日本基督教団 西片町(にしかたまち)教会へようこそ!バリアフリーの教会です。 どなたでもいらしてください。

2009年 5月17日「天の大きな報い」

2009年5月17日 主日礼拝説教 「天の大きな報い」

  説教者 山本 裕司
  マタイによる福音書 5:10


 「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイによる福音書 5:10)

 ここに出てきました「迫害」ということは、私たちには、縁遠いように思えるかもしれません。それだけ良い時代になったのでしょうか。それだけ、世間が私たちキリスト者に愛情深くなったのでしょうか。そんなことはないと思います。私は、時にキリスト教に対して、敵意のようなものが、日本人の中にあるのを感ずることがあります。その理由を、徳川幕府が徹底的に植え付けたキリシタン邪教観が日本人の潜在意識に残存しているのだと説明されることもあります。あるいは、在日大韓基督教会の李仁夏牧師は、日本伝道の不振の原因を「国家」にあると言っています。明治以来、国家が(天皇中心の)疑似宗教体として、国家神道を作り、靖国を保持している限り、伝道は進まないだろう、と書いています。そのような精神構造の中で、例えば、かつて湾岸戦争が起こった時、神道や仏教の学者たちが声を挙げましたのは「一神教の限界」ということです。キリスト教もイスラムも唯一の神を崇めるから、自己絶対化が起こり妥協を許さぬ戦争となるのだという批判です。その点で、日本古来の多神教は寛容な心を醸成するのだ、と言いました。そういう非難がぱっと出てくる。あるいは、環境破壊の原因も、人間が自然を征服し統治するという、創世記の考えが原因なのだと、まことしやかに学者が論じたのです。これは粗雑な議論でありとうてい学問と呼べるものではありません。こういう「中傷」の類の背後に、キリスト教に対する憎しみがあるとはっきり指摘した人もいます。

 そういう意識的、あるいは無意識的な、教会に対する反発が、この日本に存在する中で、私たちは冷たい視線に晒されることは避けられないと思います。家族の中でも一人だけ信仰が違うために、孤立するということが起こります。信仰を棄てろとは言われなくても、何かあれば、夫や姑から、皮肉っぽい言葉を投げつけられる、そういう経験している妻はまことに多いと思う。私は小学生の時も中学生の時も、クラスで教会学校に通っているのは、私一人でした。その時、そのクラスで、誰かが教会だったか、イエス様だったか、揶揄するようなことを言ったのです。そしてどっと皆が笑った時に、私もつい一緒に笑ったのを、胸痛む思いで思い出すことがある。そうやって私たちはこの世で、上手に振る舞うことを覚えるということがあるのではないか。自分がキリスト者であるということを隠すのです。そうやって小さな迫害を避けようとする。しかし、実は、それは、主の祝福を頂き損なっていることなのです。

 「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

 徳川幕府は切支丹弾圧に邁進したと申しました。しかし、信仰をもつことが殉教に結びつくような時代においても、実に多くのキリシタンが信仰を守り抜きました。150年前、日本はついに鎖国を解きます。フランス人のために長崎に大浦天主堂が建てられました時に、浦上の隠れキリシタンが名乗りをあげる。250年にわたる迫害の日々を彼等は耐え抜きました。一体彼等にそのような耐える力を与えたものは何かということです。多くの人たち指摘しますのは彼らには「希望」があったということです。その一つはこういう希望でした。「七代後に、ローマのお頭様(教皇)から遣わせられたパードレ(神父)が来る。」「どこでも大声でキリシタンの歌をうたって歩ける時代が来る。」そう信じたのです。本当に不思議なことですけれども、このキリシタンの預言は成就しまして、まさに7代、250年後に異国の神父が日本に現れました。

 信仰が見破られて残酷な刑を受けねばならない時もありました。しかしその時も死んでも信仰を棄てない者が沢山いたのです。自分のこの信仰は、報いられるという希望の故に耐えることが出来たのです。だから彼等は殉教の死を遂げる時にこう歌ったそうです。「参ろうや、参ろうや、パライソの寺に参ろうや」このパライソというのはポルトガル語の「天国」のことです。我々は天国にいく。その確信が彼等の信仰を守ったのです。このキリシタンの殉教の歌は、今朝の御言葉から生まれたのではないでしょうか。「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」(5:10~12a)この12節は口語訳ではこうです。「天においてあなたがたの受ける報いは大きい。」信仰を守り通した者には「報い」が約束されるのです。

 私は若い伝道者であった時、四国の教会で「キリスト教は御利益宗教ではない」と説教したことがありました。信じれば、学校に受かるとか、お金が儲かるとか、教会はそれを言わない、と。その礼拝後、一人の長老が近寄って来まして「教会にも御利益があるのではないですか。信仰者には永遠の命が与えられると言われていますね」とおっしゃられた。私は本当にそうだと思いました。それから御利益宗教という言葉を控えるようになりました。「報い」、これははっきり御利益です。

 キリシタン時代ではない今も、教会員になるといろいろな苦労があるかもしれません。教会生活がなければどんなに楽だろう、と思う人もいるかもしれません。そうやって教会に来なくなる人もいます。しかし試練があったとしても、損するばかりじゃない。それどころじゃない、私たちは得をする。だから「喜びなさい。大いに喜びなさい。」と主は信仰生活を御奨励下さる。「大いに喜べ」と訳されている言葉は、興味深いのです。「踊り上がる」あるいは「欣喜雀躍」と訳せるそうです。ただニッコリするっていうんじゃない。私たちは、この道を歩いた末に、飛び上がる程の御利益が待っている、と言うのであります。

 その利益の理由は「義のために」(5:10)とありますが、それは言い換えられて11「わたしのため」(5:11)とあります。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」しかし私たちは心が弱くなると、他者の眼を気にするほどに、主イエスのことを気にしないということあるのではないでしょうか。先ほどから申しているように、この日本では、周りに実に多くの神を知らない人たちがいる。現在、日本のキリスト者人口は、1%以下になったと言われます。100人いれば、99人以上の人が、違う信仰思想をもっている。それがはっきり目に見える現実です。

 先ほど、もう一箇所読んで頂きました旧約聖書・列王記下の物語では、アラムの夥しい軍隊がイスラエルを町を覆った時、従者は恐れおののいた、とありました。そのように、私たちは肉眼に見える大きさや力を恐れます。それに対して、神は肉眼で見えません。教会もまた目で見る限り小さいのです。

 ローマ帝国がキリスト教を公認した後、紀元325年、ニケヤ会議という世界初の教会会議がありました。出席した監督たちの中には、迫害のために傷を負っている者が少なくありませんでした。その会議は、キリスト論に議論が集中し、ついにキリストは神と「同質」であるとの永遠不動の結論を得ました。彼らが拷問に耐えることが出来た理由こそ、まさに、この信仰告白にあったのです。「主は…み父と同じ本質(神性)を持たれます」(ニケア信条)。監督たちには拷問のただ中にあっても、イエスの神としてのこの目映い輝きが見えていたのです。

 ある日の新聞のコラムにこんな話が紹介されていました。第二次大戦中にドイツの捕虜収容所で起きたという話です。捕らえられているフランス兵捕虜達は、重苦しい気分で収容所の生活をしている。彼等は絶望のあまり、士気を失いいらいらして、けんかばかりしている。退廃的になってしまう。これではいけないと、ある将校が考えた。彼は一つの提案をします。「諸君、男ばかりのこの群れに祖国の美しい女性が 一人いる、と想像しよう。」それは受入れられましてその遊びが始まる。だれもが彼女に気に入られるようにと、紳士的になる。そこに規律とゆとりが生まれたと言うのです。収容所にいた美少女は架空の存在でした。ましてイエス・キリストは架空の存在ではありません。私たちのただ中にリアルに、神として、いつも御臨在なさるのです。 アラムの大軍の前で、自信喪失となる従者に、預言者エリシャは「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って主に祈りました。「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください。」すると、主が従者の目を開かれ「彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た」(列王記下6:16~17)のです。それに似て、マタイ17章に出て来るのですが、イエス様が3人のお弟子を連れて山に登りました時、イエス様の姿が変わり、そのお顔は太陽のように輝かれたという出来事がありました。それを「山上の変貌」と呼びますが、それはキリストこそ神そのものであられるということが、弟子たちの前に露わとなった一瞬でした。

 ニケアにおいても、「イエスは神なり」という事実を見ることが出来た者たちが、迫害に耐えることが出来たのです。その信仰に生き抜いた者を、イエスが真の神の威力をもって、報いて下さると信じたのです。この道を歩めば、天国が待っている。死後の話だけではない。今生きるこの場で天からの報いがある。真の神・イエスから「幸いです、おめでとう」との祝福の言葉を頂くことが出来るのです。だから、私たちは迫害に耐えることが出来る。そのために、この上なく白く輝く真の神・イエスを、繰り返し、霊の眼差しを開いて、見せて頂くために、これからも、主日の礼拝をかけがのないものとして守っていきましょう。


 お祈りを致します。
 私たちの信仰の眼差しは時に曇り、イエスこそ神であられることを見失ってしまいます。それに連れて、この世を恐れてしまう者です。どうかこの不信仰を悔い改めさせて下さい。神と同質である御子が、神の権威をもって、私たちに天の御利益を与えて下さることを信じ、信仰を死に至るまで貫く者とならせて下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




a:1316 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional