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2010年 1月31日「病を負われるイエス」

2010年1月31日 主日礼拝説教 「病を負われるイエス」

  説教者 山本 裕司
  マタイによる福音書 8:1~17


 主イエスは山上の説教の全てを語り終えられて山を降りられました。すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った」(マタイ8:1)。この病名は以前は「らい病」と訳されていました。しかし、正確には、私たちが今日、ハンセン病と呼ぶ病気とここに出て来る病とは異なります。「重い皮膚病」とありますように、皮膚に障碍をもたらすハンセン病も含む場合もありますが、いつもそれを意味したわけではありません。しかし、当時の医学ではこれらの病気は区別出来ず、また体の表面に病状が表れるだけに、その悲惨さが宗教的汚れと結びつけられました。そのため「重い皮膚病」の人々は、社会から隔離され、人権の一切を剥奪されました。

 「重い皮膚病」と診断されると、人は家を出ます。町を出ます。人里離れた山の庵で暮らす他なくなる。しかし、ある人はこう言います。この病人は、人々から遠く隔てられる。宗教の救いからすら隔てられる。そうやって差別され、全ての者から遠く隔てられ、山裾に身を置いていた。しかしその遠いはずの場所が、山から下りてこられた主イエスに最も近い場所となった、と言うのです。救いがないと思われる場にこそ、神の救いは近い、と。

 そうやって、主は、重い皮膚病を患っている人を、異邦人・百人隊長の僕の中風を、ペトロの姑の熱病を癒されていきます。そういう一日の働きを終えられて、お休みになられる時刻がくる。癒された姑のもてなしをお受けになればよい夕方です。ところが、その瞬間、まるで堰を切ったように、病人がどっと押し寄せてくるのです。

 「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。」(8:16)

 ここで福音書記者が描こうとしてることは一つです。病む者は次々に現れる。病む者がいなくなる時はない。私たちの教会にも病む人が次々に現れます。本人ではなくても家族が病気に罹ります。一人の人が癒される傍らで、直ぐ他の人が倒れたとの知らせが入ります。私は牧師になってから、そのことで気の休まる日はなかったと思います。いつの日にか、教会員の誰もが健康で、安心していられるという日がくるのではないかと願っていますが、それは幻想にすぎません。しかし、病の孤独と悲しみが渦巻く場にこそ、主イエスは近いのです。

 『治癒神イエスの誕生』(山形孝夫著)を読みました。それによると、古代最大の病気治しの神の名は「アスクレピオス」です。この信者たちは、イエスと弟子たち同様に巡回しながら病人を治します。特に彼等は外科手術を得意とした。それは画期的な癒しの技術で、この集団は後にキリスト教と覇権を争うほどの勢力をもちました。有名な古代ギリシャの名医ヒッポクラテスも、このアスクレピオス医師団の一人であって、彼は大脳の手術をやってのけたそうです。ところがこの医者たちが触れなかった病気がある。それこそ「重い皮膚病」、「悪霊に取りつかれた者」(8:16)でした。ペトロの姑が病んだ「熱病」も悪霊的なものと考えられていた、との指摘もあります。そういう「重い皮膚病」と「悪魔憑き」というものは、古代社会において、特別に神様からの呪いとされていました。だからこの病人は人々の生活の場から追放されたのです。しかし主イエスは、むしろアスクレピオス医師団が近づかなかった病に近寄る、それがイエスの癒しの特徴だ。しかし、見棄てられた病人と接触することは、
自分も傷つくことだった、そうその学者は続けるのです。

 今から百数十年前、カトリック司祭・ダミアン神父は、ハンセン病患者を隔離したハワイ・モロカイ島に自ら進んで赴き、ケアに生涯を献げました。そして、自らもハンセン病に感染して命を落としたのです。しかしこのような感染のケースは、希な例で、神父が感染したのは濃厚接触のためでなく、彼が元々、特別に「らい菌」(伝染力は弱い)に感染しやすい免疫系の体質があったため、とも指摘されています。しかし、どちらにしても、ダミアン神父の人生は、まさに主イエスを指し示していると思います。最初、島の患者たちは、やって来たダミアン神父と心を通わせられなかったそうです。 ダミアン神父の愛は所詮「貴方たち患者」と「健康な神父」との関係に留まり、その島で、彼はどこまでも「よそ者」に過ぎなかった。この隔たりの深さに神父は深く悩みました。彼はその断絶を乗り越え患者と一体化したいと願い、臆することなく患部に触れ、生活を共にしました。やがて神父がハンセン病を発症したことによって、神父は初めて「我々ハンセン病患者は…」と語ることが出来るようになったのです。

 それに似て、主イエスの当時、自分が皮膚病になってもよい、そう思わないかぎりは、重い皮膚病の人たちと共に生きることは不可能でした。だからアスクレピオスは限界をもった。しかしイエスに限界はなかった。重い皮膚病の人たちを救う。そのためには「自分自身が重い皮膚病の一人に数えられる他はなかった」、私はこう書く山形先生の言葉を読んで「彼は…罪人のひとりに数えられた」(イザヤ53:12)との御言葉を思い出さざるを得ませんでした。

 同じイザヤの御言葉をマタイは引用しました。「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」(8:17b)この中の「負う」とは「背中にしょいこむ」との意味があるそうです。預言者イザヤが幻の内に見ている人は、アスクレピオスの外科医のように、メスで患部を切り取って、さっさと捨ててしまう。そうして自分は少しも痛みを感じない。そういう医者の姿を思い浮かべているのではない。そうではなくて、その人は、その患者の病を自分が背負うのです。それは孤独に苦しむ患者にとって、肉体の病が癒される以上に貴いことでもあったと思う。主の許に来た病人は「皆いやされた」(8:16)と記されています。しかしその時、その病はどこか宇宙の涯に飛んでいって消えた、というのじゃない。それは主イエスの背中にみな食い込む重荷となりました。

 マタイがイザヤ書から引用した「彼」とは、醜い人だったようです。「彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない。」(イザヤ52:14b)、「見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」(53:2b~3)この人は重い皮膚病だったのかもしれません。どうしてこんなに醜く、汚れた病人になってしまったのだろうか。そうだ「神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と」(53:4b)わたしたちは思っていた。5節冒頭には、新共同訳では消えた「しかし」という言葉が口語訳にはありました。ある注解者はここを「あにはからんや」と訳しました。あにはからんや「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(53:5)そんなこと今まで知らなかった。この男の苦しみ、この男の悩み、それは彼の自業自得の神の呪いであって、私と何の係わりもないと思っていた。しかし「あにはからんや!」私が今平和で健やかなのは、この人が私の病を負ってくれていたからだ。孤独を背負ってくれたからだと、驚きの声をあげるのです。

 私たちが信仰告白するとは、こういうことだろうと思います。私たちは十字架を知っています。教会に十字架はどこでも掲げられています。しかし、それは、自分と何の係わりもないと思っているのです。ある求道者の言葉を思い出しました。「自分が嫁いだ家はキリスト教の家庭であった。特に先代の祖母が熱心だった。祖母はその家に、キリストの十字架の彫刻や絵画を飾っていた。結婚して自分がその家で暮らすようになった時、それがどうしても好きになられない。十字架につけられた男が苦しんでいる姿からどうしても目を背けてしまう。それでみな外してしまった。それが私が主婦として家でした最初の仕事だった。しかし信仰を得た時、その遠い十字架の男が凄く近いものとなった。何故なら自分の罪を知ったからだ」そう告白するのです。

 私たちの不治の病、それは単に重い病気ということではありません。重い病気も今ではアスクレピオスの子孫によって解決しつつあります。しかしその医者たちの手に負えない病、いや誰もが永遠に手に負えない、私たちの病とは「罪」であります。神をも隣人をも愛することの出来ない罪です。砂漠のような潤いを失った心です。それで私たちは他者を傷つけるだけではない。実は自分自身を本当に醜く孤独にしている。しかしこの病の十字架を、主は一身に背負って下さったのであります。そして私たちを軽やかに、健やかに変えて下さった。しかしそのために主は醜く、病まれたのです。しかしここが大切です。その顔とは、実は元々、私自身の顔だったのです。

 主の犠牲によって健やかにされた私たちは、では、次ぎに何をしたらよいのでしょうか。「イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。」(マタイ8:15)「もてなした」、これは後に教会用語で「執事」(デイアコニア)を表す言葉となりました。「奉仕」という意味です。癒された時、その感謝と喜びの中で、私たちは主イエスと隣人を「もてなす」ために、起き上がるのです。


 祈りましょう。  主が背負う十字架の痛みによって、私たちの重い罪が癒されたたことを覚え、心より感謝を致します。主の犠牲によって与えられた、霊における健康を用いて、あなたと隣人に仕えるために、ここを出て行く者とならせて下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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