日本基督教団 西片町(にしかたまち)教会へようこそ!バリアフリーの教会です。 どなたでもいらしてください。

2009年12月6日「この門をたたけ」

2009年12月6日 主日礼拝説教 「この門をたたけ」

  説教者 山本 裕司
  マタイによる福音書 7:7~12 


 私たちは、自分の人生を、どんな言葉をもって終えるのでしょうか。勿論その時は口を開く力も失われ、何も言うことも出来ず死ぬかもしれません。そうであるならなおさら、その死に至る瞬間の私たちの表情、しぐさ一つが、何を語るのか。これは案外大切なことであるかもしれません。かつてなにげなく読んで、しかし心に残った一つの文章があります。これは「あけぼの」というカトリック教会の雑誌の中の言葉です。だからと言って特に信仰的な話でもありません。ある作家が、自分の祖母について書いているエッセーです。祖母は近寄りがたく、いつも白い瓜実顔を陰らせ煙草をふかしていた。商売の店先に立つ華奢な姿は、小町と呼ばれるほどの美貌であった。掃除洗濯の一切は人まかせだった。夫のことは軽蔑していた。かなりの田畑も有し、そんなことが出来るほど豊かであった。幸せだったはずだ。でも亡くなる前の祖母は、病室の個室で一人ぼんやりしていた。あるいは眼鏡をかけ文芸誌を読んでいた。そして祖母は最後にこう言って息を引き取ったと言うのです。「こんなはずしゃなかった」、そしてこの孫にあたる作家はこう書くのです。「この頃私が祖母に似てきたと親戚が口を揃えて言い始めた。鏡の前で、そうかな、そうかもしれないなと思う。」しかしそれはただ顔の美しさが似てきたという意味だけじゃないことを、彼女は匂わせています。「こんなはずじゃなかった」その言葉が、年を経るごとに私の中で大きくなる。そう言いながら、じゃどう生きればよかったのだろうか。そう祖母の人生とも、自分の人生に対する問いともとれる疑問符をもって、そのエッセーを閉じるのです。「こんなはずじゃなかった」その言葉はもう既に祖母だけの言葉じゃない。その孫である彼女自身の溜息になっているが暗示されているのです。じゃどうしたらいいのか、どう生きたらよいのか、その答えを求める、探る、叩く、そう言うのです。

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタイ7:7~8)この言葉は、大変有名な言葉です。では何故、これは、多くの人にとって一度聞いたら忘れられない言葉となったのでしょうか。それは「励まし」の言葉として聞いたのだろうと推測されます。自分の人生を成功させたいのなら、求め、探し、叩くのだ、すると道は開かれる。「なせばなるのだ」そういう心を奮い立たせる言葉として聞いたのだと思います。しかしそういうことであれば、先ほどの一人のお婆さんが、ただ一度の人生が終わる時、「こんなはずじゃなかった」と呟く。自分の願っていた真の人生はこんなではなかった。もっと別の素晴らしい人生があったはずなのに、そういう溜息が、最後に吐いた息だったというのは、求めなかったのだろうか、ということです。それほど彼女が怠惰であったから、そんな惨めな生き方しか出来なかったのだろうかということです。むしろ話は逆なのではないか。彼女は恐らく自分自身の本当の人生を掴もうと、戦い続けたに違いない。しかし彼女に与えられたものは、金もあって、愛してはくれても、風采の上がらない夫と、平凡な毎日でしかなかった。そして私たちも、どこかこの老婆の溜息に共感をするのです。「求めよ、さらば与えられん」と命を漲らせ、若い人生を出発し、「こんなはずじゃなかった」と言って疲れ切った人生を終える。私たちの人生とは、そんなところがあります。求めたことが裏切られ、脹らんでいた夢が次々に萎んでいってしまう、そういう経験を私たちは大人になるにつれて、する。そしていつのまにか「叩け、さらば開かれん」との言葉を信じなくなっているのです。

 しかしそれは元々この言葉の読み方が間違っていたのではないか。この言葉を「なせばなる」というような人生訓としか、理解しなかったところに大きな間違いがあるのではないかと思います。ここを、さらに読んでまいりますと、「天の父は…」(7:11)とあります。それで分かることは、この話は、天の父から賜物を頂くために、求め、探し、叩く話なのだということです。この御言葉の世界には人間だけが存在するのではない。人間だけが一所懸命求め、努力し、ついに成功の扉が開かれたというのじゃない。それはこういうことです。人間は夢を実現したい。そのために力を振り絞って成功の門を爪を立ててこじ開ける、それほど求めた時になせばなるのだ。そんなことがここに書かれているのじゃない。8節は、口語訳では「たたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」です。人間がこじあける門じゃない。開けてもらえる門です。だからこの話は人間だけが存在するのではいと申しました。あけて下さる天の父がおられる、あなたのそばにおられる、という話なのです。

 この御言葉とほぼ同じ言葉が、ルカ11:9(新128頁)にも記されています。ルカはさらに今朝の御言葉を具体的な物語に直したような、イエス様のお話を書き加えました。ある人の所に真夜中、旅の友がやってくる。食べさせるものがない。困りはてたその人は、もう一人の友人の家の門を叩く。どうかパンを貸して下さい。それに対して友人は、こらえてくれ。もう子どもは眠っているし、戸も締めてある。しかしそう言いながらもこの友人は、最後には起きて、必要なものを与えてくれたのだという物語です。ある牧師は、この物語の主人公は、しきりに願った男ではないと指摘します。主人公は嘆願した方でなくて「夜中に助けを求められた方の友人」なのだ。この友人は友のそういう無礼な頼みも見過ごしには出来なかった。そういう憐れみの心の持ち主が主人公なのだ。そしてそれと同時に心動かされるのは、この嘆願した男も、その友人の優しさを知っていた、決してあいつは私を空手で帰らせることはしない男だとの確信があった。だから、夜中でも戸を叩く勇気が湧いたのだと思う、と言われるのです。この友人こそ憐れみの神を例えているのです。

 祈りの世界というのは、実は、私たち人間が主人公じゃない。主人公は神様なのです。人間が熱心に求めるところに祈りの本質があるのではなくて、神様がそれを愛をもって、聴いて下さる、これが前提なのです。神は、どんなことがあっても信頼をしてよいお方だという意味です。平凡な人生訓ではない。これは信仰の話なんです。神様とはどんなお方かと言うことを説明しようとする物語なのです。

 「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイ7:9~11)人間の父でさえ、これくらいのことは子どもにするのだ、まして天の父は、人の求めに必ず良き物をもって答えて下さる。そのことを信じるのだと勧めるのです。そしてその「深い信頼」こそ、私たちの祈る勇気の源泉です。祈りは空しくない。祈りは楽しい。何故なら、憐れみの神がいつも聴いて下さっておられるからです。

 一人の老婆が「こんなはずじゃなかった」と言ってこの世を去った。それはどこが間違っていたのかということです。努力が足りなかったのではありません。彼女は人一倍求めて生きたのです。しかし、彼女が致命的だったのは、その求める相手を持たなかったということであります。祈りを聴いて下さる、憐れみの神を持たなかった。そこに、彼女の痛ましさがあったのではないでしょうか。

 皆さんも聞いたことがあると思います。有名な詩です。作者は分かりません。ニューヨークのリハビリテーション研究所に書かれていたものだそうです。ベトナム戦争で身心ともに深く傷ついた人が書いたとも言われています。それは、「苦難にある者たちの告白」という題の言葉です。

私は神に力を願い求めた
そうすれば偉大なことを成し遂げられると思った
でも私には弱さが与えられた
謙虚に従うことを学ぶために

私は健康を求めた
人よりも勝ったものになるために
でも私は病に倒れた
人への憐れみを学ぶために

私は富を求めた
幸せになれるように
でもその代わりに貧しさが与えられた
智慧を学ぶために

私は権力を求めた
人々の賞賛がほしかったから
しかし、私には弱さが与えられた
神に頼ることを学ぶために

求めたものは
何一つ与えられなかったが
私が望んでいるものは
すべて与えられた
言葉にならない心の祈りが
すべてかなえられたから
今、わかる!
私はこの地上の誰よりも
豊かな祝福を受けているのだと・・・

 この人も求めて生きました。そうすれば偉大なことを成し遂げられると。そのために、健康を、富を、知恵を、権力を求めました。しかしそれは得られませんでした。その意味であの老婆と同じだったのです。「こんなはずではなかった」と言うしかない人生でした。しかしその人生の一番最後に何を言ったか、それは全く違う。「求めたものは何一つ与えられなかったが、私が望んでいるものはすべて与えられた、言葉にならない心の祈りがすべて叶えられていたのだ」そう言って人生の幕を降ろしたのです。

 先ほどから私は、何度も、祈りは聴かれると断言しました。しかしここで急いで付け加えねばならないのは、9節に記されていますように、神とは、あくまで父であり、私たちは子だということです。父なる神は、子である私たちに必要なものを、ちゃんと知っておられるのです。子どもの年齢に合った贈物をする賢明な父親のように、私たちに最もふさわしい賜物を下さる。私たちは、子どもがそうであるように、自分にとって今何が本当には必要なのか、実は良く分からないで、欲しがるところがあるのです。もし神様が私たちの願いをそのままかなえて下さったら、実はそれこそが恐ろしい場合もあるのです。人間の罪の欲望がからまった、目先の祈りをそのまま神様が叶えて下さらないということは、むしろ恵みである時もあるのではないでしょうか。神様は私たちの祈りを聞かれない、という形で、私たちの祈りを叶えて下さるお方でもあるのです。

 9節の「自分の子に石を、蛇を与えない」とは、まさにその意味ではないでしょうか。しかし言葉にならなかったけれども、自分でも気付かないところで、私たちが求めているもの、それを神様は発見して下さり、叶えて下さるのです。だからこそ、私たちは何でも祈っていいのです。安心して祈っていいのです。神様はその拙い祈りの言葉の奥に隠されている、私たちの本心を、聞き分けて下さり、叶えて下さるのです。

 今、私たちは、アドヴェントの季節を過ごしています。数百年間に渡る旧約の民の熱烈な祈りに応えて、父なる神はメシアをクリスマスの夜、送って下さいました。祈りは聴かれたのです。しかし、そのメシアとは、イスラエルの民が願っていたような、軍事的メシアではなく、十字架のキリストでした。それは期待はずれだったのでしょうか。そうではありません。主イエスが、人の願い通りの軍事的メシアであられたら、とうに人類は絶滅していたことでしょう。メシアが私たちの予想を超えて、十字架の主、平和の王であられたからこそ、私たちに未来が残されたのではないでしょうか。

 このような仕方で、祈りは、必ず、聴かれるのです。

 ある日本の神学者は、カール・バルトの教会教義学の一節を展開して、こう言いました。「天地創造の初めから終わりの日に向かって、『神の計画と意志』は、人間を導き、世界を導いていかれる。壮大な神の救いの計画と意志が進んでいる。丁度、大きな河が海に向かって流れ下ってゆくように、進んでいる。ところがその河の面には、絶えず細かい雨が降り注いでいる。その雨の小さな一粒一粒が、私たち人間の願い求めだと、言っていいだろう。その大きな河は、その一粒一粒の雨を、(バルトの言葉で言えば)自分の中に取り入れつつ、編み入れつつ、海に向かって流れ下ってゆく。その場合に、その雨の一粒一粒は、大きな河の流れと、決して無関係なのではない。『さみだれを集めてはやし最上川』という芭蕉の句にあるように、最上川は、さみだれの一粒一粒の小さな水滴を集め、それによって水量を増し、速度を速めつつ、日本海に向かって流れ下ってゆく。私たちのどんな小さな祈りも、それがイエスの御名によって祈られる祈りである限り、決して忘れられるということはない。それは神の救いの大きな計画と意志の中で、必ず覚えられているだろう。…つまり、神の救いの計画と意志は、私たち人間の祈り求めと無関係に押し進められる独裁者の計画と意志のようなものではない。神は、あくまで人間の神、人間のための神であろうとされる。」

 本当に素晴らしい「耳」をお持ちの方を私たちは得たと思います。



 祈りましょう。  あなたは、必ず、祈りを聴いて下さる、その信頼の心を今、ここにいる全ての者に、ここには来ることができないまま、病床で苦しんでいる友に、看取りの生活を続けている人に、お与え下さいますように。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




a:827 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional