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2010年 7月18日 主日礼拝説教 「主日礼拝遵守の精神」

2010年7月18日 主日礼拝説教 「主日礼拝遵守の精神」

  説教者 山本 裕司
  マタイによる福音書 12:11



「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。」(マタイによる福音書 2:11)


 私たちは安息日毎に主イエスとファリサイ派との「安息日論争」と言われる部分を読み続けています。ユダヤ人が大切にしていました戒めの中でも、特に厳格に守られてきたのが安息日の戒めでした。一週間に一度のこの日は、労働をしてはいけない。旅行もしてはいけない。そうやってユダヤ人は安息日を真剣に守ることによって、自分たちの信仰をも守ってきました。その伝統は私たちの礼拝生活に受け継がれました。週に一度、仕事を休んで礼拝をするかと申しますと、それは神様に集中するためです。安息というのは、ただ私たちが、日曜日に朝寝坊をする、レジャーをする、それで得られるわけではありません。神と和解する以外に、私たち人間に安息はありません。ですから、安息日は、肉体はやや疲れることを承知で、私たちは教会に通う。そうやって、神様のことに集中する日をもたないと、私たちの魂が疲れ果てしまうからです。昔からキリスト者は「禁欲」を重んじてきました。日本でもピューリタンの伝統もあって、酒も煙草も禁欲したものです。そして日曜日がまだ公に休みとなっていなかった時代でも、その日の仕事を禁欲して、礼拝を遵守してきたのです。

 しかしここで注意しなくはいけないのは、禁欲ということは、決してただ楽しみを捨て、自分を鍛えるというような精神論に中心があるわけではありません。むしろ禁欲を「集中」という言葉で言い換えるべきだと思います。マタイ福音書13:44において、主は「天の国」の譬えを語られました。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」

 宝を見いだした者にとって、これまでの物は、みな、色褪せてしまったのです。それと全て交換しても、宝を求めるのです。家族の者は「そんなことは止めて下さい」と怒るかもしれない。しかし輝く宝のありかを発見した男は、もう後のことは何も分からなくなる。それだけしか見えなくなる。昔、青年会でこの言葉の聖研をしいた時、ある友人が真顔で「山本君は、これが分かるか、宝のありかを発見した男が、その畑丸ごと買ってしまう、その男の気持ちが分かるか」と問うたことを、昨日のように思い出すことがあります。その時、私は、あれも大切、これも大切、そう思いました。ただひたすら天の国を、つまりキリストを探すために、全てをなげうって、ほとんどの土地が無駄になるはずの「畑ごと」買うなどということが、私に出来るだろうか、そう思いました。そして、彼と共に、自分にもそのような一途な心を下さい、と祈ったことを思い出します。私たちの人生を宝物とするためには、宝そのものである、天の国の主・イエスをじっと見つめるのです。それが自ずから禁欲的な生き方になるのです。

 そういう大切な安息日ですが、主イエスは今朝の物語の中で、当時の安息日律法に違反する癒しの業を行いました。どうしてこういうことをされたのでしょうか。注解者はよく、イエスは何故、安息日にこの癒しの業をしなければならなかったのかと問います。安息日は日が沈んだら終わります。何時間か待ってればいいだけです。生命に関わらない病人です。何故待つことが出来ないのだと、学者は書きます。しかし、私はやはりあの青年会聖研と同じ頃、恩師から、この聖書箇所の説教を聴き、忘れられない経験があります。牧師がその時語られたのは、「直ぐ」ということでした。そして先生は、会堂中に響くような声で「愛は待てないのです!」と言われました。その心は、先ほどの天の国の譬えがそうであり、青年会の友が直感した、宝に対する、人の燃えるような愛によって起こる。真の愛は、著しき集中を呼び起こし、必然的に他の事柄に対する禁欲を生み出し、いたずらに待とうとはしない、と言うのです。

 「片手の萎えた人がいた。」(マタイ12:10)その人が、どうしてこの安息日に会堂にいたのでしょうか。ある人は推測します。イエスを罠にかけるためであったと。この弱り果てた者をイエスに見せるのです。そして「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と問うのです。その動機は「イエスを訴えようと思って」と書いてあります。それが主イエスには分かっていました。だから、慎重でなければならなかったのです。後数時間待てばいいのです。そしたら律法違反せず癒せるのです。しかしそういう世渡りの知恵はイエスにはまるで見られません。ここにいる片手の萎えた男だって、もしかしたら、金でも握らされて来たのかもしれない。しかし主イエスの眼差しはこの男に注がれるのです。そして男の悲しみを見抜かれる。その瞬間、主はもう他のことは何も目に入らない。回りの騒音は全て後に退いてしまう。主の眼差しは男に集中し動かない。そして言われるのであります。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。」(12:11)一匹です。沢山いるんじゃない。その羊が穴に落ちた。悲鳴が下の方から聞こえたかもしれない。その時、羊飼いは安息日が終わるのを待とうと考えるだろうか。回りを見渡して、こんなことしたら、他人はどう思うだろうと、考えるだろうか。間髪入れずとっさに手が出る。そういうものなのだ。愛とはそういう集中のことなのだ。

 「片手の萎えた」その日から、仕事を失い、男は安息を失った。自分の唯一の仕事は、政敵を陥れるための道具になることだけだった。後ろから「もっと手をよく見せろ」と声が聞こえたかもしれない。どーんと押されてイエスの前に転がり出たのかもしれない。それが彼にとっての安息日だった。いったいどこに安息があるのか。 主イエスの眼差しの中に写ったのは、この安息日に会堂にいながら、少しも安息を生きることの出来ないこの男の疲れです。それを洞察した瞬間、もう主は何も目に入らなくなる。もう何も見えない。ただイエスの足元に頽れている、この男だけしか見えない。回りを見渡して、自分が一つも傷つかないように賢く振る舞う。日が沈むまで待たせておけばいいのだ、そうすれば、自分は律法違反者にもならず、教祖としての対面も保つ、というような計算高さと全く異質な愛の噴出がここにある。

 片手の萎えた男は、初めて、この時、愛を発見した。自分のために、律法違反者として、死ぬことを覚悟して下さるお方がいることを発見した。自分だけを、宝物のように、じっと目を注ぐお方がここにおられる。私は惨めな男です。金に釣られあなたを陥れるために平気でここに来たような男です。あなたにそんな風に見て頂く値打ちなき罪人です。そう目で主に語りかけた時に、主イエスは歌うようにイザヤの預言を唱え始められた。「彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」(12:20~21)

 あなたは傷ついた葦、燻る灯心、異邦人のように神を失ったあなた。そのあなたを再び生かすために、あなたに今直ぐ安息を与えるために、私は来たのだ。私はあなたの疲れ果てた顔を、もはや一分一秒たりとも見たくない。愛は待てない、と、主はおっしゃられたのであります。

 このように、主は世界中に、他に誰もいないかのように、今朝も、私たち一人一人を見つめておられます。そのひたむきな愛に応える時に、私たちも、ひたむきになる。私たちが安息日を重んじる心とは、そういうところから生まれるのです。律法的に守るのではない。安息日を守るとは、もっと瑞瑞しい心から生まれる。主が直ぐ、私たちを救いたいと言って下さる。もう待てない、今、安らぎを与えたい、と。ファリサイ派を前にしても、死を覚悟して、言って下さる。この主の「集中」に、私たちも「集中」して応えるのです。主の「直ぐ」という心に、私たちも「直ぐ」応えるのであります。

 大学に合格したら、教会に行きます。今は駄目です。待って下さい。大学に入れば、部活が忙しくて行けません。暇になったら行きます。就職すれば仕事が忙しくて行けません。定年退職したら行きます。天皇制の嵐が吹き荒れれば、人からスパイと言われるから行けません。民主主義になったら行きます。ある人は、教会の葬儀に初めて参列し、感動して「自分の葬式も是非、教会でお願いしたい」と願い出た時、牧師は答えました。「死んでから来ても遅い。生きているうちに来なさい」と。

 イエス・キリストは、そう言って、結局生涯安息を得ず、疲れ果て、萎えてしまう私たちの魂に、愛を注いで下さり、休ませて下さる。今直ぐ与えて下さる。主日遵守の掟とは、そうやって、神から愛された私たちの感謝の思いから噴出する。


 祈りましょう。  主よ、私たちの小さな献身の心も、礼拝遵守の細やかな努力も、全てはあなたの集中する愛から生み出されたものであることを教えられました。だから、のことをいたずらに誇り、出来ない人を裁く愚かさから私たちを守って下さり、共に励まし合って、礼拝遵守を家訓と覚える西片町教会とならせて下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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