざされてしまっていることを表現しているのです。しかし主から派遣された弟子アナニアは、サウルに按手してこう言いました。「『兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。』すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受けた。」(9:18~19)イエス・キリストの福音に開眼させ、口を開かせ、信仰を告白させるのは聖霊のお力でした。

 カトリック作家の曽野綾子さんが書いた『贈られた眼の記録』というエッセーがあります。彼女は元々強度の近視でよく世間が見えませんでした。それだけでなく白内障を患い何もかもぼやけてしか見えなくなった。ところが当時白内障の画期的な手術が始まり、彼女も手術を受けるのです。濁った水晶体そのものをとってしまうものです。術後、ある夕暮れ、彼女は病室を歩いていて、なにげなく窓から外を見ると、素晴らしい光景に出会う。それは今まで見たこともないような、瑞瑞しい夕暮れの景色であった。曽野さんはそれはもはや「夕暮れ」でもない。「夕明」と呼ぶべき、清らかな光の洪水、と書いています。しばらくして車で外出した時も夕暮れだった。完全に暮れたはずの空がまだ微かに、茜色を宿しているのが見える。隣の友人に、今空の色、どんなに見えると尋ねる。その友人は、紺色と灰色ね、と答えます。しかし、曽野さんの眼は、もう地平線の下に沈んでしまった太陽の光をなお捕らえていた。その時彼女の心にふとこの言葉が浮かんできました。「幼子のようにならなくては神の国を見ることは出来ない。」

 大人の水晶体は、どうしても濁ってきます。そしてこの世の真実の姿を霞ませる。しかし生まれたての赤ん坊の眼は限りなく澄んでいる。今の自分の眼は水晶体が存在しないために、幼子の眼のようになっているのだ。だからこの上なく透明な色を微妙に捕らえることが出来る。そして彼女は書くのです。「もし人間が、幼子のような眼をもてば、はるか彼方にある神の恩寵を敏感に感じるだろう…」

 しかし、もう一箇所朗読頂きました列王記下にありましたが、エリシャの従者はただ肉眼で見えることだけが現実だと覚え、アラムの大軍を恐れました。そのように、私たちは、この世の力を恐れます。だから、暴力には暴力を、悪霊には悪霊をもって、恐れを振り払おうと焦ります。しかしそれは結局、棘の付いた棒を蹴るようなもので、もっと全てを荒れ果てさせてしまうのです。その時、エリシャは従者の霊的眼差しを開きました。すると、敵の軍隊よりもはるかに多くの神の軍勢・火の馬と戦車が山々を覆い尽くしているのを見るのです。それは、神の御力こそ、どのような人間の軍隊にも勝る、という信仰が告白されているのです。その霊的開眼こそ、軍事力によって国を守るという悪魔的虚構から、私たちを解放するのではないでしょうか。霊的眼差しを開けば、神の正義の支配の光がこの世を明るく照らしているのが見えるのです。それが見えれば、私たちは恐れない。焦らない。直ぐ暴力に訴えず、口を開き、忍耐をもって平和的対話を尽くして紛争を解決していく道を模索する勇気が与えられるのではないでしょうか。

 主は「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(12:28)と断言されました。今です。ここにです。だからこの地も神の奇跡の舞台です。それが繰り返し私たちには見えなくなりますが、だからこそ、私たちは週毎に礼拝に出席し、聖霊によって、目からうろこを剥がして頂くのです。幼子の眼差しを回復させて頂く。そうすれば、この世は決して灰色の世界ではない。既に、キリストの十字架と復活の恩寵の光が洪水のように満ち溢れていることを、見る。そこで、悲しいこと、苦しいことがあっても、悪意をもって仕返しをする必要はなくなる。神の国の勝利を信じることが出来る。感謝!


 祈りましょう。  主よ、例え、私たちの肉体の眼がどんなに霞んでしまっても、あなたの恵みの光を見ることの出来る霊の眼差しは大きく開いて生きることが出来ますように。悪に悪をもって対するのではなく、聖霊によって口を開かせて頂き、言葉を尽くして、国同士の紛争を解決し、隣人との関係を回復していく者とならせて下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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