日本基督教団 西片町(にしかたまち)教会へようこそ!バリアフリーの教会です。 どなたでもいらしてください。

2010年 4月 4日 復活日礼拝説教 「オープン・アップ!」

2010年4月4日 復活日礼拝説教 「オープン・アップ!」

  説教者 山本 裕司
  マタイによる福音書 9:27~34 


 今朝の御言葉は、マタイ福音書の連続講解において自然に至った箇所です。しかしここは、今朝の復活祭に真に相応しく、神の奇しき導きを感じます。注解書によりますと、この箇所は、マタイ福音書における一つの主題の終わりの物語だそうです。そのまとまりとは8章から始まった「奇跡物語」です。この一連の奇跡物語が、既に復活を暗示していると思いました。以前読んだ箇所に指導者の少女の死が記されています。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」(9:18)、そう指導者が願った時「そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。」(19a)と続きます。「立ち上がった」この言葉が既に「復活する」と訳せる言葉なのです。勿論、この9章の時点で、イエス様は復活されていません。主の復活の物語はずっと後です。しかし、この物語を執筆中の福音書記者マタイは、当然のことですが、既に主の十字架も復活も知っています。そのマタイの思いの中では、この少女の死の知らせを聞かされた時、主は既に甦りの命を身に帯びて、立ち上がられたのです。死に対する御自身の勝利をもって、少女も復活の中に導き入れようとされておられるのです。

 あるいは、そのマタイ自身とも覚えられる、徴税人マタイの救いの物語「イエスは…マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」(9:9)この中の「立ち上がった」も「復活する」と翻訳可能です。イエス様は、御自身のもつ復活の力をもって、死の座、罪の座に閉じ籠もる徴税人マタイを、そこから立ち上がらせた、つまり甦らせた。命へと、食卓の交わりへと、そう福音書は歓喜の声を挙げているのです。

 その他8章以降の多くの箇所が、復活者イエスの御力を暗示しています。死に支配されている病人を、悪霊に捕らえられている人々を、主は、その復活の命の力をもって、解放していかれる。このような復活の命が川のように流れていって、二人の盲人の目も開かれるのです。

 受難週の金曜日のテネブラエ・闇の礼拝でも朗読しましたが、主が十字架におつきになられた時、真昼であったのに「全地は暗くなり」とマタイは書きました。それは主を十字架につけた人間の罪の闇を表しています。しかしそのテネブラエにおいて、全ての灯火が消された終わりに、復活のマスター・キャンドルがもう一度入堂します。光は甦ると、伝えるために.。3日目の朝、真っ暗闇のはずであった洞窟墓から主の復活の光が噴き出すように輝き出る。もう一度、天地創造の神の第一声「光あれ」を聴いたかように、光が地を這うような勢いで広がって行く。同様のこの救いの光を、盲人も、目開かれて見たのです。ただ病気が治ったというのでありません。神を信じない時、人は皆等しく死の闇の中にいるのです。だから主は二人に信仰を求める。「わたしにできると信じるのか。」(9:28)どのような闇の中でも、復活のイエスの光の可能性「できる」を信じる。その信仰によって、私たちもまた目開かれイースターの春の光を見ることが出来るのです。

 次ぎに現れるのは口の利けない人です。ろう者であった。それは単に病気であったからでなくて、悪霊に取り憑かれていた。悪の支配下にあったために、聞こえず、口も利けなかったと言われるのです。

 ところで、役員会報告で御承知だと思いますが、この4月から私は北支区内・新宿区矢来町にありますエパタ教会の代務者となりました。この教会は石田栄一牧師によって設立された教会で、ろう者への伝道を使命として取り組んできました。しかし石田牧師が御高齢のため、隠退された後、急激に疲弊しまして先月からは無牧状態となりました。そのために、北支区が再建に向けて協力することとなり、私が、新牧師を迎えるまで代務することとなり、西片町教会役員会にも承諾頂きました。なかなかこの経緯について教会員の兄姉にお話しする機会もありませんでしたので、この場で報告させて頂き、祈りの内に加えて頂けたらと思っています。

 この「エパタ」という言葉は以下に出てきます。「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスは…指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。」(マルコ7:32~35)

 主イエスが閉じられた耳と口に向かって、「開け」と言われた。英語聖書では「オープン・アップ」です。その元のイエス様のお使いになっていたお言葉が「エッファタ」、口語訳では「エパタ」です。ここから矢来町の教会の名前はつけられました。「開け、教会」です。いろいろな弱さが出て、御近所から閉鎖されたと思われた教会です。しかし、復活の主イエスは、再びここで、エパタ!、オープン・アップ!と声を張り上げて下さったのではないでしょうか。「教会よ、開け!」と。教会が閉じられれば、当然、御言葉を語る口と、御言葉を聞く耳は閉じられます。それこそ、悪霊の働きなのではないでしょうか。マタイも同様です。その人は耳が聞こえない人であり、口が利けない人であった。彼は深い孤独の中にいたと思う。神との交わりから閉ざされていた。連動して、隣人との交わりから疎外されていた。私たちもまた、私たちを襲う苦しみや心配によって心が閉ざされてしまうことがあります。そこで、もう神の愛の言葉も聞こえなくなる。しかしその時、誰かが、主イエスのもとに、耳も口も閉ざされた者が、無理矢理かもしれない「連れられて来た」(マタイ9:32)と書かれてあります。伝道です。この伝道した人も、以前は、閉じられた人だったかもしれない。しかし先に、神を見る眼差しを開いて頂いた者は、その後、伝道の使命に生きるようになる。「二人は目が見えるようになった。…二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。」(9:30~31)そうやって、連れて来られた口の利けない人に対して、主はやはり「エパタ」と命じられたと思います。「光あれ」と。

 「悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、『こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない』と言った。」(9:33)一方、ファリサイ派の人々は「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」(34)と言ったとあります。ここには、2章に渡るこの主の奇跡の業の締め括りとして、あるいは、1章1節からここまで読み進んできた、私たち読者に対するマタイの問いがあると注解者は指摘します。この一連の物語の終わりに、群衆の肯定的な評価「驚嘆」(9:33)と、ファリサイ派の否定的な評価「悪霊の頭の力による」(34)を置いて、これを読んだあなたはどちらに与するのですか、と問うているのです。群衆の「驚嘆」は、イエスがメシア(キリスト)であられることを認め、人を救うことが「できる」(9:28)と信じる信仰告白へと向かいます。しかしファリサイ派はあくまで認めません。その理由の一つは「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」(9:27)という二人の盲人の叫びに見られます。注解書によると、ファリサイ派の信じるユダヤ教で言う救い主とは、イスラエル黄金時代を築いたダビデ王家から現れるメシアでした。それは、軍事力によって他民族を支配しイスラエルに栄光を回復させる強き王のことでした。しかし、マタイ福音書においては、確かに、イエス様は、ダビデ家出身のヨセフを父としました。しかしその王家の血筋は、幼子が処女マリアによってお生まれになったと物語が続く時、微妙な話になってきます。つまり主イエスは、ヨセフという父を持つダビデの子であって、ダビデの血は結局入っていない、ということになる。そして、マタイにおいて、主イエスが「ダビデの子」と呼び掛けられる場面は、その殆どの箇所で、病人を癒す奇跡の場面、愛の場面なのだそうです。つまり、マタイが、この二人の盲人の「ダビデの子よ」という叫び声を、この一連の物語の終わりに置いたのは、ダビデ王とは全く異質な「未聞未見」のメシアが現れたのだ、と訴える意味があるのです。群衆も驚嘆して言ったとあります。「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない。」(9:33)それは、軍事力によってローマ帝国を駆逐する力のメシアを待望していた、ユダヤ教ファリサイ派の予想を遥かに超える、未聞未見のメシアであられました。これまで誰も想像しなかった新しいダビデの子・墓を開いて出て来られた甦りの主を、今朝、私たちも、目開かれ、見ることが出来た。耳開かれて「エッファタ!」との声を聞くことが出来た。「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない。」孤独と闇と死に閉ざされていた私たちに、復活の主が、その甦りの命を携えて、私たちを開いて下さる。命へです。信仰へです。交わりにです。愛にです。春の光に向けて。この素晴らしい西片町教会の復活祭を、今年も、共に迎えることの出来た喜びで、私たちは今充たされています。


祈りましょう。 人生の試練の中で、孤独と闇に堅く閉ざされてしまう私たちの心の扉を、甦りの主は「オープン・アップ!」と叩いて下さる恵みに感謝します。なお、閉ざされた者が多くいます。どうか、その人たちを、復活の主へと連れて来る伝道の業を、先に開かれた者としての使命として、この2010年度も弛まず行う教会とならせて下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




a:1104 t:2 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional