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2009年 9月20日 「赦され、赦す、これが人生」

2009年9月20日 主日礼拝説教 「赦され、赦す、これが人生」

  説教者 山本 裕司
  マタイによる福音書 6:12


 「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」(マタイによる福音書 6:12)

 この言葉は少し言い換えられて、礼拝における「主の祈り」の言葉にとりました。「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」この言葉についての思い出を教えてくれた人がありました。彼女はあるキリスト教主義学校に勤めておりました。そこでは毎日礼拝がある。主の祈りもそこで毎日唱える。ある時気付いたのですが、同僚の教師の一人が主の祈りを唱える時に、この「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく」という一節を祈らないことに気付いた。その前後は祈るけれども、そこにくると口を閉ざしてしまう。 どうしてか。その先生はこの祈りを実行することが出来ないと思ったからです。人を赦すことが出来ないと思ったからです。だから出来もしないことを、口にするのは不誠実だと思ったのです。

 この言葉は少し言い換えられて、礼拝における「主の祈り」の言葉にとりました。「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」この言葉についての思い出を教えてくれた人がありました。彼女はあるキリスト教主義学校に勤めておりました。そこでは毎日礼拝がある。主の祈りもそこで毎日唱える。ある時気付いたのですが、同僚の教師の一人が主の祈りを唱える時に、この「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく」という一節を祈らないことに気付いた。その前後は祈るけれども、そこにくると口を閉ざしてしまう。 どうしてか。その先生はこの祈りを実行することが出来ないと思ったからです。人を赦すことが出来ないと思ったからです。だから出来もしないことを、口にするのは不誠実だと思ったのです。 ある牧師も説教で書いています。第一次大戦のことです。ドイツ軍がベルギーに進攻し多くの町を破壊した。次の主日、そこの壊れた礼拝堂で礼拝が行われた。礼拝が進んで、いつものように主の祈りになって、この句のところに来ると、みんな黙ってしまった。その時ドイツ軍が自分たちにしたことを思い出さざるを得なかったのです。それを思うと、とても赦す気になれない。だから誰も「我らをゆるすごとく」と口にすることが出来なかった。しかし少し時がたつと、誰からともなく「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく」と祈り続けたと言うのです。
 ある牧師も説教で書いています。第一次大戦のことです。ドイツ軍がベルギーに進攻し多くの町を破壊した。次の主日、そこの壊れた礼拝堂で礼拝が行われた。礼拝が進んで、いつものように主の祈りになって、この句のところに来ると、みんな黙ってしまった。その時ドイツ軍が自分たちにしたことを思い出さざるを得なかったのです。それを思うと、とても赦す気になれない。だから誰も「我らをゆるすごとく」と口にすることが出来なかった。しかし少し時がたつと、誰からともなく「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく」と祈り続けたと言うのです。

 これらの話を聞いて私が先ず思ったのは、今例として上げた両者、一人の教師とベルギーの信徒たち、この人たちは主の祈りを決して「お題目」としてはいなかったということです。私たちは主の祈りを唱えることが、長い習慣になりますと、時に何でもないことに思えてしまう。しかし、この祈りを唱えること自体が既に戦いなのです。自分はあの人を赦しているのか、むしろ憎んでいるのではないか、この憎んでいるままで、この祈りを唱えていいのか、そういう葛藤です。そういう誠実な姿勢を、私はこの両者の姿から学ぶのです。しかし、さらに言えば、その戦いの末に、この祈りを祈ることを止めてしまう。そういう人間の「誠実」さで終わるのではなくて、最後は、主に従うのです。主イエスがこう祈れと教えて下さった御心に従い、人間の「誠実」を超えて、この祈りを祈ることが出来る、そうです、あのベルギーの信徒のように、やはり躊躇を超えて、誰ともなく、この祈りが再開させて礼拝を守る、そういう私たちでありたい、そういう西片町教会でありたい、そう願います。

 「わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。」この祈りを祈りにくくしている理由は、ここをこう読むからかもしれません。私に負い目ある者を、私は赦しました、だから神様、私の罪も赦して下さい。つまり私たちの罪を神様が赦して下さるというのは「ただで」と言うのではない。一つの条件がいる。それは先ず私たちが人を赦すのだ、そうしたら神様も私たちの負い目を赦して下さる。そう読みますと、私たちがふだん教会で聞いている話と違ってまいります。プロテスタント教会というのは、私たち人間が救われるのに条件はない、ただ恵みによって救われるのだと聞かされます。するとどうもイエス様が、ここではそういう聖書を貫く教えと違うことを言っているのかという話になってきます。そんなことはないと思います。ここを原文で読む学者が説明するのは「ように」「ごとく」と訳される言葉は、ギリシャ語で読むと決して条件の言葉ではない。ただこの二つの文章を繋ぎ、結びつける言葉なのだと言います。ですから新改訳聖書ではこう訳されます。「私たちの負いめをお赦し下さい。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。」私たちが赦した「ように」、とか、赦す「ごとく」という言葉は注意深く省かれています。

 しかしこういう議論をします時に、私たちが注意しなくてはいけないことがあるでしょう。なるほど原文を読めば、まず我々が人を赦して、初めて神様から赦されるなんてことではない、よく分かった。そうであれば、誰も救われる者はいない。だからやはりこの言葉も、私の罪が赦されるということが問題なのだ。ああ、牧師の説明で安心した、そう思うってことです。つまり、そこでは自分が人の罪を赦しているか、なお赦せないかは、問われない。それでいいのだと思う。そうであるなら、そういう信仰者の甘えに対して、主はこの祈りをもって挑戦しておられると言わなければなりません。人を憎み、赦さず、陰に陽に仕返しをしつつ生きる、そうやって、自分だけは何をしても神様はお赦し下さると思う、そういうことがありうるのかと、主はこの祈りをもってお問いになっておられるのです。

 ここを祈る時私たちがどうしても持たなくてはならない思いは、自分のなす赦しは、救いの条件ではないけれども、しかし自分のなす赦しと、神様がこの私を赦して下さるということとは、深い関係がある、結び付きがあるということです。先にも言いましたが「…ように」この言葉は、緊密な結び付きを表す言葉です。まるでこの二つの祈りの言葉は、二本の棒が、互いに支えあって初めて立っているような、それほどの結び付きがある。神に赦されている者は、人を赦すことを学ぶということです。

 ある時、新聞の「声」の欄を読んでいましたらこういう思い出が記されていました。今は老いた男性の話です。その人が中学二年のある朝のことです。母のせきたてるような起こす声が聞こえる。あわてて飛び起きると、もう出かける時間になっている。まだご飯も炊けていない。弁当が出来てないのです。母親は寝過ごしてしまったのです。中二と言ったら、反抗期です。この人はお母さんを怒鳴りつけて、飛び出した。お母さんは、心配して、人を頼んで弁当を届けてくれたそうです。ところがそれすら受け取ろうとしなかった。反抗期の子供のいる家庭ではよく起こることではないかと思います。時が流れてこの中学生も父となり、もう50歳になろうかという頃、母が病気になって失明して、死にます。その数日前に、子供たちを集めて、お母さんは一人一人が小さかった頃のことを話し始めたと言うのです。この人の番になった。目で見ることは出来ない。手を握って語り始めた。「あなたが二年の時だった。私が寝過ごしてお弁当を…」後は声にならなかった。この人は思わず、母親に抱き着いて「お母さん、ごめんなさい」と叫んだ、そしていつまでも泣いた。母も泣いた。苦難に満ちた戦争中に、十人もの子供を育ててくれた母、その母に自分は何てことをしたのだろう、そう書くのです。これは家庭についての数ある言葉の中でも、最も美しい文章であると思いました。そして赦し、赦されるということがどういうことであるか、私たちに明瞭に教えてくれる言葉だと思いました。

 私はこの言葉を読んで、もう一つある優れた言葉を思い出しました。それは谷昌恒先生の言葉です。先生は先ずこういうことをおっしゃる。大人は少し愚痴を言い過ぎる。そして愚痴っていうものは、およそ、自分だけのことを考えてるから、出てくるのだ、という意味のことを言われます。

 「うちが貧しかったから、お前たちを育てる時はひどい苦労をしたものだ」と、世の親はしばしば子どもにこぼす。貧乏というものは苦しく辛いものだ。育ち盛りの子どもを養うには、この上なく切ないものだ。しかし大人は育てる側の苦労を言うが、子どもの立場を忘れてしまっている。小学校の教室で、教師がPTAの会費を明日までに持ってくるようにと言う。子どもははっとする。今頃、家にお金がないことを知っているからです。だから母親を苦しめたくないと思い、そのことを言わない。学校で先生に聞かれると「忘れました」と言う。何日たっても、同じ答えをしている内についに教師が怒ってしまう。子どもはそこで思う。どうしてこんな嘘をつかなくてはならないのだろう。子どもは貧困の苦しみをある意味で親以上にそうやって味わっている。ところがそこで、親の方からうちが貧しく苦労が絶えないという話が出た時に、それを率直に聞けないのは当たり前だ。親だけが苦労してるんじゃない。子どもは自分は黙々と耐えているのに、と思うと言うのです。

 そういうことを言いながら、谷先生は、ある人の文章を引用されます。貧しい家庭ではあったけれども、男の子三人を大学まで出させた母は、長い間晴れ着一枚新調せずに子どもらのために忍苦の生活を続けてきた。しかしそれでもこのお母さんは、長男が卒業した時こう言ったと言うのです。よく子どもが一言の不満も言わずに、不自由を忍んでくれて、ありがたく思う。母親はその乏しい家計の中で、子どもにしてやれることは、ほんの少ししかないことを心苦しく思っていた。この母親の意識には、自分の苦労など初めから存在していないのだ。母親は自分の無力を思い、いつも、子どもの後ろ姿に手を合わせるような思いであった。「何もして上げられ なくて、本当にすまないね」と。そして谷先生は言うのです。母親がそうした気持ちでいるから、子どもも黙って、その母親についてきたのだ。それは、響きあう「こだま」のようなものであったと言うのです。

 今私たちは、赦すことと、赦されることは、響き合う「こだま」のように、一つであるという話を聞いているのです。投書について言えば、このお母さんは御自分の死の時が迫っている時に、忘れられなかったことは、弁当の思い出です。中学二年の息子にすまないことをした、赦して欲しいという思いだった。すまなかったね、と苦しい息の中で言おうと思った時に、返ってきたのは、50歳になる息子の「母さんごめんなさい」という涙声でした。

 しかしもしその時、この母親が、お前はあの時、怒ってとどけた弁当も突っ返した、どんなに私が傷ついたことか、だいたい朝寝坊ばかりしてるのはお前の方じゃないか、と言ったらどうなったでしょうか。このお母さんはそう言うことを幾らでも言えたと思う。人間関係とは、特に家族の関係というのは、言おうと思えばいくらでも相手に文句を言える関係なのではないでしょうか。あの最初の夫妻、アダムとエバが、禁断の木の実を食べてしまった時、アダムは、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(創世記3:12)と、みな妻が悪いのだ、と言ったのです。さらに言えば、あんな悪い女を与えられた、神様、あなたが悪いのです、そう言ってのけた。私たちが堕落するとは、こういうことです。自分の罪を認めないのです。心から、ごめんなさい、と言うことが出来ないのです。しかしそれでは、先ほどの美しい家族の話は生まれなかったのです。自分の傷にばかり敏感な者は、自分を傷つけたと思う者の過失や罪を赦すことは出来ません。自分がひたすら被害者だと思っているからです。ただ自分だけが苦労した、自分だけが我慢している、と思っているからです。本当にそうなのかと言うことです。

 「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(マタイ6:14~15)

 神のご覧になられるところ過ちなき者はいません。皆、加害者です。私たちは、立派な人間になったから、赦されたのではありません。聖書は主イエスを十字架につけたのは、私たちだとはっきり言っています。私たちがキリストを傷つけたのです。しかしそれを主は、驚くべきことに、赦して下さったのです。恨みつらみを言いませんでした。罪を犯さざる得ない私たちの人間の弱さと悲しみを知っておられたからです。その時、私たちはなおも、我々は被害者であると、あいつを赦せないと言うことが出来るかと言うことです。そんなこと言う権利があるかと言うことです。赦せないと言うのは、人間の傲慢です。私たちこそが赦されなくては生きていけない存在だからです。そのことを主の祈りは私たちに思い起こさせ、同時に私たちが赦しに生き始めることを強く促す祈りです。


 祈りましょう。   主よ、主日毎に、罪の赦しを得るために、へりくだって礼拝堂に入り、他者の罪を赦すために、勇んで礼拝堂を出ていく者とならせて下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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