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2009年 5月10日「我らピースメーカーとなる」

2009年5月10日 主日礼拝説教 「我らピースメーカーとなる」

  説教者 山本 裕司
  マタイによる福音書 5:9


 「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイによる福音書 5:9)

 「山上の説教」第7番目の祝福において、主の言われる「幸いな人」とは、自分一人が平和の中に安住している人のことではありません。主は「平和を実現する人々が幸い」だとおっしゃるのです。口語訳では「平和をつくり出す人」です。「ピースメーカー」を主は祝福して下さるのです。

 私たちは、誰もが、平和を欲しています。平和、安泰を求めています。しかし、そういう願いを持てば持つほど、返って私たちは他者と争って生きるということはないでしょうか。自分の平和が犯されそうになる時、人は牙を剥くものです。戦争はいつも平和の名目をもって始まりました。それは、私たちは自らの平和を追い求める中で、他者のことはどうでもよくなるからではないでしょうか。しかし隣人を忘れたところで得られるは平和とは「平和がないのに『平和、平和と言う』」(エレミヤ8:11)ことに過ぎないのです。

 犬養道子さんの『人間の大地』はこう記します。「この地球の北の国々が南の国々の富を収奪し、それによって富み栄えているという現実です。この地球で、食生活を可能とする耕作可能の大地は、僅か最大30センチの深さしかない。その何十万年もの歳月をかけて作られた神の賜物を、人はどう誤解したのか、全て自分たちの物と覚えた。さらなる豊かさと美味を求めて、北の人々は、大地に暴力を振るい続けた。そして大地は、多量の薬を常用する者が、最初元気になり、その後廃人となるように、病む。森が剥ぎ取られた大地は洪水によって、表土が押し流される。そして次の乾期が来た時、土地はもはや草一本を生じない。そして夥しい飢餓難民が現れる。」

 現在も延々と続いている現実です。もし私たちが本当に平和を実現するためには、私たちの貪欲を制御しなければなりません。どこかで禁欲し、自前の平和を自粛しなければ、真の世界平和は実現しない、と指摘されるのです。

 「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」

 犬飼さんは、大地が破壊されてしまった理由を、世界の分裂、分断と捕らえています。共に生きようとしない世界のなれの果てだと書いています。「一つの小世界がある。スコールの多い熱帯の森、その無数の樹木のてっぺんに小鳥が巣をつくり、少し下がった枝には大きな鳥、その下にはサル、次に蛇、その下は野獣、木の根本にはさまざまのキノコや灌木、草。学者が、上から順番に、これらの動物を、取り去ってみる実験をする。そして、森の状態を数年に渡り調べる。たださえずっているだけに思えた小鳥を取り去っても、遊んでいるサルを取り去っても、たちまち森は違って来た。ひこばえが出なくなり、木々が弱ってしまった。野獣が踏みしだくことによって、木々やきのこが元気に生きられるということも分かった。すなわち、大も小も鳥も動物もみんな互いに互いを支え合って、ユニティ(一つの有機体的結合)である森を作っていた。全体のために役にたっていないものはそこにはなかった。」そして犬養さんは続けるのです。宇宙の神秘。ユニティ。相互性。大地の神秘。ユニティ。相互性。人間の神秘。ユニティ。相互性。今、北と南が分裂し、北が南を収奪することは、決してどんなに豊かに見えても北の平和ではない。平和に見えるのは一時的であって、南が破壊された後、北も少し遅れて破局へ向かはざるを得ない。一つの小さな地球の上でばらばらに生きることはできない。生きるためには、ユニティが回復されねばならない。つまり和解されねばならない。隣人の幸いが、我が幸いとならねばならない。そこで、突然、犬養さんは、主イエスの最後の晩餐、つまり一致の聖餐を取り上げ、そして、キリストは和解のために来られたと、一つにするために来られたと言われる。人と人との和解。人と万物との和解。何よりも神との和解。この干からびた大地の上に立たれた神の子による絆の回復以外に平和がつくられることはない、そういう意味のことを言われるのです。

 「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」

 東京教区・西南支区社会部主催「平和と核廃絶を求める集い」講演集の中で、梶原寿先生は、マーティン・ルーサー・キング牧師の言葉を引用しています。「バラバラに分裂していたある家族が、一軒の家を相続することになって、これから一緒に住まなくてはいけなくなった、そういう小説がある。」そう紹介して、キングは続けるのです。「これこそがこれからの人類の大問題である。我々は今一軒の大きな家、〈世界の家〉を相続したのである。そこで我々は、みんなで一緒に-つまり黒人と白人、東洋人と西洋人、異邦人とユダヤ人、カトリックとプロテスタント、イスラム教徒とヒンズー教徒が、思想も文化も関心も全く違う集団でありながら、決して二度と分かれて暮らしてはいけなくなったゆえに-ともかく何とかして、お互いに平和に共存していく道を学び取っていかなければならないのである。」

 そこで、梶原先生はこのキングの教えを今、実践している人たちとして9・11テロの犠牲者家族が作ったNPOピースフル・トゥモロウズを紹介しています。その活動の中心は、復讐心を捨てるということです。一人一人が、暴力の連鎖を断ち切るための不動のドミノの一駒になることを決意したと言われるのです。 そのメンバーの一人は、東京講演の中でこのように訴えました。「…私は今、77歳になる母の言葉を思い出します。母は息子の死を知ったときに悲しみにくずおれてしまって、『ジム、ジム、ジム』とただ息子の名前を繰り返すのみでした。しかしそれから、彼女は言いました。『わたしはこの悲しみを、他のいかなる人にも味わわせたくはない』と。彼女は、世の母親が味わう最悪の悲しみのただ中で、ただ自分だけのことではなく、全ての母親のこと(つまりアフガニスタンの母たちのこと、イラクの母たちのこと)を考えたのです。ただ自分の息子のことだけではなく、全ての子どものことを考えたのです。」

 「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」

 「平和を実現する人」、このギリシャ語が元々どういう人に対して用いられてきたのかをある人が分析しています。これはローマ皇帝のような大権力者を呼ぶのに用いた言葉だそうです。また「神の子」という言葉も、聖書以外ではやはり皇帝などを呼んだ言葉だそうです。争いを静めてしまう者を、神の子・ピースメーカーと呼びましたが、それが皇帝でした。「ローマの平和」(パクス・ロマーナ)という言葉があります。ローマ帝国の軍事力経済力が途方もなく強くなった時、数百年間に渡って平和が地中海世界に保たれたと言われます。しかしそれは実は少しも平和ではなかったということは誰でも知っています。大帝国が、力尽くで植民地を押さえ込んでいるだけです。当時のイスラエルがそうであったように独立運動が起こると、直ぐローマ軍が派兵され、村一つを潰してしまうということも幾たびもありました。全世界を治めるピースメーカー・ローマ皇帝にとって、寒村の母一人の悲しみなど知ったことではかったのです。現在は「アメリカの平和」(パクス・アメリカーナ)と呼ばれるのです。しかしその末に待っているのは、犬飼さんの、あの熱帯の森の実験通りであれば、やがてその最強国も含めて全てが滅びに向かうということです。

 梶原先生の講演に戻れば、先生は、その中で思いがけずライス元国務長官のことを取り上げています。ライスは1954年生まれですので、現在54歳ですが、彼女は、全米中最も人種差別の激しい町・アラバマ州バーミングハム出身でした。父は牧師で大学の学長も務めた人で、母は音楽と自然科学の教師でした。彼女は幼い頃からありとあらゆる英才教育を受け、IQ200の抜群の知能を用いて博士号取得後、26歳で名門スタンフォード大学助教授となり、やがて終身教授となります。

 1989年に父ブッシュ大統領に見出され、国家安全保障会議理事となりました。さらにその流れで、子ブッシュ政権の国務長官という政権トップに上り詰めました。まさに、彼女はキング牧師の祈りの結実たる「公民権運動」の成果を一身に享受したトップレディーなのです。

 ところが、梶原先生によると、彼女の決定的問題は、テロリズムに関しては絶対的な〈力の信奉者〉であるということです。「譲歩や和解は悪人や暴君には効果がない」というのが彼女の信念でした。従って、9・11以後のアフガニスタンへの武力攻撃や、イラク戦争には、彼女の考えが強く反映していると言われています。まさに、彼女は力尽くのパクス・アメリカーナの信奉者だったのです。

 そして、梶原先生は、彼女のこの体質は、彼女が8歳の時に経験したバーミングハムでの黒人教会爆破事件のトラウマにあるという、驚くべき指摘をされます。その際、爆死した4人の少女の一人が彼女の親友でした。つまり彼女は、無意識か、意識的か、二度と、あの8歳の時の心の傷を受けないために、先制攻撃を支持したと考えられるのです。しかしそのために、無数の8歳のライスが、中近東で生み出されていきました。

 一方、この1963年9月15日直後、教会で行われた少女たちの葬儀に駆けつけたキング牧師は、こう告別の辞を述べました。

 「この少女たちの無辜の血は、この暗黒の町に新しい光を点ずる贖罪の力として奉仕しているのです。…実際、この悲劇的事件が白人南部を、その良心と和解させる原動力となるかもしれないのです。それ故、この時の暗黒にもかかわらず、私たちは絶望してはなりません。また暴力で報復しようなどと望んではなりません。私たちは白人兄弟への信頼を失ってはなりません。」

 この両者・ライスとキングは、同じ悲劇的事件のただ中で、どちらもピースメーカーたらんとして、しかし全く左右逆方向に進んで行ったと言ってよい。一方は、力で敵をねじ伏せることによって、一方は、御子の教えに従って「敵を愛する」ことによってであります。そしてこれらは、現在、私たちに、どちらの方向の道を歩くのかが、平和をつくり出すために、より賢明であるかを、より効果的であるかを、問うているのであります。

 「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」

 ローマ帝国から虫けらのように扱われ、独立を奪われていた当時のイスラエル民衆も、軍事的ピースメーカーを求めていました。そしてイエスにそのことを期待しました。主が都エルサレムに入城した時、人々は棕櫚の枝を振り歓喜して迎えました。「ダビデの子に、ホサナ」と。ダビデ王によって、イスラエルは軍事大国となり黄金時代を迎える。「イエスよ、ダビデのように武器をとってローマに打ち勝ち、平和を我々に与えて下さい」そうホサナと叫んだ瞬間、ふとイエスの乗る動物を見て、彼らは愕然としたのではないか。それは驢だったからです。主イエスは、「軍馬」に跨って入城されませんでした。御子イエスのこのパフォーマンスは、まさに、御子が造り出して下さる平和が、武力によってもたらされるのではないことを表しているのです。では何によってか。ユニティによってです。愛によってです。御子は、ユダヤ人だけを愛されたのではない。ローマ駐留軍百人隊長の僕が病気で苦しんだ時、それを喜んでお癒しになりました(マタイ8:13)。そしてその同じ百人隊長だったかもしれません。福音書のラスト、御子イエスの十字架を見上げて、百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」(マタ27:54)と言いました。彼は、自分が仕えてきたローマ皇帝が「神の子」ではないと暗にそこで告白したのです。全人類の罪の悲しみを、全て、我がこととして受け取られた人を、それほどのユニティ・相互性に生きた人を、敵を愛した人を、それが故に十字架で死なれた人を、彼は神の子と告白した。つまり真のピースメーカーと呼びました。

 「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」

 「本当に、この人は神の子だった!」この神の子に対する世界最初の信仰告白が、イエスの同胞ユダヤ人からではなく、ローマの軍人から発せられたことは、極めて暗示的です。つまり、それは、御子の十字架の愛が、敵を敵でなくしてしまったことを、表しています。「憎しみで敵を除くことは出来ない。出来るのは愛だけである。」とキングは言いました。

 そして御子イエスは、私たちにも、この御子の歩んだ道の先に真の平和があることを、ローマ百人隊長に続いて、信じる、信仰告白を求めているのであります。


 祈りましょう。  御子が、自らの平和を投げ捨てるようにして、真の平和をつくり出して下さった恵みに心から感謝します。どうか私たちも、御子に倣って、軍事力によらない平和の道を選び取る者とならせて下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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