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2008年7月 日「多様であること、一つであること」

2008年7月 日 「多様であること、一つであること」  

  説教者 山本 裕司
  コリントの信徒への手紙一 12:1



「兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。」(コリントの信徒への手紙一 12:1)


 バイオテクノロジー(生命工学)に関するテレビ番組を見て、随分考えさせられたことがありました。現在、病院では「出生前診断」が行われていますが、これはまだ生まれる前の胎児を診断して、先天性異常を発見する、そのような検査だそうです。その場合、もし先天性異常が発見された場合、苦渋の選択を両親に迫ることにならないでしょうか。それは、遺伝子に欠陥を持っている人は、生まれるに値しない存在と判断される恐れが生じるのではないでしょうか。あるいは、昔から優秀な頭脳や美しい容姿をもった人の精子と卵子を掛け合わせて、理想的な子どもを作ろうとするアイデアがありました。今世紀は益々このような技術が発達して、遺伝子操作によって、優秀な人間を生み出す、そういうことが可能となってくるという報告であります。

 そうなりますと、IQが200あり、運動能力は抜群、容姿もモデル並という、スーパーマンのような人間が続々生まれてくるかもしれない。クローンという技術もあります。優秀な同じ人間を、いくらでも増殖させる技術です。そして、その優秀な者たちが、当然のこととして、世界の政治経済学問スポーツを牛耳る。一方、そういう遺伝子操作を受けないで、自然のまま生まれてきた、私たちのような「ネイティブ」は、世間の片隅に追いやられて、劣っている人種として細々と生きる他はなくなる。人類は、そのように激しく二極分化される。そういう悪夢のような近未来が、その番組で予想されるのです。

 それを見ながら、私は思いました。優れた者ばかりであればいいのか。美しい者ばかりの世界でいいのか。容姿に劣等感をもち整形手術を受ける人もおります。その結果、確かに美しくなりますが、何か規格品のような魅力に欠けるということはないでしょうか。つまり同じ者ばかりの世界でいいのか。弱い者や、劣った者、一見醜く見える者がいてはいけないのか。多様な者、いろいろな者がいていいのではないか、そう思うのです。

 使徒パウロは、こう言いました。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」(コリント一12:22)

 それは、弱い部分があっても迷惑をかけない限り、いてもいいよ。温情で生存を許してやろう、などと言う意味では全くありません。弱く見える部分が、かえって必要なのです。積極的に必要なのだ、全体のために、弱い者、格好悪い部分が必要なのだ。そうパウロは訴えているのです。

 神様は、生物を実に多様なものとしてお造りになられました。一つとして同じものをお造りにならない。確かに、同一種類の動物は、皆似ているように見えますが、遺伝子レベルの分析をしてみると、全く同じものは一つとして存在しないそうです。遺伝子の組み合わせは、殆ど無限だからであります。神様はそうやって、生物を真に個性豊かなものとしてお造りになった。どうしてかということであります。

 ある科学者がこう言いました。オーストラリアがイギリスの植民地であった頃、ハンティング用に兎が持ち込まれた。ところが、その土地には、天敵の狐がいないこともあって、兎が大繁殖した。作物が大打撃を受けた。そこで兎撲滅作戦がとられましたが功を奏しない。そこで、ある病原菌ウィルスを輸入します。兎だけに感染し、死をもたらす。瞬く間に兎は死んでいきました。しかし、この作戦も失敗したのです。一部の兎が生き残った。つまり、そのウィルスに生まれながら、免疫力をもつ兎が存在したのです。

 あるいは、沖縄に「白帯アゲハ」という蝶がいる。名の通り白帯が羽に描かれている蝶です。黒と白だけの鮮やかなコントラストをもつ、実に美しい蝶。ところが、その雌の中に、赤い斑点が混じっている少数派の蝶がいる。雄は、白い帯を好むのだそうです。ですから、赤い斑点をもつ雌は出会いのチャンスが少ない。つまりその雌は、雄から見た時、好ましくない。はっきり言えば醜くいのです。ところが、天敵の鳥が、何故かこの赤いタイプを食べないのです。それは沖縄にもう一つ「紅紋アゲハ」という、やはり赤い斑点をもつ、アゲハがいるのですが、これは毒をもつ。天敵の鳥は、それと誤解して、赤いタイプの白帯アゲハを食べない。 ある時、その天敵の鳥が大繁殖した。白帯アゲハは食い尽くされるかに見えた。しかし、赤の混じるタイプが生き残り、そのことによって、白帯アゲハは絶滅を免れたというのであります。

 「生物の多様性というのは、私たちには、直ぐには何のためかわからない。それはあくまで謎だ。一見無意味にすら見える。しかし、環境の変化の時に、生きる残る可能性が、そこに秘められている。」いざという時、その個性の意味がわかるのだ、と。それまでわからない。よそから見たってわからない。本人にはなおさらわからない。何故自分が白い帯だけで縁取られた美しい羽をもたないのか雌はわからなかったと思う。どうして自分だけが、みなと違って生まれたんだろう。それで損ばかりしてきた、と悩んだと思う。しかし、その赤いタイプは、いざとなった時、全体の生命を守る存在となったのです。

 「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(12:7)とある通りに。

 他の蝶が相手にしなかた蝶、欠陥を持っているようにすら見えた赤い斑点の蝶が、実は、自分でも知らなかったのですが、その種類全体の生命を保ち、守る「希望」そのものだったのであります。

 私たちがこの人生(教会)の中で出会う人々、大人も子どもも、それは真に多様で個性豊かであると思います。その兄弟姉妹の個性を、この世の画一的な優劣の基準や価値観に惑わさず、かけがえのない唯一無二の宝物として受け入れることが大切なのです。しかしそうであれば、何よりも真っ先に、自分が自分を受け入れるための激しい戦いを、私たちはしなければならないと思うのです。私たちもまた、秘かに、何故私は美人じゃないんだろう、どうしてあの人のように格好良くいかないのだろうと、他人と比較して、思い悩むことが多いのではないでしょうか。そして、自分なんて生まれてこなかった方が良かったなどと、投げやりになるかもしれない。あるがままの自分を愛し受け入れることが出来ない人は、同じく、他者をあるがまま愛し受け入れることはできないのではないでしょうか。

 「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」

 弱い部分が必要なのだ。どうしても必要なのだ。つまり、あなたが必要なのだ。あるがままのあなたが!

 「賜物」(12:4)という言葉があります。これは原語では「カリスマ」という言葉です。カリスマと言いますと、カリスマ美容師とかカリスマ教師と呼ばれる人が登場して、普通の人にはできないようなたぐいまれな才能を現す、そういう時にカリスマという言葉が用いられます。そうであるならば、平凡な私たちは、カリスマを生涯持つことはないのでしょうか。そうではありません。聖書は聖霊の働きによって、人々には種々のカリスマ、賜物が与えられると、ここで語っているのです。それは決して特別に人々の目を引きつけ、賞賛の声が挙げられるようなものばかりではない。多くの人の目には隠されている、誰も誉めてくれない。しかしやはり、それはカリスマ(賜物)であって、神様はご自身の神の国建設の大事業の一部分に用いて下さる。そう聖書は、時に無力と失敗に悩み、劣等感の虜になる私たちに、いや、あなたにも聖霊の働きはある。聖霊は必ず一人一人に何らかのカリスマを与えられると訴え、私たちに、自分にしかできない、特別の使命に気づかせようとしているのです。

 一つの物語を引用することをお許し下さい。「ルイ王の御代、フランスにひとりの哀れなバルナバと呼ばれる軽業師がいた。」と始まる作家アナトール・フランスの書きました『聖母の軽業師』という魅力的な短編です。

 彼はある日、誘われるまま、修道僧になりました。そこで見たものは、僧たちが聖母に献身し仕える真剣さであった。僧院長は、スコラ神学の法則に従って、神の御母のさまざまな美徳を述べる本を書いていた。モーリス修道士は、僧院長の論文を仔牛のなめし革の上に写し取っていた。さらにアレキサンドル修道士は、そのうえに精巧な細密画を描き入れた。…修道院に入ってからというもの、バルナバはそれらの優れた賜物をいつも見せ付けられるようになる。ああ、私は無骨もので何の芸もございません。信者に感銘を与える説教も、論文も、器用な絵も、なにひとつないのでございます!

 考えあぐねた末に、彼は一人で礼拝堂に通うようになる。皆はそのうち不思議に思うようになった。院長は責任上、バルナバが一人で礼拝堂にいるところを観察しようと決心した。院長どのは古参の修道士ふたりをつれて、扉の隙ごしに覗いてみた。

 「と、バルナバは聖母像の祭壇のまえで、頭をしたに、両足を持ち上げ、六つの銅の玉と十二本のナイフを使って、軽業をやっているではないか。かれは神の母なるマリアを讃えるために、そのむかし観客にいちばん賞められた芸を演じているのであった。…そんなことはつゆ知らぬふたりの老僧は、神を涜(けが)す行為だとして大声で非をならした。…そこで三人はいそいで軽業師を礼拝堂から引きずり出そうとした。と、そのとき、三人の目には聖母マリアが祭壇の階段を降りてこられる姿が映った。聖母は青いマントの裾で、バルナバのひたいからしたたり落ちる汗をお拭いになった。そこで、院長は敷石に顔を押しつけるようにしてひれ伏し、つぎのようにとなえた。『さいわいなるかな、率直なる人、かれらは神を見るべければなり』『アーメン!』ふたりの老僧も地面に口づけしながら答えた。」(鈴木力衛訳)

 この聖母は、私たちの信仰では御子イエスに他なりません。自分のできる精一杯の愛を差し出せばいい。他の人と比較する必要なんてない。御子は喜んで受て下さる。

 あるいは、聖書の民の古い知恵には、このような言葉があります。ラビ(教師)のスシアは、その死に際してこう語りました。「来るべき世において、私は『なぜ、お前はモーセ(旧約最大の指導者)ではなかったのか』と尋ねられはしないだろう。むしろ、神様は私にこう尋ねることだろう。『なぜ、お前はスシアではなかったのか』と」。私たちは、死に際して、優れた他の誰かのようになれなかったことを責められることはありません。もし責められるとしたら、造られたままの自分自身にならなかったことです。つまりいつも自分を否定して生きた。自分が嫌いで、自分以外の者になろうと、ひたすら背伸びする人生であった、それこそが天国で罪として問われると言われているのです。

 自分自身になりなさい。自分を愛しなさい。聖霊の賜物を既に得ているはずの自分を受け入れなさい。あなたにだけが出来ること、あなた独自の役割は、必ず告げられる。いやもう、礼拝において、あなたは御体の一部に既になり、あなたの役割を果たしているではないか。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(12:27)今私たちが献げているこの礼拝(サービス)こそ究極の神奉仕(サービス)です。礼拝に人がもし来なければ教会は滅びる。そうであれば、他に何もしなくてもいい、これからキリストの体に努力してなろうというのではない。もう現実になっているではないか。このキリストの御体であるパンが用意されたこの日の礼拝に、あなたがいることの中に、あなたの存在の最大の使命は既に果たされている。その礼拝を守る信仰と力が、聖霊の賜物として既にあなたに与えられている。あなた自身が聖霊の賜物なのだ。そうであれば、こう言ってもよい。聖霊の賜物を信じることの中で、私たちは自信をもっていい。自分を受け入れ、自分を愛するのです。自分が役に立っている人間であると、教会を建てている人間であると、礼拝参与において(お身体が不調な兄姉は病床にあって祈って下さる中で)それを100%、確信していい。聖霊を信じることの中で、自信が生まれる。「生まれてきてよかった!」と叫ぶことが出来る。



 祈りましょう。  使徒パウロが何としても教会を分裂から救うために語っている、霊の賜物についての知恵を今授けて下さり心より感謝します。聖霊の賜物を等しく受けている私たちが、一つなる西片町教会にどうしても必要な部分だと覚え、顔をあげ、胸はって、主の食卓の前に参じる者とならせて下さい。

 (2008年6月15日~7月6日の4回の主日礼拝において、コリント一12章の連続講解が行われましたが、それをここでまとめました。)





・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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