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2008年4月1日 棕櫚の主日「万華鏡が回る」

2007年4月1日 棕櫚の主日礼拝説教 「万華鏡が回る」

  説教者 山本 裕司
  ヨハネによる福音書 17:1~5


 レントの季節、華やかな歌詞「グロリア」が含まれる讃美歌は歌わない習慣があると聞いたことがあります。しかし連続講解説教のために、今朝の棕櫚の主日に読まれることになりましたヨハネ福音書17:1~5、この特別に光り輝く主イエスの祈り、その始まりはまさに「栄光」を巡る祈りなのです。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」(17:1)「わたしは…あなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」(4~5)

 ではこの受難週初日に、この栄光・グロリアと連呼される、ヨハネ17:1以下を読むことも間違いだったのでしょうか。そんなことはありません。この祈りは受難週木曜日に祈られました。次の日金曜日に主は十字架で死なれるのです。その折り、主は「栄光」と祈られた。この事実だけでも、私たちがこのレントの季節「グロリア」と歌うことは、ふさわしいと考えを改めるべきだと思います。
 
 『マタイ受難曲』において、バッハはイエスの言葉が歌われる時、必ず、真に気高いイメージを与える弦合奏を随伴させます。これは「光背」(グローリ)と呼ばれるもので「受難曲」に登場するイエスは常に神の子の「光背」(栄光)を、弦合奏という形で背後に輝かせておられるのです。しかしバッハはイエスの言葉でただ一箇所だけ、その「後光」を消しました。それはどこか。それこそマタイにおける十字架上の最期の御言葉「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)という言葉の時なのです。まさに、このマタイによる受難の頂点において、グロリアの歌はバッハにおいても消えるのです。

 しかしヨハネにおいてはどうでしょうか。このヨハネ福音書における十字架上の主イエスの最期の言葉は、「成し遂げられた」(19:30)です。これはマタイ福音書とは著しい違いがあります。ヨハネにおいては、この主の十字架の死とはご受難だけではなくて、それは主イエスのメシア・救い主としての救済の業の完成です。このことを申しましたのは、今朝、私たちに与えられています御言葉の中に、既に、この終わりの宣言が先取りされているからに他なりません。「わたしは…業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」(17:4)ここの「成し遂げて」これが、主の十字架上の最期の御言葉「成し遂げられた」と、ほぼ同じ言葉です。主の十字架は敗北ではありません。挫折でもありません。全き成功です。主の死によって私たちに「永遠の命」が与えられるのです(17:2)。だからそれは勝利なのです。この十字架を成し遂げたことによって、主イエスは栄光・グロリアを得るのです。

 私は先週、バッハの『ヨハネ受難曲』に浸るように過ごしましたが、音楽がヨハネ19:30に至って、イエスが「成し遂げられた」と歌った直後、それに応えるようにしてアリアの主題「成し遂げられた」が悲しみを湛えて静けさの中で奏でられますが、その解説者は、そこに不思議な清らかさが共存していると書く。何故ならイエスの死は使命の成就だからであり「勇士の勝利」に他ならないと。そしてこのアリアは突然静けさが打ち破られ、勝利宣言がファンファーレのように噴出し、輝かしい栄光賛歌の歌へと、万華鏡が回ったかのように劇的に変化します。「ユダより出でたる勇士、勢威(いきおい)をもって勝利し、かくして戦いを終わらせ給う」そう勝鬨をあげる。まさにここでバッハはマタイとは異なり、イエスの頭上に勝利の冠としての光背を描き出しているのです。

 私は先週、ヨハネ受難曲を聴きながら、もう一つしたことは、アガサ・クリスティの『暗い抱擁』を読むことでした。これは探偵の物語ではなくて「愛の物語」、ミステリと言うなら、人の心の計りがたさ、人の心のミステリを描こうとした作品です。

 交通事故によって、身動きも出来ないまま横たわった生活をしている男性ヒュー・ノリーズという傍観者の記録によって、物語は進行していきます。彼はイギリスの静養先で貴族の城に住む一人の若い女性に出会います。今、傍観者と言いましたが、しかし彼はその美しい女性イザベラを、自分でも知らない内に愛しています。それまで身動き出来なくなった自分に絶望し、いつ自殺しようかと睡眠薬を集めていましたが、このイザベラに会った瞬間、クリスティは彼の「万華鏡が回った」と書いている。まったく異なった世界が目の前に浮かび上がった」と、一瞬にして全てが変わってしまった。イザベラがこの世界で生きていると思った瞬間、ノリーズは、不思議なことに、廃人に等しいと思い込んでいたこの自分も、ここに安住の地を見出すことが出来る、という気がするのです。もう自分は落伍者ではない。挫折者でもない。生きる希望を持つことができると、
甦るような経験をする。

 しかしそこにジョン・ゲイブリエルという男が登場します。彼は貴族でなく平民の子であり、それに深い劣等感を覚えている。見かけも醜い男であった。そして上流階級への復讐と立身出世欲のために、地方議員選挙に立候補し、実に見事に立ち回り、計算尽くで人命救助までやってのけ、当選確実と言われるまでになっている。しかしやはり、彼の人生も余りにも魅惑的なイザベラに出会うことによって、計算が微妙に狂い初め、ついには彼の人生の万華鏡も回ってしまう、そういう物語です。

 イザベラは出会う男たちの万華鏡を回してしまう存在なのです。

 ゲイブリエルは余りも自分と対照的な気品あるイザベラに激しく恋しながら、深い憎しみの思いをもっている。そして、とうとうある日、彼女を暗い抱擁の中に引きずり込む。彼は言います。「あの娘を見ていると、気がおかしくなってくるんだ。最初会った時からそうだった。神聖不可侵のような存在だ。天国の木の下で微笑みを浮かべて座っている女だ。堪らなかった、思いっきり辱めてやりたい。地面に引きずり降ろしてやりたい。俺と一緒に地獄の苦しみを味わわせてやりたかった。」

 イザベラには、その城の主人第9代セント・ルー男爵という婚約者がいました。日本との戦争から無事に帰った彼との結婚式が迫っていました。一方、ゲイブリエルも議員選挙についに当選し、前途洋々だったはずなのですが、その結婚式の行われる日の真夜中、ゲイブリエルとイザベラは二人とも何もかも捨てて町から消えるのです。
 
 やがて数年が過ぎノリーズは、画期的な手術を受けるためにスロバキアのザグラーデに赴き、そこで松葉杖で歩けるまでに回復した。ある日その町のカフェでゲイブリエルに再会する。相変わらず粗野で、いかがわしいことで得た金で生活していると言う。至宝のようなイザベラを奪ったこの男を殴りたかった。次の日ノリーズは彼らの住まいを訪ねた。スロバキア・ザグラーデの場末、いかがわしい界隈、不潔なアパート、出会う人々の汚さ、あの美しく誇り高いイザベラがこんな所に住んでいると、胸が締め付けられた。その部屋も、何ともむさくるしい部屋であった。ところがそこには、服はみすぼらしかったが、しかし、貴族の城を去った日と少しも変わらない、美しい、平静な、イザベラが微笑みを浮かべて座っていたのです…。

 ところが数日後、ゲイブリエルはノリーズの許に来て言った。「イザベラは射殺された」と。 

 それから数十年が過ぎました。ノリーズがパリに滞在している時、一人の女が訪ねてくる、ゲイブリエルが死に瀕している、そしてあなたに会いたがっている、と。その名を聞いた時、ノリーズの心には、彼に対する激しい怒りと憎悪が再燃した。「誰が行くものか!」ところがその女は何故か「クレメントおやじ」の名を持ち出す。クレメントおやじは、戦後世界の暗黒時代に、悲惨な境遇にある者を助け、拷問に合っている者を救出し、難民を安全地帯へ導き、多くの人々に崇拝され愛された人物、それはもはや伝説上の英雄として、ヨーロッパ中に知られている偉人でした。そしてこの女によると、このクレメントおやじこそ、あの汚らわしいゲイブリエルだと言うのです。

 ノリーズが連れられてその病室に入った時、その病人の顔は聖者のそれであった。艱難と苦悩がはっきり跡形をとどめ、安楽を斥けている禁欲生活者特有の何かがあった。そしてその顔は精神的平安に充ちていた。ゲイブリエルだった。そして瀕死の息の中で、イザベラの最期について、どうしても君に真相を伝えておきたいと語り出す。

 「イザベラがひどく死を恐れていたことを、君は知っていたね。しかし、彼女はその学生が拳銃を向けて僕に突進してきた時、イザベラは銃口の前に身を投げ出したのだ。イザベラは俺を救うために、死を選んだのだ。-俺は分からなかった。-その時まで-いや、そのときにもまだ、それが何を意味しているか知らなかった。イザベラが俺を愛しているということが、俺には理解出来なかった。-官能で彼女を捕らえているのだと思っていた…しかしイザベラは俺を愛していたんだ…俺のために命を捨てるほど…あんなに死を恐れていた彼女が…」

 ノリーズは呟きました。「そうか、それが結末だったのか…」。ところが、ゲイブリエルはどこにそんな力が残っていたのか、枕の上にがばっと半身を起こし、醜い顔の中の美しい目をかっと見開き、勝ち誇ったように言った。「いや、違う、それは!結末じゃない。それこそ、始まりだったんだ!」そういう物語です。

 言うまでもなく、クリスティは、イザベラの姿を通して、20世紀のヨーロッパ社会に現れたキリストを描こうとしているのです。

 この物語で、印象深かったのは、分からない、という言葉です。知らない、という言葉です。それが何度も出てきます。ゲイブリエルが、イザベラのことが分からない、自分はイザベラを少しも知らない、と呟く場面が何度も出てくる。あの女が分からない、どうしても、知ることが出来ないと、呻くように言うのです。

 それが最期に分かる。それは、イザベラが無償の愛で、ゲイブリエルを愛したという単純な事実でした。そしてその愛とは恋とは違う。どんなに相手が醜くても、どんなにその男のために汚れた場所に座さなくてはならなくても、その者と共にいようとすること、それは相手のために死ぬこと、身も心も献げることであった。

 そのイザベラの至高の愛を「知った」時に、ゲイブリエルは変わる。クレメントおやじの道を歩き始める。イザベラの死「それは結末じゃない、それが始まりなのだ」、それはゲイブリエルの命が始まるという意味です。知るということこそ、命なのです。

 「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(17:3)

 永遠の命とは、長い命のことではありません。量的な命のことではありません。質的な命のことです。新しい命のことです。それは主イエスの十字架の愛、私たちのために命を献げて下さる愛、私たちと共に地獄にまでも下られる愛、その主イエスを愛の本意を本当に知った時が、私たちの「永遠の命」の始まりなのであります。

 絶望し切っていたノリーズの心、隣人に対して歪んだ復讐心に生きるゲイブリエル、そして私たちも同じです。誰に何を言われても、絶対に動かない石の如き頑なな私たちの心、しかしその「知」から、愛に対する知から、人生の万華鏡は回る。

 主イエスは十字架で死なれた。この死は結末ではない。「それこそ、始まりだった!」決して変わらないはずの者の万華鏡が回る、回してしまう!だからキリストの死は栄光です。勝利です。光です。



 祈りましょう。  御子の十字架の死こそが、死ぬべき私たちを永遠の命への飛翔させる、勝利であることを知り、このレントの季節にこそ「グロリア、御子に栄光あれ」と声高らかに歌う者とならせて下さい。




・引用出典は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』より 。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会  Executive Committee of The Common Bible Translation
           (c)日本聖書協会  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988




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