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2009年 6月14日「腹を立ててはならない」

2009年6月14日 主日礼拝説教 「腹を立ててはならない」

  説教者 山本 裕司
  マタイによる福音書 5:22

 「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(マタイによる福音書 5:22)

 聖書を読むということは、厳しいことです。特に今私たちがしていますように、礼拝の中で聖書を読むということは、さらに厳しいことです。礼拝において神の言葉を聞いている内に、私たちは、忘れていたことを思い出さざるを得なくなるからです。この一週間、忙しさに紛れて、思い出さずに済んできたことを、思い出すのです。いえ、あんなこと何でもないことだと自分に言い聞かせ、真剣に考えることをしてこなかった暗い秘密を、神はこの礼拝において問うことを始められる。神様の前でなければ、私たちは何事もなかったかのような、すました顔をしていられたかもしれません。しかし、人前では誤魔化すことの出来た私たちの心の闇を、神は見逃されません。礼拝とは、神とお会いする場所です。神と会った時、人類最初の殺人者カインが「お前の弟アベルは、どこにいるのか」(創世記4:9)と問われ、逃れることが出来ず、ついに御前に膝まずいてしまう。それと同様の体験を、私たちは礼拝においてするのであります。

 今、繰り返し「思い出す」と申しました。それは今朝私たちに与えられていますマタイ5:23に「思い出す」という言葉が記されているからです。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら…」いつ、思い出したのでしょう。祭壇に供え物を献げようとした瞬間です。礼拝とは、こういう体験を私たちに与えるものなのです。それは何と苦しいことでしょうか。「兄弟が自分に反感をもっている」ことを思い出すのです。「腹を立てる」(5:22)ともあります。兄弟に腹を立てている自分の心を思い出すのです。怒りが爆発して家族の一人を罵った時、あの時の兄弟の顔、苦しそうに顔をゆがめて俯いた顔。しかし暫くして、私たちはその顔を忘れるのです。自分にこう言い聞かせて。あれはあれで良かったのだ。理由があるのだと、あれで正しさが守られたのだから。そう言い聞かせて、夜もよく眠れるようになっていたのに、神様に再会した瞬間、神は問われる。「お前の兄弟は、どこにいるのか」と。「お前が腹を立てている兄弟は、どこにいるのか。」「お前に反感をもっている兄弟はどこにいるのか」と。

 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。」(5:21)

 私たちは、実際に人を殺したことはないかもしれません。ところが、腹を立てても、「ばか」と罵っただけでも、神は黙っておられません。人は、余り咎めないかもしれません。それどころか「そうだ、そうだ、よく言ってくれた」と同調者を大喜びさせるかもしれません。そのように世間では罰せられることがなくても、神はこれを「最高法院」で裁くと言われるのです。これが聖書の厳しさなのです。こういう厳しい言葉に触れると私たちの心はいろいろな動きをし始めます。

 ある牧師が書いていますが、この福音書の写本の中に、「兄弟に対して腹を立てる者」(5:22)、ここを「兄弟に対して、理由なしに、腹を立てる者は」と写したものがあるそうです。オリジナルは「理由なしに」という言葉はなかったと言うのが学者の結論です。どんな場合にも、怒ってはならない、そう主イエスはおっしゃった。ところがこれを書き写した者が、これは納得出来ない。人が生きる時、どんな場合も怒ることが許されないというのは厳しすぎる。正当な怒りもあるはずだ。ただ、正当な理由なしに腹を立てる、それは裁かれてもしかない、そう考えて「理由なしに」を書きこんじゃったと言うのです。これは私たちにとりましても、本当に身につまされる改竄だと思います。

 ある神学者は、怒りは「真実」のもつ裏側だと指摘しました。真実を尽くして友情を育んでいたところが、相手が裏切った、その時怒るということは当然のことではないか、もしそこで怒らなかったら、そこにもともと真実もなかったのだ、そういう議論をするのです。その通りだと思います。しかし主はそうおっしゃらなかったのです。主はここで過激になっておられます。言い過ぎておられる、と思えます。どうしてでしょうか。主は、私たちの心の内の隠された闇をご存知だったからだと思います。私たちが腹を立てる時、ああ、自分は理由なく怒っていると、思うことがあるかと言うことです。必ずその人なりの理由があるのです。私が怒ったのは裏切られたからです。正義のためです。当たり前です。いくらでも言うことができる。だから、教師の体罰も、戦争も容認されるのです。しかし、主は、隠された人の心をご覧になられます。主が洞察された、その怒りとは例えば結局、復讐のためであった。ストレス解消、八つ当たりであった。妬みのためであった。ある人が執拗に人を責めていました。容赦なく責め立てるのです。その時、ある人が耳元で囁きました。あの人は、彼に嫉妬しているのだ、と。

 主イエスはそのような私たちの心の奥底で起こっている怒りの元をよく御存じでした。私たちは元々一点の曇りもない真実などもっていないのです。だからその裏返しも濁る。神様が許して下さるような、変な言い方かもしれないけれども「美しい怒り」「清らかな憤怒」というものを私たちは実は、持つことはないのです。愛の裏返しである怒りを、聖なる怒りを、本当に持つことがお出来になったのは、この世でただお一人主イエスだけでありました。「宮清め」の主のお姿にそれが現れていると思います。それ以外に、手放しで怒る権利をもっている人間は存在しないと思う。主イエスだけが、私たちの罪に腹を立て、裏切りに怒ることが出来る
ただ一人のお方です。しかし、そのお方が「怒るな」と命じられ、その「怒らない」生き方を私たちに示して下さったのです。

 次回読みますマタイ5:27で主は「姦淫をしてはならない」と戒められました。しかし、姦通の女を取り囲んで男たちがいきり立った時、主はかがみ込み何か地面に書いておられた。そして、「あなた達の中で、罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:8)と言われ、そして最後に女に向かって「わたしもあなたを罪に定めない。」(8:11)と優しく言われたのです。

 主イエスはこうやって、怒らないで生きていくということがどういうことかを、その十字架の死に至る歩みにおいて、お示し下さいました。

 先週、私は幾点かの今朝の御言葉に関わる言葉を読んでいて、複数の人が共通に、この御言葉から示された一つのことを知りました。それは自殺の問題です。私たちは、他者に対してだけではありません。誰よりも激しく自分を「ばか」と罵り、「愚か者」と蔑んで生きているところがある。そうやって自分の生命を軽んじるのです。

 「訴える人と一緒に道を行く」(マタイ5:25)とあります。道を行く時、決して離れない人、それは誰でもない自分自身なのではいでしょうか。朝も夜も一緒に歩き続け、子どもの時も、大人になり年老いてた時も、自分を訴え続けるのは、入れ替わり立ち替わり歩く、あの人この人のことではない。生涯決して離れず共に旅をするのは自分自身だけです。長い人生行路の不真実の全て知っているは、自分だけです。その義なる自分が、罪ある自分を裁き殺そうとする。あの時、お前はこうしたな!と。恐ろしいことです。しかし、私たちは、その道の途上で礼拝することを学びました。そこで知ったことは、主イエスの赦しです。イエス様が私たちに向かって「わたしもあなたを罪に定めない」と言って下さり、それに代わって御自身がその裁きを一身に受けられて、死んで下さったのです。人に対して腹を立て、その自分の語っている義に、自分は少しも耐えられないにもかかわらず、人のことを裁く私たち。その罪を思い出すのが礼拝だと先ほど申しました。しかし、実はそれだけではないのです。それ以上に思い出すべきことは、その愚かな私たちを、しかし愚かと言われず、最後まで愛して下さった、主イエスを「思い出す」ためであります。私たちが裁きを受けて死なねばならない時、自殺しなければならないと思う時、主が、それを止めさせるために、御自身が十字架について下さった。御自分の命を注ぎだして、私たちの罪を赦して下さった。その主イエスを思い出し「あなたは生きて良いのだ!」という御言葉を聴くために、自分が自分と「和解」(5:25)するために私たちは毎週、礼拝に馳せ参じて来るのです。

 先に礼拝や聖書は、厳しいと申しました。しかし、繰り返し申します。実はそうではないのです。それどころではない。これは本当に祝福です。聖書は私たちを生かすために、私たちの心の秘密を露にし、その上でそれを主の十字架の贖いによって癒し、そして兄弟と、自分自身との和解の喜びに導いてくれるものです。実は聖書ほど甘い、暖かな本はこの世にはありません。


 祈りましょう。  主よ、御子が私たちが受けねばならない神の怒りを一身に受け入れ、私たちの命を救って下さった恵みに、心より感謝致します。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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