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2009年11月29日「聖餐にふさわしい人」

2009年11月29日 主日礼拝説教 「聖餐にふさわしい人」

  説教者 山本 裕司
  マタイによる福音書 7:6


 「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」 (マタイによる福音書 7:6)

 このマタイ福音書の言葉は「豚に真珠」という言葉で、よく知られている言葉です。しかし人が「それは、豚に真珠、猫に小判だ」と簡単に使うこの言葉を、むしろ私たちは口にしないのではないでしょうか。まして、この言葉を愛唱の聖句にする人はいないと思います。しかしこれもイエス様がおっしゃったのですから、私たちはそこに深い意味が隠されているとことを信じ、御言葉の意味を、尋ねていきたいと願います。

 昔からその意味を教会は探ってまいりました。『十二使徒の教訓』という1世紀末頃に成立したと思われる初代教会の文書が残されています。おそらく受洗前教育に用いられたと推測されますが、その中にこういう言葉があります。「主の名をもって洗礼を授けられた人たち以外は、誰もあなたがたの聖餐から食べたり飲んだりしてはならない。主がこの点についても、『聖なるものを犬に与えるな』と述べておられるからである。」この『十二使徒の教訓』は、一時期、東方教会において「正典」つまり聖書同様の価値をもって読まれました。初代教会の信仰や典礼、諸習慣を教えている貴重な書物です。この文書の中に、既に聖餐を信者のみに制限する「クローズド」の典拠として、今朝の主の御言葉が用いられたのです。

 この最初期の教会の伝統を受け継いで、私たちの教会では、聖餐の中で、司式者が注意を促します。「教会の定めるところにより、まだ洗礼を受けておられない方は…聖餐にあずかることが出きません。」あるいは「聖餐式文」の中に次のような言葉があります。「『ふさわしくないままで主のパンを食べ、その杯を飲むことのないよう、自分をよく確かめて、聖餐にあずかりましょう。」これもやはり、聖餐を制限する言葉です。聖餐にふさわしい者だけがあずかるのだ。その点では、今朝の福音書の言葉と共通の心をもっている言葉と言わなくてはなりません。

 しかし、このマタイの言葉が、ある種の不快感をもたらすように、こういう聖餐を制限する言葉も、時に人を躓かせます。最近は特に日本基督教団の教会の中で「クローズド」に異議を唱える牧師たちが増えています。聖餐を、未受洗者に与えないのは差別である。聖餐は全ての人に「オープン」であると主張するのです。聖餐における差別はやめろと言うのです。しかし、私はそうは思いません。私は聖餐を受ける資格というものが、はっきりあると思っている一人です。それは、既に受洗している私たちにも、厳しく迫ってくる資格であろうかと思います。聖餐式文は、その制限を「ふさわしくないままで、食べ、飲むことのないように」と「ふさわしい」という言葉で伝統的に表現してきました。「ふさわしい」とは資格を問う言葉です。今朝の御言葉と結びつけて言うならば、私たちがたとえ、洗礼を受けていても、主のご覧になられるところ、犬であり、豚であるならば、聖なるものに与る資格を失うのです。

 しかし、ここでどうしても問わなくてはならないのは、それでは、私たちが聖餐に与るのに「ふさわしく」なるためには、どうしたらよいかということです。「ふさわしくないままで…」という式文を聞いて、一月の内になした自分の罪や心の暗い秘密を思い出して、もう今回はパンを取らないで帰ろうと、来月こそは、正しい者として聖餐にあずかれるように、一月、努力しようと考える方もおられるかもしれません。もう私は犬でも豚でない。とうとう立派な人間になれから、今回は、聖餐を受けようと考える方がいるかもしれない。そういう正しい人間となることが、聖餐拝受に「ふさわしい」人間になれたということでしょうか。断じて、そうではありません!

 先週、私たちはマタイ7:1~5を読みました。主はこの続きとして、今朝の言葉をお語りになっておられることに、忘れてはなりません。「人を裁くな」という主の戒めです。あなたは人の目の中におが屑があると言って、責めている。しかしそう言うあなたの目の方に、よほど大きな物が入っている。それが丸太だ。だから「まず丸太を取り除け」(7:5)。しかし、そんな大きな丸太を自分で取り除くことは出来ない。主イエスにとって頂く他ないのです。罪の丸太を取って頂く。それが大変具体的には、サクラメント・洗礼、聖餐を受けるということに他なりません。私たちは、洗礼を受け聖餐に与らなくては、その罪の丸太に押し潰されて、滅んでしまうような存在です。主イエスが、私たちの原罪の丸太を背負って、ゴルゴタの丘を登って下さった。その救いを信じて受洗し、軽やかに生きることが出来るようになったのが、私たちキリスト者です。

 このキリストの罪の赦しの洗礼と聖餐を受けなくては、私たちは、一日でも、生きていくことは出来ないのです。「ふさわしい」とは、そのこと承知しているのかということです。主の十字架などなくたって、自分は元々、軽やかだし、楽しいし、元気だと、そう思うところに、むしろ主の食卓にあずかるのに「ふさわしくない」人間の姿が表れてくるのです。

 ルカ福音書に「神の盛大な晩餐会」(ルカ14:15~24)の譬があります。これは晩餐会に招待を受けた人たちが、いろいろな理由をつけて、会への出席を断ってしまった悲しい話です。ある者は畑を、ある者は牛を調べに行くと言い、またある者は新妻に気兼ねをして欠席すると言うのです。これは神の国の晩餐会です。神様がどうしてもこの席に人々を招いて、一緒に食事をしたいと願われ、食卓を整えて下さった時に、人は、それぞれ自分勝手な理由をつけて、神様の願いを踏みにじった。それは、まさに、豚が投げられた真珠を踏みにじっている、そう主イエスが言われた、その言葉をそのまま物語にしたようなお話なのです。理由は一々尤もかもしれません。しかし、彼らには足りないことがあるのです。それは、自分の人生を支える唯一ものが、この「神の盛大な晩餐会」であるということを忘れたということです。これにあずからなかったら自分は、丸太に押し潰され、滅びるのだということを知らなかったために、この晩餐を切実に求めることがなかったのです。このように、キリストの御体と御血潮が、自分にはもう不必要であると言ったとしたら、それこそが私たちキリスト者が犯す最大の罪であり、最も聖餐に「ふさわしくない」心なのです。

 そしてこのたとえ話は続いていきまして、主人は空席だらけの宴席を何としても、埋めるために、僕に、誰でもいいから「無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」(14:23)と命じます。そうして元々、招かれていない、いわば資格のない者たちが捕まえられるようにして客となって、この宴が始められたという話になっていく。そうやって、教会が建ったと、福音書記者は考えているに違いないのです。これは、実際にイエス様の回りで起こったことです。主は徴税人や罪人と食事を共にすることを好まれました(マタイ9:10)。ファリサイ派の人たちがこれを咎めた時に、主イエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしがきたのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(9:.12~13)と言われ、むしろ食事会に「ふさわしくない」と烙印を捺されていた罪人をこそ、お招きになられました。

 神は厳しい資格審査を経たクローズド・会員制の会を開こうとしたんじゃない。そうではなくて、むしろ、ほっておかれたら死んでしまうような人々を、滅びから救うために、主は食卓を作って下さった。そうやって招かれたのが、私たちなのであります。だから「ふさわしくない」者とは、それは真に逆説的なことですが、主の食卓なしに、生きられると思っている、立派な人たちのことです。
 しかし、実は、主イエスが御覧になられるところ、洗礼が不必要な人はこの世で誰もいません。実は、皆、等しく、丸太が目に入っているのです。むしろ私は、我が家の犬・パルくんを見ていて「本当に君は、洗礼はいらないね」と呟くことがあります。パルの目はいつも澄んでいます。それは、私たちの濁った目と何かが本質的に違う、美しい眼差しです。だから、イエス様が言われた通りです。犬には聖なるものは必要なない。何故なら動物たちは、エデンの園で禁断の木の実を食べなかったからであります。

 預言者たちはそれに気付きました。「牛は飼い主を知り/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず/わたしの民は見分けない。」(イザヤ1:3)

 「空を飛ぶこうのとりもその季節を知っている。山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る。しかし、わが民は主の定めを知ろうとしない。」(エレミヤ8:7)

 主イエス御自身が言われました。「空の鳥をよく見なさい。…」(マタイ6:26)

 初代教会の礼拝においては、求道者は、聖餐が始まる前に退出する決まりがありました。しかし、今、私たちは退出を請うことは致しません。むしろ求道者の方には、ここにいて頂きたいと切望します。それは私たち全ての人間が、招かれるべき場所はどこかということを、是非、御覧頂きたいと願ってのことです。求道者の方を差別しようなどと毛頭思いません。そうではなくて、むしろここにあなたたちも来て欲しい。一日も早く、前に出てきて欲しい。どうかその願いを、求道者の方々も、この聖餐をご覧になる度に、強めていって欲しいと願います。そういう招きの意図をもって、この聖餐は公開されています。主の食卓に与るためには、洗礼を受けることが求められます。
 洗礼を受ける、それは私たちが立派な人間になったしるしではありません。そうではなくて、むしろ話は逆で、このどうしようもない私たちが、キリストの贖いの恵みによって救って頂ける、そのことを願って洗礼を受けるのです。神なしに、私はもう生きることは出来ません。キリストぬきの人生はあり得ません。自分の原罪を知ったからです。罪人の祝宴、弱く愚かな者の晩餐、しかしその私たちが、洗礼を受け、食卓に与ることによって、やがて神様のことについては、賢くなる。強くなる。それも主は約束して下さっている。月初めにもたれる神の盛大な晩餐会への招待を、もはや誰も断らず、一人でも多くの者が、ここに馳せ参じて来ることが出来るように、主の導きを祈りましょう。


 主よ、私たちキリスト者こそ、あなたの恵みに慣れて、この世の誰よりもその恵みに鈍感になっているのではいかと、恐れる者であります。どうか、あなたにふさわしくない者を、御子の犠牲の故に、ふさわしい者と変えて下さった宇宙的な、壮大な御恩寵を思い出し、感謝して、食卓にあずかり続ける者とならせて下さい。なお信仰を求めている方に、あなた御自身が聖霊を豊かに注いで下さり、洗礼を受ける決意を一日も早くお与え下さいますようにお願いを致します。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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