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2010年 6月13日 主日礼拝説教 「ダンスは終わらない」

2010年6月13日 主日礼拝説教 「ダンスは終わらない」

  説教者 山本 裕司
  マタイによる福音書 11:15~19


 先週、教団の全国大会で、高知教会の野村和男牧師に再会しました。私が神学生だった時、夏期伝道実習のために高知教会に派遣された時に、吉田満穂牧師と共に大変お世話になった先生です。そして私は30年前の高知の暑い夏を思い出していました。高知教会には青年会室という部屋があります。その部屋には、一冊のノートが置いてあって、思ったことを青年たちが書くのです。連絡帳の役割もしました。私がある時それを見ましたら、こんなことを書いた女子青年がいました。「8月某日午前何時、青年会で海に行きましょう。その時間待っています」。その人は精神的に弱いところのある人で、そんなことから友達も少ないようで、夏の間も教会に来て、私と話して帰るということが何度かありました。私はその日も決められた通り、青年会室の隣の部屋にいました。よく晴れた海水浴にもってこいと思われる日です。気配はよく伝わってくる。その子が来て、そして暫くすると帰っていきました。やはり誰も来なかったんです。私が後で青年会室のノートを見てみると、その海への誘いの言葉の後に、彼女自身がその時でしょう、書き添えた言葉がありました。それが実は先程司式者に読んで頂いた主イエスの言葉なのです。

 「『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』」(マタイ11:17)

 私はそれ以来、この御言葉を目にする度に、あの夏の日の彼女の孤独を思い出すのです。期待はずれの悲しみです。誘っても返事のない悲しみです。それは夏の一日のだけのことではなくて、彼女のこれまでの人生が、そういう寂しさで縁取られたものだったのかもしれません。

 「笛吹けども踊らず」、この福音書の言葉は二重鉤括弧の中に入っています。ですから、元々イエス様がお作りになられた言葉ではありません。引用されたのです。民謡やゲームの歌だったのかもしれません。

 私たちも子供の頃「花一匁」という遊びをしました。二つのグループに分かれる。そして歌をお互いが唱えて押し合う。そしてじゃんけんをして人を取り合う遊びです。そういう遊びと似ていたのかもしれません。「笛を吹いて」婚宴のゲームをしようと申し入れて断られ、次に「弔いの歌」で葬式のゲームをしようと言って無視された、そういう歌を歌いながら、花一匁のように、押したり引いたりして、ユダヤの子どもたちは遊んでいたのかもしれません。しかしこの元々の歌詞の意味は楽しいものではありません。痛烈なものです。呼びかけても、招いても、無視される。その悲しみが、ついに歌にまでなってしまったのです。しかしここで主がこの歌を引用される時に、先ずお心にあったのは、人間の悲しみではありません。神様の悲しみです。

 この主のお言葉から、私が先ず感じましたことは、神様の豊かな「感情」です。この歌の直後、18~19節には、洗礼者ヨハネと「人の子」つまりイエス・キリスト御自身の様子が記されています。この2人の様子を見ますと、どんなに神様が豊かな感情をお持ちか分かります。神様のお心、その喜怒哀楽がこの2人に鏡のように写し出されてくるのです。ヨハネにおいて表れてくる神の御感情は、怒りです。人の根深い罪に対する神様の悲しみ、その感情が洗礼者ヨハネの心に流れ込んできた時に、彼は荒野に去り、断食をし、人々に激しく悔い改めを迫りました。

 主イエスにおいて、表れる父なる神の御感情は、喜びです。主が手を差し伸べた時、その手を握り返した者たちがいました。徴税人罪人です。もう神様の御前から失われたと思われていた人たちです。ですからイエス様は感激され、婚礼の祝宴になぞらえつつ愛餐を開かれました。嬉しい、楽しいと言われ、食べて飲んで、聖書には書いてありませんけれども、お笑いになられたに違いありません。

 しかし、そういう神様の喜びと悲しみを「今の時代は」(11:16)理解しないと、主はここで嘆いておられる。荒野で眉間に皺を寄せて断食を重ねるヨハネを見て、人々は悪霊につかれていると批評しました。いったい今の時代、あそこまで義に拘る必要があるかと。世の中相変わらず平穏ではないか。世の中少しくらい不正があるのは当たり前だ。空は今朝も晴れ渡っているではないか。神経質過ぎるのだ、そう言ったのです。逆に、徴税人罪人と宴会を開かれた主イエスに対して、人々は何がそんなに嬉しいのかと、白い目を向けました。あそこにいるのは、ろくでなしばかりじゃないか。なるほど、奴等は酔っているんだ。イエスは酔っぱらいだ。そう蔑んで、一緒に喜ぶことをしない。そこで神様の感情は行き場を失う。神の孤独が始まるのです。

 この歌の解釈についてですが、この歌には二つの方向があると言われます。一つは今私が申し上げた解釈、神様の方が悲しんでいる歌と理解する方向です。もう一つは、その逆の方向を取る解釈があるのです。もう一つとは、人間の方が神様に対して嘆いている歌とこれを読むのです。私たち人間が喜んでいるのに、神様はちっとも一緒に踊ってはくれない。私が悲しんでいるのに、神は少しも同情してくれない。そういう歌でもあると言うのです。先に申しました。「花一匁」のように二つのグループが交互に唱えたのかもしれないと申しました。片一方だけが嘆いたというんじゃない。神様が人間というのは、私の誘いの歌を何故無視するのかと言われた時に、今度は人間の方が、押し戻すようにして同じ歌をもって、いや神様の方こそ私たちの喜びを共にして下さらないじゃないですか、と言い返した、ということです。

 しかし、私たちはよく知っています。人間の感情を中心にすることくらい怖ろしいことはないと。だから主はここで言われているのです。話しは逆だ。私があなたに合わせるんじゃない。あなたが神である私に合わせる。神の子である私の吹く笛に、あなたが踊り出さなくてはいけない。そして私の悲しみの歌を、あなたが一緒に歌わなくてはならない、それが出来るところに、あなたに、本当の幸い、真の慰めが生まれるのではないか、そう主はここで訴えておられるのです。

 「神は感情の神である。」そう言ったら皆さんはどう思われるでしょうか。感情とは、時に私たちの生活を本当に困ったものにしてしまいます。感情の爆発である怒りが、多くの人にどんなに迷惑をかけるか。あるいはテレビを見ていると、実にくだらないことを言って笑いをとろうとする人たちで溢れている。差別的なことを言い、虐めのようなことをして、笑わそうとする。そして実際、そこにいる人たちが笑うのです。そこにおける感情の貧しさ、みすぼらしさ。テレビを批判してなどいられません。私たちの持っている感情というのが、どんなに下品なものか、私たち自身がよく知っているのではないでしょうか。私たちの喜びがどんなに、低俗なものか。怒りなどというものが、どんなに自分勝手なものか。そういうところで、知恵ある者は、感情を抑え込むことこそ、平穏に生きる道だと学習するようになるのです。しかし、主はこう言われるでしょう。あなたたちの感情が手に負えないのは、感情が原罪に汚されてしまったからだ、と。それ以来私たちは、笑いにおいても、怒りにおいても、罪を犯す。そういう私たちの感情に合わせて神様に笑って頂いたり、怒って頂いたら、どんな怖ろしいことになるかってことです。しかしそこで、私たちは無感情になってそれを解決するのではない。むしろ神のお心の中にある聖なる御感情に、私たちの心を合わせていくのです。最も豊かで、潤いに溢れ、感じ易く、それでいて強かな御感情。主イエスに表れる神様の御感情。それは私たち貧しい感情しかもたない者たちには、まるで異常としか思えない海のように深い御感情。私たちはその御感情に触れることによって、私たち自身の感情を清めて頂くのであります。

 説教後に、讃美歌21-290番「おどり出る姿で」を歌います。この歌の原題は「Lord of dance・踊りの主」です。これはプロテスタントの一派シェカー教徒が作った讃美歌です。シェカーというその名前の通り、彼らは、礼拝の中にシェイクする踊りを取り入れたことで有名です。この派のことがよく話題に上がるようになったのは、最近、礼拝の中にダンスを復興させようとする動きがあるからです。何故でしょうか。今までの私の言葉で言えば、私たちの神は感情をお持ちだからであります。豊かな感情は、体を動かすこことに通じます。私たちも経験があると思います。深い喜びに遭遇した時、急に走り出したくなります。飛び上がりたくなります。しかし初期の教会においては自然に取り入れられていたと言われるダンスは、礼拝の歴史の中で、次第に消えていきました。その理由はいろいろあるかもしれません。しかし一番大きかったのは、ダンスの中にある危険な要素のためであったと思います。私たちは感情においてこそ、罪を犯すのであれば、ダンスにおいてこそ、私たちの罪は飛び上がるのであります。洗礼者ヨハネは、踊りによって殺されました。王ヘロデの誕生祝いの際、娘サロメの見事な踊りに感動した王は、褒美を何でもとらせようと約束しました。その時、彼女は「洗礼者ヨハネの首を」と言ったのであります(マタイ14:8)。人の裸の感情から生まれるダンスは、どんなに美しくみえても、人を生かすことはありません。

 だからこそ、私たちは、踊りの主である主のリードに合わせて踊るのです。主のお心、御感情を、私の心、私の感情とする。そのために礼拝は存在するのです。私たちの礼拝プログラムの中に、ダンス取り入れることは永遠にないのでしょうか。百年後も東海林太郎のように無表情、直立不動で歌い続けるのでしょうか。映画『天使にラブソング』を観ました。ひょんなことから、しがないクラブ歌手が、ある修道院の聖歌隊指揮者に任命される。ソウルやロック、ゴスペルが新たに選曲される。その歌をもう直立不動で歌う人はいません。聖歌隊のメンバーは手拍子を打ち、踊りつつ、歌うようになります。その歌を聞いて沢山の町の若者たちが来るようになる。音楽が変わった時、聖歌隊が変わり、修道院が変わり、その町が変わった、そういう物語です。

 「踊りの主」、この歌のオリジナル歌詞からイメージされる物語を語って今朝の説教を終えたいと思います。この歌は、人々が、次々に神の踊りに加わっていくドラマです。

 世界の一番最初の日の朝、この宇宙でたったお一人、神様が踊り始めます。神様が踊ると、太陽ができ、月や星が生まれ、山や海も広がり、あらゆる生き物が地上に誕生し、神様と一緒に踊り始めます。神様の踊りの行進が今出発しました。神様は、地上に降りて来られます。人間たちと一緒に踊るために。人々を、神様の踊りに誘うために。だから踊りの主は、クリスマスの夜、人間となられました。その夜、空に表れた天使の大群の歌に合わせて、貧しい羊飼いたちが、初めて喜びの踊りに加わりました。彼らの頬は喜びで紅潮します。もう寒くありません。

 神の子イエスは、神のダンスのリーダーです。主イエスの踊りの輪に入り、主の真似をして踊るとき、人は大きな喜びに満たされ、胸の中に愛が一杯になります。だからイエス様に声をかけられた瞬間、漁師たちは、持っていた網をぱっと捨てて、直ぐイエス様の踊りに加わって進んで行きました。その踊りの行列はどんどん長くなっていきます。女も子どもも皆、大河に小川が流れ込むように、その行列に吸い込まれていきました。そしてとうとうその数が何万人にもなった時、踊りは輪になって野を覆いました。主イエスは、その時、5つのパンと2匹の魚を踊りながら、人々に配り始めます。不思議なことに僅かだったパンと魚は、全ての人に分け与えられました。パンと魚を掲げて、人々は大きな輪になって踊りました。

 遠くから、少数になってしまった律法学者とファリサイの人たちが妬みながら見ています。誰かが、彼らの手をとって、踊りの輪に導こうとしますが、彼らは、手を振り切って決して加わりません。

 イエス様の踊りは安息日も休みません。いえ、安息日こそ、益々そのダンスは情熱的になりました。そしてイエス様は、足が不自由で座り込んでいる男の手を取られました。御手が男の手を握り締めた瞬間、足の不自由な人は躍り上がって、激しく感謝のタップダンスを踏み鳴らしました。

 ファリサイの人たちは、チャンスをとうとう掴みました。彼らは、その時始めて少しずつリズムをとって体を揺らし始めます。そしてそのファリサイ派の踊りに、学者が一人加わり、祭司が加わり、ローマの兵隊たちが加わっていきます。その踊りはイエス様の踊りのように、ちっとも楽しくありません。気味の悪い暗い動きです。しかし皆それに陶酔し始めました。そして誘いは群衆にも伸びました。手を伸ばされると、群衆は、神様の踊りから、一人抜け、二人抜け、悪魔の踊りに加わってしまいます。喜びはないのに、酔ったように踊らずにおれません。そしていつのまにか、イエスと12弟子の回りには、気味悪く踊る集団の輪が出来上がります。12人の弟子たちは、最後までイエスの踊りを続けようと努力しますが、いつのまにか、ファリサイのダンスの仕草に引き込まれ、あわてます。

 イエス様はたった一人になりました。イエス様は取り囲まれ、十字架につけられました。もう二度と踊れないように、手と足に釘を刺さされました。もうお体は動きません。「踊りの主」のダンスはついに止まりました。人々は動かなくなったイエス様の体を墓に運び、大きな石で入り口を閉ざしました。もう二度と踊れないように。そのお墓の回りを、夥しい人たちが激しく踊り回り、最後には獣のように駆け回り、ついには体をぶるぶる痙攣させます。もう踊りとも呼べません。そして疲れ果て墓場に倒れます。累々たる屍のように。もう誰も踊りません。世界からダンスと歌は失われました。そして闇が覆ったのです。しかし三日目の朝早く、ダンサー・イエスが、足にバネでもついていたかのように、墓の蓋を空中高くはじき飛ばしながら、一際高く躍り上がります。命を漲らせて。そしてまた一人で踊り始めました。人々をもう一度救いの踊りに招くために。ダンスは終わらない。神のダンスはそうやって進む。全人類がこの神の踊りに加わるまで!


 祈りましょう  時に、何の感動もない灰色の世界を生きているような私たちに、踊り出したくなるような喜びと、鮮やかな色彩を取り戻して下さる、踊りの主・イエスキリストの父なる神様。この礼拝によって、死んだような心に豊かなあなたの御感情を注ぎ込んで下さった恵みに心より感謝します。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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