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2009年 2月15日「光を見る我ら」

2009年2月15日 主日礼拝説教 「光を見る我ら」

  説教者 山本 裕司
  マタイによる福音書 4:15~16

 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」 (マタイによる福音書 4:15)

 2月10日、イスラエルで総選挙が行われました。開票の結果は、野党リクードなど右派陣営の大躍進ということになりました。労働党など左派が後退する一方、極右の「イスラエル我が家」が第3党に進出しました。新聞記事見出しには「右派躍進、かすむ和平」とありました。年末年始にかけて、中道の第一党カディマなど与党が、ガザを執拗に攻撃し続けたのも、イスラエル世論が右傾化した状況下での「選挙対策」であったという指摘もあります。そうであれば、ガザの人々の生命が政争の道具とされたということです。その結果、カディマはかろうじて、リクードと一票差で第一党を維持しました。しかし全体的には、好戦的な右派が過半数以上を占めたのです。ガザの政治学者は「右派が過半数を占めたこの結果は、イスラエルの民意が『和平交渉は終わりだ』と表明したいに等しい」と語りました。

 議席を倍増させた右派リクードは、パレスチナ独立国家の樹立には消極的です。リクード党首ネタニヤフ元首相は、この選挙戦終盤にパレスチナ北部に出掛けていきました。そこは、1967年の第三次中東戦争以後、イスラエルが占領している元々シリアに属するゴラン高原です。彼はその地に植樹をしたのです。それは「占領地は返さない」という強烈なメッセージであると、指摘されます。

 何故、私はこのような話をしているのでしょうか。私はそのゴラン高原のニュースを見ていて、しかし、急に胸に突き上げるような思いになったのは、そこにヘルモン山が大きく映し出されたからです。ヘルモンは憧れの山です。いや、実際はどのような所か知りません。写真や映像で見るだけです。しかし、憧れて一度見てみたい登ってみたいと思っていたのは、先ほど共に交唱した詩編の真に美しい歌からイメージを受けていたからです。

 「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り/衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。」(詩編133編)

 ヘルモンに雨の滴がしたたり、それが川となって流れ下り、シオンに住む神の民を潤し命を与える。命の源の山です。露を集める山です。しかし、その映し出された山の頂きには、イスラエルが「国家の目」と呼ぶ無粋この上ない戦略施設がそびえ建っているのです。ヘルモン山からはシリアの首都ダマスカスまで見渡せます。その要塞のような監視所でシリアを24時間見張っている。山は命の滴を集める聖地でなくなり、他民族を敵意をもって睨む争いの道具になりました。もはや、あの山を見て憧れる者はいないでありましょう。もはやその山を見ても、二度と美しい歌は生まれることのないと思われる、恐るべき「景観破壊」が起こっているのです。

 神の民の住むはずだった「聖地」が「戦地」となったことを私たちはここ数十年の中東戦争で知っています。詩編の歌う兄弟愛と裏腹に、人と人は同じ場所で争い続ける。そこに闇が広がる。死の陰が覆うのです。

 今朝与えられましたマタイ福音書4.:5「ゼブルンの地、ナフタリの地」とあります。そこは、ヘルモンの麓に広がるパレスチナ北部の地ですが、この名は、創世記に記される「ヤコブ物語」に現れる名です。ヤコブはイスラエル民族の太祖であり、12人の息子を儲けました。しかし、その家庭環境は真に複雑で、その12人は4人の母から生まれました。ヤコブには2人の正妻がおりました。その2人は血の繋がった姉妹でありましたが、2人とも父の陰謀によって、ヤコブの妻となりました。姉妹は自分の家庭での地位を確かなものにし、ヤコブの愛情を独り占めしようと、子を産む争いを始めた。子が出来ないとなると嫉妬の炎を燃やし、自分の召使いに子を産ませました。その妻ラケルの召使いに産ませた子がナフタリです。その時ラケルは「姉と死に物狂いの争いをして(ニフタル)、ついに勝った」と言い、その名をナフタリと名付けた」(創世記30:8)のです。そして、ゼブルンは、姉レアの6番目の男の子であって、その子が生まれた時、レアは「今度こそ、夫はわたしを尊敬してくれる(ザバル)でしょう。夫のために六人も男の子を産んだのだから」、そう言って、その子をゼブルンと名付けました(創世記30:20)。

 この女の戦いの最後に生まれましたのが、ラケルの初めての子ヨセフであり、ヤコブは最愛の妻ラケルに似たこの子を溺愛しました。ヨセフはそのため奢り高ぶり、10人の兄たちは妬み、ついにヨセフは兄たちの手にかかって半殺しにされる。この一家に真に暗い悲劇が起こったは、その母ラケルが言ったように「姉妹が、兄弟が、死に物狂いの争い」をしたからに他なりません。争えばその時々で、勝つこともあれば負けることもある。しかし、その争いの末に待っているのは「全ての兄弟姉妹が負けた」ということではないか。まさに先祖ヤコブ(=イスラエル)の家族同様、21世紀のイスラエルもそのような結末を迎えるのではないでしょうか。

 争いの中で生まれたヤコブの二人の息子を父祖とする部族の北の土地は、さらに言い換えられて「異邦人のガリラヤ」(4:15)と呼ばれています。族長ヤコブの子孫の町が、何故、真の神を知らない「異邦人」の町と呼ばれたのでしょうか。紀元前731年、イスラエルはアッシリヤ帝国の侵略を受けました。その時、このガリラヤはイスラエルの一番北側に位置したために、北の大国の進入を受けると真っ先に占領されてしまいました。そうすると、どっと異なる宗教や価値観が入り込んできます。偶像礼拝の影響を深く受けた町になってしまう。その中心の都市カファルナウムで発掘されましたユダヤ教の会堂には、様々な動物や、魔術的な意味をもつ像が装飾として彫られていました。そこを暗闇の地でした。しかしそこにであります。そこにイエスは来られる、そこに「住まわれたと」(4:13)とまで書いてあります。そこに、光が射す。マタイはここで叫ぶようにイザヤの言葉を引用しました。「暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」(4:16)このイザヤの預言は今、現実となりました。主イエスが、この暗黒の地に昇る光として来て下さったから。住んで下さったから。そう歓喜の声を上げている。そこで全てが変わるのであります。

 ロシア文学者の江川卓さんが『謎とき罪と罰』という、ドストエフスキーの作品の独創的な解説を書いています。『罪と罰』の主人公の一人にソーニャという娘がいます。このソーニャが住んでいる家についての、真に興味深い分析があります。ソーニャは家族の困窮をみかねてついに娼婦に身を落とすのですが、その職業を理由に家主に嫌われ、家族と共に住んでいた部屋を追い出されます。そしてある人の家の一間を借りて、そこで住む。その家主の名は、最初作家の創作ノートでは、日本語に訳すと「鉤手」、日本人になじみ深い物としては、炉の上にぶらさがっている自在鉤のことを思い出して下さればよいと思います。暖炉に鉄瓶をかける鉤状のものです。ロシア語でこれはウフヴァート。その家主の名はウフヴァートフ「鉤手さん」と最初、ドストエフスキーは名付けました。それにはこういう意味がある。ロシアの古い農家には異教の神「かまどの神」に生贄を捧げる祭儀が伝えられていました。その鉤手とは、その生贄を捧げるための重要な祭儀用の道具であった。ということは、少女ソーニャがその「鉤手さん」の家に住むということは、性の生贄として、鉤手に吊されたことを表現する。残酷な話です。ところが、ドストエフスキーは、結局完成された作品には、違う名前を採用しました。その名は、「カペルナウーモフ」。これはどこからとったかお分かりになるでしょうか。これはガリラヤの湖畔の町「カファルナウム」(4:13)からとったのです。作家は丁寧に、そのカペルナーモフの家族たちが、皆病に苦しむ貧しい人たちと描きます。ソーニャもその一人になった。それは不幸の極みと思われる。しかし、繰り返し申します。そこに主イエスは来て住んで下さる。このマタイの「住む」とは、寄留でないのです。ちゃんと家を建てて住むという意味の言葉が使われているそうです。カファルナウムに主は定住して、ここを癒しと悪霊追放の家として下さる。その時もはや「鉤手さん」の家ではなくなる。「ここは、主が住む、カファルナウムになったのだ!」だから、ソーニャは生贄から救われる。そうドストエフスキーは暗示しているのです。

 私たちの目から見たら、もう絶望と思える場所。しかしそこにも光は射す。闇が勝つのではない。死が勝つのでない。光が勝つ。命が勝つ。私たちもヤコブ(イスラエル)の家と同じです。自分の家の中に、ゼブルンをナフタリを、そして異邦人のガリラヤを抱え込んでしまう。争いを抱え込む。その時、主は逆の生き方を指し示される。「退く」(4:12)と。ヨハネの受難を聞かれた主は「ガリラヤへ退かれた。」それと共通して、14章で、ついにヨハネが首を切られた時に「ひとり人里離れた所に退かれた」。その同じ言葉がここにも用いられています。どうしてイエスさまはヨハネの受難を聞く度に、退かれるのか。退却されたのか。実はここは、イエスさまにとってチャンスだったのではないでしょうか。志を同じくする指導者が逮捕され、理不尽にも死刑になる。民衆はそういう時立ち上がるのです。権力と戦うのです。前進するのです。それこそ、総選挙でもすれば、イエスが票を独り占めするかもしれない。不正に対する怒りをてこにして、ヘロデ王を倒すことができる。その勢いに乗じて次の相手はローマ帝国だと民衆を束ねる時、イエスの王国は生まれます。しかし、主はその試みを退けられる。退くことによって、断固、退けられる。

 既に私たちは、2週間に渡って、荒野の誘惑を学びました。「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。」(4:8~9)そうやって高みにイエスは立つことが出来る。そうやってイスラエルの王になることが出来る。しかしそういう誘惑を、主は「サタンよ退け」と拒否されました。このガリラヤへの退却は、その具体的行動だったのです。ガザに進出したような軍事的権力を退け、むしろ十字架の「生け贄」になる方向へと退く。そこで「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4:17)と宣教されました。悔い改めとは、方向転換のこと。競争と前進を目指し、闇を抱え込んでいる人たちに、そうではないと、「退く道がある」と、そしてそこに真の命の水の滴が流れるのだと。「兄弟が共に座っている、何という恵み」と言われるヘルモンの美しさが回復する。「…ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。」

 露は、神の祝福の象徴。ヘルモン山の雪解け水こそ命の水。天から降り注ぐ露は、キリストの降誕をも象徴すると言われます。退いて、十字架につくことを誰かが決意しなくては、争いはなくならない。その最初に退いて見せた私を見なさい、と。どこに和解があるか。どこに光があるか。どこに天の国の潤いが満ちるのか。あなたにも見える。振り返れば、つまり悔い改める時、あなたにも見える。退却は恥ではない。主の伝道は、どこまでも争いに生きる私たちへのこの呼びかけから始まるのであります。


 祈りましょう。  果てしなき不和の故、干からびてしまったような私たちの上に、命の滴を注いで下さい。振り返り、退き、あなたの恵みの御光を仰ぐ者とならせて下さい。





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988





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